黒龍の胸へ続く一条
黒龍と化したルビーが、空を裂いた。
その巨体はもはや「飛ぶ」という言葉では足りなかった。
翼を一振りするたびに海面が抉れ、沈みかけた旗艦の残骸が波に跳ね、まだ空に残っていた敵艦の進路すら乱されていく。
黒い鱗に覆われた躯は夜そのもののようでありながら、瞳の奥にだけ、金色の火が残っていた。
その火が消えていない。
だからまだ間に合う。
そう信じるしか、ピンキーにはなかった。
「ルビー!」
叫びは風に千切れ、それでも届いた。
黒龍の首がわずかにこちらを向く。
その隙を逃さず、上空に残っていた二隻の敵艦が同時に砲門を開いた。
「撃たせるな!」
海から跳ね上がったラビ艦長の巨体が、横合いから敵艦の腹を殴りつける。
漏斗から噴き出す蒼白い推進流が海霧を吹き飛ばし、照準をわずかに逸らす。
だが、完全には止めきれない。砲火はなお黒龍へ向けられ、龍が吐き返す黒金の炎と交錯し、空の中央で巨大な閃光となって炸裂した。
衝撃が遅れて海へ落ちる。
水柱が何本も立ち、残骸の上にいたピンキーの身体がぐらりと揺れた。
それでも彼女は落ちない。
つま先で砕けた甲板を捉え、腰を沈め、白銀の必殺技アイテムを手放さずに持ちこたえる。
遠方で、タキオンの巨機が敵艦の舷側へ拳を叩き込んだ。
装甲が裂け、内部に詰め込まれていた黒い術核が露出する。
その上へツキノワの巨熊が飛び込み、両腕で術核ごと艦橋を引き剥がす。
「右舷側、一隻落ちる!」 タキオンの声が反響する。 「だがまだ終わらない! あの龍に全部を任せるな! こちらで削れるだけ削るぞ!」
「言われなくても!」 ツキノワが吼え、剥がした術核をそのまま別の敵艦へ叩きつける。
黒い爆光が空に滲み、敵艦の一つが翼を失った獣のように傾いた。
戦場の主役は、もうはっきりしていた。
黒龍ルビー。
そして、その正面に立つピンキー。
敵もそれを理解している。
残る砲火は、龍そのものを沈めるためだけでなく、その龍の前に立つ小さな少女を消すためにも集まり始めていた。
「まずい」 サトリが割れた船材に身を伏せながら呻く。 「向こう、わかってる。ピンキーさんが“鍵”だって、もう読まれてる」 「読まれていても構いません」 ラビ艦長の低い声が海から返る。 「届くまで、こちらが沈まなければいいだけです」
その言葉どおりに、潜水烏賊は再び海中へ潜った。
次の瞬間、敵艦の直下から突き上がる。
船腹が弾け、砲撃の角度がまた狂う。
同時にタキオンの巨機が左から、ツキノワが上から食いつき、三方向からの圧力で一隻を空中から引き剥がしていく。
だが、そのあいだにも黒龍は暴れていた。
ルビーはもう“制御”の枠にはいない。
海の上を滑空し、敵艦へ正面から突っ込み、牙ではなく肩と胸で艦首を押し潰す。
尾が一閃するたびに、黒い魔物の残党が霧のように消し飛ぶ。
喉奥に集めた炎は、かつての砲撃とは比べ物にならない密度で圧縮され、吐き出されるたびに空の色そのものを焦がした。
その姿は、圧倒的だった。
味方であっても震えるしかないほどに。
「完全に勝てる……」 サトリが息をのむ。 「このままなら、空中艦隊戦そのものは勝てる」 「だが」 タキオンの声が重なる。 「勝ったあとにルビーが残る保証がない」
その言葉が、戦場の真実だった。
龍は強い。
強すぎる。
このまま敵をすべて焼き払い、海上の残滓まで消し去ることはできるだろう。
だが、そのあとに“帰る者”が残るとは限らない。
黒いブローチが集めた悪意は、それほどまでに重い。
ピンキーは息を整えた。
敵艦からの砲火。
海から吹き上がる潮。
龍の風圧。
どれもが狙いを逸らそうとしてくる。
けれど白銀の必殺技アイテムの先に見える一点だけは、ぶれない。
黒龍の胸。
そのさらに奥。
鱗と炎と悪意の中心に、まだ一人分の気配がある。
「ルビー」 今度は叫ばなかった。
届くと信じて、名を置くように呼ぶ。
黒龍の動きが、ほんの一拍だけ遅れた。
その隙を狙って、最後の敵艦が高度を上げる。
龍の死角へ回り込み、背後から一斉射を浴びせるつもりだ。
「させるか!」
ツキノワが敵艦の上で吼え、甲板を踏み抜いた。
だが主砲の一つはなお動く。
照準は黒龍ではない。
ピンキーだ。
ラビ艦長が方向を変える。
タキオンの巨機が手を伸ばす。
けれど、間に合わない。
黒い砲光が放たれた。
その瞬間、黒龍ルビーが振り向いた。
翼が打たれる。
巨大な躯が海と空の境目を裂き、まるでそれだけが本能であるかのように、ピンキーの前へ割り込む。
砲撃は龍の肩口を直撃し、黒い鱗を何枚も砕いた。
衝撃で海面が爆ぜる。
残骸ごとピンキーの身体が後ろへ押される。
「……っ!」
だが、落ちない。
彼女は砕けた柱の残りに踵を引っ掛け、白銀のアイテムを両手で抱えたまま踏みとどまった。
黒龍の肩口から、黒と金の火花が散る。
痛みの咆哮ではない。
むしろ怒りに近い、深い唸りだった。
しかし、その一瞬だけ、龍の輪郭の中からはっきりと“人の選択”が見えた。
守ったのだ。
龍ではなく、ルビーが。
ピンキーの目が変わる。
「見えた」 小さく呟く。 「今、ちゃんと見えた」
白銀の必殺技アイテムを構え直す。
透明な肉球結晶の奥、狙いはさらに鮮明になる。
黒龍の胸の奥。
そこに重なる、人の心臓の位置。
帰るべき一点。
海上ではラビ艦長が最後の敵艦へ体当たりし、砲線をまたわずかにずらす。
空ではタキオンの巨機が主砲を掴み、関節ごと捻り折る。
ツキノワは敵艦の上で踏みしめ、吼えた。
「ピンキー! 今だ!」
黒龍が、ゆっくりこちらを向く。
金の瞳の奥で、人の光が揺れる。
逃げるな、とも。
来い、とも。
その両方に見えた。
ピンキーは一歩、前へ出た。
砲火はまだやまない。
海は荒れ続ける。
敵艦は完全には落ちていない。
それでもこの一瞬だけ、戦場の全員が、彼女のために時間を支えていた。
指が引き金にかかる。
呼吸を止める。
ルビーの胸の奥にある、帰るべき一点へ。
その軌道だけが、世界の中できれいに開いていた。
ピンキーは照準を定めた。
そして、撃つ直前で、ルビーの名をもう一度だけ呼んだ。




