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海上転移門の起動

白い門は、呼吸するみたいに脈打っていた。


海面に描かれた幾重もの輪は、ひとつ深く明滅するたび、こちらの世界の色を少しずつ薄くしていく。

 水の青が退き、かわりに向こう側の白がにじむ。

 床なのか、空なのかもまだわからない、けれど確かに「ここではない場所」の色だった。


誰もその中心へ近づかない。

 近づけないのではない。

 女神ニケが見守る前で、その順番を乱すことができなかった。


救助の手だけは止まらない。

 傷ついた兵が担架で運ばれ、曳航索が引かれ、沈む艦からまだ動ける者が移されていく。

 泣いている者もいた。

 呆けたまま働く者もいた。

 けれど全員の視線の端には、白い門があった。


「……開く」  サトリが呟いた。


輪の中心が、さらに深く沈む。

 海が割れたわけではない。

 だが海の顔をした何かが、そこだけ静かに裏返る。


タキオンが低く言う。 「全艦、進路固定。門の縁に波を立てるな」  蒼い巨機の残る外装が軋み、海上で姿勢を制御する。 「何が出ても、先に撃つな。ニケ様の合図を待て」


「ようやく頭のいいことを言ったな」  ツキノワが短く返したが、声にはいつもの軽さがなかった。


ラビ艦長は触腕の先を海中へ深く沈め、門の周囲の流れを読んでいる。 「圧が変わっています。開口ではなく、接続ですね」 「安定するのか」  タキオンが問う。 「します。……いえ、させている。誰かが向こう側から支えています」


