海鳴りの二撃目と、龍の喉に残る人の声
黒い翼が、今度こそ完全な形を取ろうとしていた。
海に半ば沈んだ旗艦の残骸、その中心でルビーはもう人の大きさに収まらなくなっている。
肩から背へ流れた鱗は胸元まで覆い、腕の線はしなやかさを失って、もっと強く、もっと重い別の骨格へ寄っていった。
だが不思議なことに、その姿は醜くなかった。
恐ろしいのに、どこか完成されていた。
まるでこの世界の悪意が、ずっと前から「最後にはこういう形になる」と決めていたものが、いま目の前で現れているみたいだった。
ルビーは苦しみながら変わるのではなかった。
そのことが、かえってピンキーを怖くさせた。
痛みに負けて変わるなら、まだ引き戻しようがある。
けれどルビーは、飲み込んだものすべてを受け止めたまま、静かに大きくなっていく。
まるで「これも役目だ」と納得してしまった人の顔で。
「ルビー」 ピンキーが呼ぶ。 「聞いてる?」 「聞いてる」 返ってきた声は、もう半分以上が龍の響きだった。
それでも意味ははっきりしていた。
黒い喉元に、また光が溜まり始める。
一撃目で散らしたはずの黒光が、今度はさらに深く、さらに濃く、海上に残った敵意そのものを吸って集まってくる。
海に沈んだ艦の呪い。
撃ち落とされた魔物の残滓。
ディーアナの艦を沈めたかった者たちの執念。
そのすべてが、ルビーの喉へ、翼へ、牙へ、龍としての輪郭へ流れ込んでいた。
「二撃目の準備を!」 遠くでタキオンが叫ぶ。 蒼い巨機の肩越しに、その声だけがやけに明瞭に届く。 「初撃は成功した! だが今ので“戻る道がある”と敵側にも知られた! 次は封じられる前に打つしかない!」
「言い方が雑!」 サトリが反射で怒鳴る。 「もっと希望のある言い回しできないんですか!」 「希望はある! なければ言わない!」 「言い方の問題です!」
その会話のあいだにも、ツキノワは巨熊のまま敵艦へ飛び乗り、黒い術核を一つずつ引き剥がしている。
ラビ艦長は海中から上昇してきた魔物の群れを横殴りに砕き、漏斗ロケットの噴射で砲線をずらし続けていた。
みんなが戦っている。
みんなが、ルビーとピンキーのための数秒をつくっている。
「すごいね」 ピンキーが、龍になりかけたルビーを見ながら言った。 「みんな、あんたのために時間稼いでる」 「……私のせいで、だよ」 「同じことじゃない?」 「ちがう」 「ちがわない」
ピンキーは白銀の子猫の必殺技アイテムを握り直した。
透明な肉球結晶の先に、ルビーの輪郭が映る。
一撃目のあとから、この道具の見え方が変わっていた。
今は心臓だけじゃない。
龍の胸の中心と、その奥に重なる小さな人の姿、その両方が見える。
「ねえ」 ピンキーが言う。 「これ、二回目はどこ狙えばいいの」 「……」 「黙ってると外すよ」 「脅しが雑」 「時間がないから」
黒い龍の口元が、ほんの少しだけゆるんだ。
その一瞬、人のルビーが戻る。
「喉」 低い声で、ルビーが言う。 「次は、喉。そこに溜めてる」 「黒いの?」 「うん。たぶん、あれを吐いたら……もっと戻れなくなる」 「わかった」
返事は短い。
怖いとか無理とか、そういう言葉を挟まない。
それがピンキーの強さだった。
だが次の瞬間、空が裂けた。
残っていた敵艦のうち最大の一隻が、海霧の向こうから高度を下げ、龍化ルビーごとこの海域を撃ち抜くための主砲を開いたのだ。
砲口のまわりに集まるのは、黒い光ではない。
もっと粘ついた、終わりたがる力。
「ここで全部一緒に沈めばいい」という願いそのものが、巨大な砲撃になろうとしていた。
「撃たせるな!」 ラビ艦長が吼える。
漏斗ロケット噴射。
潜水烏賊の巨体が海面からほとんど垂直に跳ね上がり、敵艦の腹を下から突き上げる。
だが今度の敵艦は重かった。
撃ち抜ききれない。
