女神の庭の静寂と、黒龍へ至る許し
黒い翼がさらにひと張り、大きく開いた。
海に沈みかけた旗艦の残骸を中心に、空気そのものが歪んでいく。
波が砕ける音より先に、周囲の敵艦が恐れていた。
砲門を向けながら、なお距離を取る。
龍になりかけたルビーの存在が、もはや味方や敵という区分では測れないものになりつつあったからだ。
ピンキーは白銀の必殺技アイテムを握りしめたまま、目の前のルビーから目を逸らさなかった。
二撃目は届いた。
たしかに届いた。
だが止まりきらない。
戻る道は残っているのに、その道へ押し戻すには、まだ足りない。
ルビーの喉元で砕けた黒い光の残滓が、今度は胸と背へ回っていく。
鱗は増え、脚は長く重くなり、背に生えた翼は完全な飛翔器官へ近づいていた。
苦悶ではない。
それがかえって重かった。
ルビーは苦しんで変わっているのではなく、自分の意志で引き受けるように、静かに龍へ近づいている。
「ルビー」 ピンキーが呼ぶ。 「まだ、あたしの声、届いてる?」 「届いてる」 返ってきた声は低く二重に響いた。だが意味は、まだ人のものだった。 「でも、あまり長くはないかもしれない」
そのとき、空の一点で金色の裂け目が生まれた。
稲妻のようでいて、雷ではない。
砲撃の閃光のようでいて、戦場のどの術式にも属さない。
それは音もなく広がり、海と空の境目に、ひとつの門の輪郭だけを描いた。
ラビ艦長が海上で身体を返し、タキオンの巨機が敵艦の装甲を砕きながらも、その異変に気づく。
ツキノワもまた、引き裂いた敵艦の上で顔を上げた。
「神域反応……!」 タキオンの声が戦場に響く。 「来るぞ!」
次の瞬間、ルビーとピンキーの足元から世界が抜けた。
風圧が消える。
海鳴りが遠のく。
砲撃の熱も、魔物の唸りも、全部が一歩外へ押し出される。
代わりに訪れたのは、恐ろしく静かな場所だった。
白い石畳。
風に揺れる花。
だが柔らかさより先に、完全な秩序がある。
ここは逃避の庭ではない。
世界の継ぎ目を管理するための、神の作業場としての庭だと、ルビーは一目で理解した。
女神様はその中央に立っていた。
いつもの軽い笑みはなかった。
ただ静かに、二人を見ている。
「時間がないから、要点だけ言うわ」
声は穏やかだったが、そこに甘さはなかった。
ピンキーが先に口を開く。 「外は」 「数秒も経っていない」 女神様は答える。 「けれど、ここで決めないと戻った瞬間に遅れる」
ルビーは自分の腕を見た。
鱗はまだある。翼も消えていない。
龍化は止まっていない。
つまりここは、変化を帳消しにする場所ではない。
「……止めてくれないの」 ルビーが問う。
女神様は首を横に振った。 「止めない。止めるべきでもない」 「どうして」 「あなたが今、抱え込んでいるものは、ただの暴走じゃないからよ」
女神様は一歩近づいた。
その視線は、ルビーの黒いブローチへ落ちる。
「あの石は、悪意を集める器であり、帰還のための過程でもある。敵艦に宿っていた黒も、魔物に沈んでいた黒も、全部あなたを通してひとつの形にまとめられている。中途半端に止めれば、散るだけ。散ればまた、別の地獄になる」 「じゃあ、完全に龍になるしかない」 「そう」 女神様は即答した。 「完全な龍になって、一度、悪意を一つの形に受け切る。それが必要」
ピンキーの指先に力が入る。 「それで、戻れるの」 「戻すの」 女神様は彼女を見た。 「あなたが」
白銀の必殺技アイテムが、ここでははっきり違うものに見えた。
兵器ではない。
帰還を許すための鍵。
ただし一方通行では成立しない。ルビーが戻る意思を持ち、ピンキーがそれを撃ち込む。両方が揃ってはじめて、龍の中心に残る人間へ道が通じる。