その言葉の直後だった。


白い門の中心に、はっきりと影が浮かんだ。


小さい。

 人影というには、あまりに小さい。

 いや、ひとつではない。ふたつだ。


「子ども……?」  サトリの声が掠れる。


影はゆっくりとこちらへ近づいてきた。

 泳いでいるのではない。落ちてもいない。

 白い薄膜に包まれたまま、水にも空にも属さない動きで、門の中心から押し出されてくる。


やがてそれが門の縁を越え、海上へ静かに現れた。


光の繭だった。


掌で包めるほど小さくはない。

 二人の子どもを並べて眠らせられるほどの、白く透き通った繭。

 その内側で、双子が身を寄せ合うように眠っている。

 怪我はない。

 泣いてもいない。

 ただ、長い長い揺れのあと、ようやく安全な場所へ辿り着いたみたいに深く眠っていた。


「双子だ!」  サトリが叫んだ。 「双子が戻った!」


それは歓声にいちばん近い声だった。

 海上のあちこちで、息を呑む音が重なる。

 タキオンが一歩踏み出しかけ、ツキノワが拳を握りしめ、ラビ艦長の巨大な目が静かに細められる。


だがニケはまだ手を上げたままだった。


「待ちなさい」


その一言で、全員が止まる。


光の繭は、誰にも触れられないまま、凪いだ海面をすべるように進んだ。

 まるで送り届ける先を知っているように、真っ直ぐドルドアの主艦へ向かう。

 そして艦首の直下、もっとも波の穏やかなところで、そっと動きを止めた。


ニケが翼をひと振りする。

 金の光がひとすじ落ちる。

 それに触れて、白い繭は音もなくほどけた。


双子だけが残る。


甲板から降ろされた柔らかな網に受け止められ、二人はようやくこちらの世界の重さを取り戻した。

 眠ったまま、微かに胸が上下している。


「生きてる……」  サトリはほとんど泣き声で言った。 「本当に」


「ええ」  ニケの声は静かだった。 「この子たちの帰還は成りました」


その言葉で、双子をめぐる不安は終わった。

 少なくとも、ひとつは。

 守られた約束が、確かにここへ戻ってきた。


けれど白い門は、まだ閉じない。


海上の空気が、再び引き締まる。

 誰もが同じことを考えていた。

 ならば次に現れるのは誰か。

 あるいは何か。


門の中心で、白がゆっくりと深くなる。

 底なしの光。

 その奥に、今度はふたつの影が浮かび上がった。


今度は見間違えようがなかった。


ひとつは大きく、翼を持つ影。

 ひとつは小さく、その胸元に寄り添う影。


サトリの喉が鳴る。

 ツキノワが目を見開く。

 タキオンの手が、今度こそ震えた。


「ルビー」  誰が呼んだのかはわからなかった。 「ピンキー」


黒龍の巨体ではない。

 爆散の直前に一瞬だけ重なった、あの輪郭に近かった。

 人の姿をしたルビー。

 その傍らにいるピンキー。

 どちらも白い光の中にいて、こちら側へ踏み出す寸前で静止していた。


門は開いている。

 道もある。

 それでも二人は越えてこない。


その意味を、ニケだけが最初から知っていたように、動かなかった。


ルビーが口を開く。

 声は海を渡るというより、門の内側から全員の胸へ直接落ちてきた。


「間に合った」


それだけで、サトリは涙をこぼした。


ピンキーが笑う。

 疲れた顔だった。

 けれどいつもの、あの無理に強がる笑いではない。

 もう怖がらなくていい者の、小さくやわらかな笑いだった。


「双子、ちゃんと返せたよ」


タキオンが一歩、前へ出る。 「ならおまえらも来い!」  怒鳴るみたいな声だった。

 命令ではない。懇願に近かった。 「道があるんだろ! 開いてるなら戻れ!」


ルビーは首を横に振った。


「戻るための道じゃない」  その言葉は、静かすぎるほど静かだった。 「これは、残したものを帰す門だよ」


ツキノワが歯を食いしばる。 「ふざけるな。じゃあおまえたちは何だ」 「見送り」  ピンキーが言った。 「最後の」


海上のどこかで、誰かが息を呑んだ。


門の向こうの光が、わずかに揺れる。

 二人の輪郭も、それに合わせて細くなる。

 長く保たないのだと、誰の目にもわかった。


ニケがようやく口を開いた。


「帰還の成否を告げます」


その声は厳かで、どこまでも明確だった。


「双子の帰還は成功しました。

 生存者の帰還路も、いまここに成立しています」


白い門が、ひときわ強く脈打つ。

 その輪が、海上の艦隊を包むほど大きく広がり、向こう側へ続く航路の形を見せた。

 帰れる。

 少なくとも生き残った者たちは、この門を通って帰還できる。

 それがはっきりとわかる。


だがニケは続ける。


「しかし、黒龍ルビーとピンキーの個としての帰還は成りません」


誰も声を出さなかった。


その宣告は残酷だった。

 けれど残酷であることより先に、もうその通りだと全員が知っていた。

 門の前に立つ二人は、こちらへ来られないからそこにいるのだ。

 踏み出せるなら、こんな別れ方をするはずがない。


サトリが泣きながら顔を上げる。 「じゃあ、どうして……どうして出てきたの」


ピンキーが少しだけ肩をすくめる。 「見送らないと、終われないでしょ」


ルビーは海を見た。

 傷ついた艦。

 救命艇。

 生き残った仲間たち。

 そのすべてを、一度に抱きしめるみたいな目だった。


「勝って」  ルビーが言う。 「帰って」


短い言葉だった。

 けれどそれで十分だった。

 あの爆散の意味も、二人が何を残していくのかも、全部そこに入っていた。


タキオンはうつむいたまま、何も言えなかった。

 ツキノワは片手で顔を覆い、もう片方の拳を膝に打ちつける。

 ラビ艦長は静かに頭を垂れ、その巨大な影が海へ深く落ちる。


ニケは艦首に立ったまま、門の前の二人を見つめる。 「言い残すことは」


ピンキーが先に答えた。 「いっぱいあるけど、長くすると泣くからやめる」  それからサトリの方を見て、 「双子のこと、お願い」 「……うん」  サトリは何度も頷いた。 「うん、任せて。任せて、だから」


ルビーはニケへ目を向けた。

 女神はただ静かに受け止める。


「勝利、ありがとう」  ルビーが言う。


「それはあなたがたちのものです」  ニケは答えた。 「わたしは定めただけ」


白い門の奥で、風のようなものが吹いた。

 二人の輪郭がさらに薄くなる。

 もう、本当に長くはない。


ピンキーが最後に手を振った。

 子どもみたいに大きくではなく、照れたみたいに小さく。


「じゃあね」


ルビーは何も言わなかった。

 ただ微笑んで、こちらを見た。

 その顔だけが、爆散の閃光よりもはっきり全員の胸に残った。


次の瞬間、二人の姿は白い光の中へほどけた。


消えたのではない。

 引き裂かれたのでもない。

 役目を終えた光が、あるべき場所へ戻っていくような消え方だった。


海は静かだった。

 あまりにも静かで、誰もすぐには泣けなかった。


やがて白い門だけが残る。


今度のそれは、別れのための穴ではなく、確かな航路の形をしていた。

 向こう側の白い空間の奥に、帰るべき場所の色がかすかに見える。

 見慣れた港の光か、あるいは本来の世界の空か。

 そこまではまだわからない。

 だが少なくとも、これは閉ざされた道ではなかった。


ニケが翼をたたむ。


「これで定まりました」


女神の声は、涙を許しながらも、なお次を命じる声だった。


「双子は帰還しました。

 生存者もまた、帰還できます。

 失われた者たちは、ここで勝利の中に記されました」


金の瞳が、海上のすべてを見渡す。


「総員、帰還準備。

 負傷者を先行させなさい。

 記録を持ちなさい。

 名を持ち帰りなさい。

 この門が開いているあいだに、生き残ったすべてを向こう側へ渡しなさい」


その言葉で、海上の時間がまた動き出す。


泣いていた者も立ち上がる。

 担架が運ばれる。

 双子は厚い毛布にくるまれ、主艦の内側へ慎重に運び込まれる。

 曳航できない艦から順に人が降ろされ、帰還順が決められ、門へ向かう列が海上に組まれていく。


サトリは最後に一度だけ、白い門を見た。

 もうそこにルビーもピンキーもいない。

 けれど不思議と、完全な空白ではなかった。

 二人が最後に残した「帰って」が、門そのものに染み込んでいる気がした。


タキオンが低く言う。 「帰るぞ」  それは命令だった。

 同時に、祈りでもあった。


「ええ」  ラビ艦長が応じる。 「ようやく」


ツキノワは乱暴に目元をぬぐって、空を見上げる。 「最終回みたいな空だな」  誰も笑わなかった。

 けれど、その言葉を否定する者もいなかった。


空は高く、澄みきっていた。

 砲火の痕も、黒煙の尾も、もうどこにもない。

 その下で、勝ち残った者たちはようやく本当の意味で進み始める。

 戦場からではない。

 勝利から、帰還へ向かって。


白い門は海の中央で静かに開いている。

 生きている者を返すために。

 失われた者の名を、向こう側の世界へ持ち帰らせるために。


そして勝利の女神ニケは、その艦首に立ち続ける。

 この戦いの結果が、ただの終わりではなく、帰るための形になるまで見届けるために。


――帰還は成る。

 だが、全員ではない。


その事実を胸に抱いたまま、ドルドア艦隊は白い門へ進み始めた。

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