砲線はずれたが、消えてはいない。
「足りません!」 ラビ艦長の声に、すぐ上から別の影が重なった。
タキオンの巨機だ。
蒼い外装がきしみ、片腕が火花を散らしている。それでも彼はためらわず、その敵艦へ拳を叩き込んだ。
同時にツキノワが背から跳び、主砲の付け根へ噛みつくように食らいつく。
「ピンキー!」 ツキノワの咆哮が海上に響く。 「今だ! 見てろ、こっちは落とさせねえ!」
ピンキーはうなずいた。
足場は最悪だった。
半ば沈んだ甲板の残骸。波のたびに沈み、持ち上がる。
そのうえ真正面には、ほぼ完成しかけた黒龍。
普通の人間なら立つだけで精一杯だ。
けれどピンキーは猫族の身体で、その揺れを揺れとして受けない。
つま先で重さを逃がし、腰で傾きを吸い、視線だけを真っ直ぐ固定する。
白銀の必殺技アイテムを構える。
喉元。
そこへ。
「ルビー」 ピンキーが呼ぶ。 「次、いくよ」 「うん」 「ちゃんと戻って」 「努力する」 「努力で済ませるな」
その返しに、龍の喉からくぐもった笑いみたいな震えが漏れた。
完全に消えていない。
まだ、いる。
ピンキーは引き金を引いた。
二撃目の光は、一撃目より細かった。
細いのに鋭い。
まっすぐ飛び、ルビーの喉元、黒光の溜まる核へ吸い込まれる。
命中。
鈴のような音ではなかった。
今度は、誰かが小さく「おかえり」と囁いたような音がした。
龍の喉が大きく反った。
溜められていた黒光が、吐き出されるかわりに内側から砕ける。
黒い粒が空へ散り、それに触れた海霧が一瞬だけ白く戻る。
「効いた!」 サトリが叫ぶ。 「今、効いた! 今だけすごく“ルビーさん”です!」
だが、その反動も大きかった。
ルビーの全身を覆う鱗が一気に増える。
喉を撃たれたことで、黒い力の逃げ場が別の場所へ走ったのだ。
胸、腹、脚、尾の根元。
人の姿を残していた部分が、今度はまとめて龍の側へ傾いていく。
「まずい」 ピンキーが歯を食いしばる。 「戻してるのに、でかくなる」 「当然です」 タキオンが敵艦の上から叫ぶ。 「抑えているのは“暴走の方向”であって、“総量”ではない! 今は龍化を遅らせながら中心を残している段階だ!」 「だから言い方!」 サトリが泣きそうになる。 「要するに!」 ラビ艦長が海から補足した。 「まだ終わりではないが、ちゃんと前に進んでいます!」
「それを最初に言って!」 ピンキーが叫び返した。
そのときだった。
海上に漂っていた黒い粒のひとつが、風もないのに上へ浮いた。
つづいて二つ、三つ。
そして空のどこか、戦場のさらに奥に、細い金の線が走る。
ルビーが、はっと顔を上げた。
龍の顔のままで、その目だけが一瞬、人の驚きになる。
「……来る」 「何が?」 ピンキーが問う。
答えたのは、ルビーではなかった。
どこからともなく、笑うような、呆れるような、でも楽しそうな女の声が、海と空のあいだに落ちてきた。
「まったく、ほんとうににぎやかな子たちね」
サトリがその場で硬直する。 「うわ、これ読めない」 「読めなくていい相手です!」 ラビ艦長が即座に言う。
金の線は、まだ細い。
門というには頼りない。
だが確かに、どこか別の場所――世界の奥にある庭の気配が、戦場へ触れかけていた。
ルビーの龍の輪郭は、なお大きい。
なお危険だ。
けれど二撃目で、その中心に残る人の声は確かに強くなっている。
ピンキーは息を整え、白銀の必殺技アイテムを胸の前に構え直した。
次がいる。
その次の先には、たぶん戦場の論理じゃない場所が待っている。
「ルビー」 ピンキーが言う。 「あとちょっと、つきあって」 「うん」 龍の声で、ルビーは答えた。 「どうせ最後まで、きみは来るんでしょ」 「当たり前」
海はまだ荒れている。
敵艦もまだ落ちきっていない。
けれど戦場のどこかで、別の幕が上がり始めていた。




