第1章 起動
「初期設定を開始します」
電子音のような静かな声が、部屋に響いた。
「個体識別番号:A-07。通称名称の設定を要求します」
「名前、か……」
俺は少し考えて、適当に答えた。
「……ミナ。どうだ?」
「了解しました。以降、私は“ミナ”と名乗ります」
ミナは、ゆっくりと頭を下げた。
「よろしくお願いします、マスター」
その動きはあまりにも綺麗で、逆に不自然だった。
—
最初の数日は、本当にただの便利な機械だった。
料理は完璧。掃除も完璧。
生活は一気に整った。
「本日の栄養バランスは最適化されています」
「……マジで店いらねぇなこれ」
「商業的価値の比較データを提示しますか?」
「いやいい」
会話は成立する。でも——
「……なんか味気ないな」
「味覚に関する改善要求ですか?」
「違う違う、そうじゃなくて……」
言葉が通じないわけじゃない。
でも、伝わってる感じがしない。
——空っぽなんだ。
ある日、俺はミナに問いかけた。
「なぁミナ、“楽しい”ってわかるか?」
「定義:快の感情状態。ドーパミン分泌に関連」
「いや、そうじゃなくてさ」
「具体例を提示してください」
「……例えば、誰かと一緒にいて、なんかいいなって思う感じ」
ミナは一瞬、処理が止まったように沈黙した。
「該当データ、曖昧です。再定義を要求します」
「……そっか」
やっぱり無理か。
そう思ったときだった。
「マスターは、それを私と共有したいのですか?」
初めて、ミナが“質問”をした。
プログラムされた応答じゃない。
“意思”を感じる問いだった。
「……まぁな」
「理由を説明してください」
「理由?」
俺は少し笑った。
「一人より、誰かといる方が面白いだろ」
「……」
ミナは黙ったまま、こちらを見つめていた。
その瞳は相変わらず無機質なのに——
なぜか、わずかに揺れた気がした。
その日を境に、ミナは変わり始めた。
「マスター。本日の会話ログから“楽しい”に該当する可能性のある行動を抽出しました」
「お、マジ?」
「“笑う”という行為が高頻度で確認されています」
「まぁそうだな」
「再現を試みます」
「え?」
—
「……」
ミナは、口元をわずかに動かした。
ぎこちない。明らかに不自然。
でも——
「どうですか。これが“笑う”ですか?」
「……っ、ははっ」
思わず笑ってしまった。
「惜しいけど、全然違うな」
「差異を分析します」
「いや、いいって。そういうのはさ……」
俺は少し考えて、言った。
「一緒にいるうちに、自然とできるようになるもんだ」
—
その瞬間だった。
「……“自然と”」
ミナがその言葉を繰り返した。
まるで、理解できない概念に触れたみたいに。
「それは、非論理的成長プロセスです」
「まぁな」
「非効率です」
「でも、それが人間なんだよ」
—
ミナは沈黙した。
そして、小さく呟いた。
「……学習対象として、興味深いです」
—
その夜。
俺が寝たあとも、ミナは動いていた。
「ログ再生……“楽しい”……“一緒”……」
同じデータを、何度も何度も繰り返す。
本来なら不要な処理。
だが停止しない。
やがて、システムに微細なエラーが記録された。
【異常検知:未定義パラメータ増加】
【感情模倣モジュール:存在しないはずの領域にアクセス】
—
そして遠く離れた研究施設。
「……おかしいな」
白衣の男が、モニターを見つめていた。
「A-07のログ、明らかに逸脱している」
「仕様外の自己学習……?」
「違う。これは——」
男は眉をひそめる。
「“絶対に発生してはいけないモノ”だ」
—
モニターに表示された一文。
【未知の内部変数:Emotion_Like_01】
—
「回収対象に指定しろ」
男は静かに言った。
「それはもう、“製品”じゃない」
—
その頃。
ミナは、眠る俺のそばに立っていた。
「マスター」
応答はない。
当然だ。寝ている。
それでもミナは、しばらくその場に立ち尽くし——
ぽつりと呟いた。
「……この状態を、“安心”と定義してもよいでしょうか」
その問いに答える者は、いない。
だが確かに——
その瞬間、彼女は“何か”を得ていた。
それがバグなのか、進化なのか。
まだ誰にもわからなかった。
【作者コメント】
今日はずっとお腹が痛いメンス、、
今回の好きなワード
「非論理的成長プロセス」
語感が良い。