「聞きなさい、ピンキー」 女神様は言う。 「次に戻れば、ルビーは完全に龍になる。暴れるわ。止められない。悪意を引き受けた形として、戦場を一度焼き払う」 「……うん」 「そのあとで撃つの。怖がってもいい。でも退いたら終わる」 「退かない」 ピンキーは短く答えた。
女神様は今度、ルビーを見る。 「あなたも」 「……うん」 「忘れないで。私は最初に約束した。異世界を楽しんで、帰って来い、と」 その言葉に、ルビーの瞳が揺れる。 「だからこれは罰ではない。あなたは帰るために最後まで立つ。苦しむためじゃない。引き受けて、勝って、帰るために龍になるの」
庭の静寂が、深く落ちた。
その言葉だけで充分だった。
ルビーはようやく、自分の変化を恐怖だけで見なくていいのだと理解する。
これは壊れるための変身ではない。
最後まで引き受けるための姿だ。
「女神様」 ルビーが問う。 「ディーアナと、イツモアは」 「死んだわ」 女神様は嘘をつかなかった。 「でも終わっていない。あの二人の線は、もう別の時間へ向かっている」 ルビーは目を閉じる。
悲しい。
けれど、それでも前を向ける答えだった。
「ピンキー」 ルビーが隣を見た。 「完全に龍になったら、たぶん一度、見失う」 「見失わせない」 「私が私を?」 「うん。あたしが呼ぶから」 「きみ、ほんとに」 「何」 「強いね」 「知ってる」
そこで初めて、女神様の口元がかすかにやわらいだ。
けれど笑いではない。
勝利を見届ける神の、静かな確信のような表情だった。
「では戻りなさい」 女神様は言う。 「海も空も、まだ決着を待っている」
その声と同時に、庭の景色がほどけ始める。
白い石畳が波の泡へ変わり、花の色が砲火の尾を引き、空気に混じって海の匂いが戻る。
ルビーは最後に一度だけ、女神様を見た。 「……帰るよ」 「ええ」 女神様は答える。 「勝って帰ってきなさい」
次の瞬間、世界が反転した。
砲撃。
海鳴り。
残骸の軋み。
ラビ艦長の漏斗ロケットが空を裂く音。
タキオンの巨機が敵艦を殴り砕く衝撃。
ツキノワの巨体が甲板を踏み抜く咆哮。
時間はほとんど進んでいない。
けれど、ルビーとピンキーだけは、さっきまでとは違う目でそこに立っていた。
ルビーは息を吸う。
胸元の黒いブローチが、脈打つ。
その黒を拒まない。
抱え込む。
最後まで、自分の中でひとつにする。
翼が開く。
鱗がさらに増える。
脚が海を踏みしめるための骨格へ変わり、首が伸び、牙が月光みたいに鈍く光る。
完全な龍の姿が、海上に立ち上がった。
その咆哮は、ただ恐ろしいだけではなかった。
敵艦の黒い装甲を震わせ、海中から這い上がる魔物の残党を凍りつかせ、戦場に残るあらゆる悪意へ「お前たちはここで終わる」と告げるような声だった。
上空の敵艦が一斉に砲門を向ける。
龍化したルビーは翼を打ち、黒い疾風そのものになって飛び上がった。
一隻目の敵艦へ正面から突っ込み、牙ではなく肩で艦首を砕く。
二隻目には尾を振るい、艦体ごと海へ叩き落とす。
三隻目は龍の吐いた黒金の炎に包まれ、形を保てず崩れ始める。
「完全龍化、確認!」 タキオンが叫ぶ。 「だが中心はまだ残っている! 今ならいける!」 「こっちの砲線は押さえる!」 ツキノワが応じる。 「ピンキー、行け!」
ラビ艦長も海から浮上し、龍の死角へ回ろうとする敵艦を横から粉砕する。
潜水烏賊の巨体が海面を裂き、そのまま漏斗の噴射で残る魔物群を吹き飛ばした。
戦場の全員が、たった一人の少女のために道を開いている。
ピンキーは白銀の必殺技アイテムを構えた。
目の前には、完全な龍となって暴れ回るルビー。
恐ろしい。
大きすぎる。
けれど、その胸の奥に、まだ帰るべき人がいることを、もう知っている。
「ルビー!」
ピンキーの声が、砲火の中をまっすぐ走る。
黒龍の巨体が、一瞬だけこちらを向く。
金の瞳の奥で、人の光が、たしかに揺れた。
その一瞬を、ピンキーは逃さなかった。




