黒龍の咆哮と、となりに立つ者の初撃
最初に変わったのは、空気の重さだった。
海に半ば沈んだ旗艦の残骸、その中心に膝をつくルビーを起点にして、世界そのものの比重が変わっていく。
風は吹いているはずなのに、誰もそれを「流れ」として感じられない。
押しつぶすための力だけが、上からも下からも、ゆっくり降りてきていた。
ルビーの背中から突き出した黒い骨が、さらに伸びる。
それはもう翼の途中ではなかった。
骨のあいだに黒い膜が張り、海から立ちのぼる悪意の霧を吸うたびに、艶のある鱗へ変わっていく。肩、首、頬、指先。人のかたちをしていた部分が、ひとつひとつ「別の正しさ」に塗り替えられていく。
「ルビー」 ピンキーが呼ぶ。 「まだ、聞こえる?」 「……聞こえる」 返ってきた声は二重だった。
いつものルビーの声の下に、もっと深い、古くて大きな声が重なっている。
それは怒りではない。
もっと質の悪いものだった。
この世の悪意を全部知った上で、それでもなお「壊した方が早い」と判断する者の声だった。
沈みかけた甲板が、みし、と鳴る。
ルビーが立ち上がったのだ。
立ち上がる、というより、人の姿のままでは収まらないものが、無理やり縦に起き上がったように見えた。髪が風に逆らって浮き、黒と赤の境目をなくしていく。瞳の中では金色の火が細く長くなり、もう人の円い瞳孔ではない。
背中の翼が半開きになるたび、周囲の海面がへこむ。
龍がまだ完全に生まれる前から、世界のほうが先に怯えているのだと、誰にでもわかった。
「ルビー!」 ピンキーは一歩も引かなかった。 「こっち見て」
ゆっくりと、龍になりかけたルビーの顔が向く。
その視線を受けた瞬間、ピンキーの背筋に冷たいものが走る。
かわいいとか、好きだとか、賢いとか、そういう言葉では追いつかない。
これは災害だ。
それも、たった一人を起点にして起こる、最悪の種類の。
それでも彼女は、腰帯に差した白い小箱から、子猫の必殺技アイテムを抜いた。
白銀の筒。肉球型の透明結晶。タマとミケの色をした二本の帯。
武器にしか見えないのに、その手触りだけは、どうしようもなく「預かりもの」だった。
「たおすためじゃなく、かえすための一発……ね」 ピンキーは呟く。 「難題すぎるでしょ、あの子たち」
その瞬間、海上の残骸を踏み砕いて、黒い魔物の群れがこちらへ殺到した。
龍化しかけたルビーを核に、周囲の悪意まで活性化しているのだ。海から跳ねる獣じみた影、空から落ちてくる黒い槍、沈んだ敵艦の破片に宿った怨念じみた火。
それらが一斉に、残された者たちを食い散らかそうと迫る。
「近寄らせるな!」
海が爆ぜた。
ラビ艦長が再び浮上したのだ。
潜水烏賊の巨体が海面を割り、漏斗から蒼白い噴流を横向きに吐いて一気に加速する。
そのまま残骸へ飛びかかってきた大型魔物へ側面から体当たりし、二体まとめて海へ叩き落とした。さらに脚の先から圧縮水流を扇状に撃ち、ピンキーとルビーの周囲だけをきれいに掃う。
「ご無事で何より、と言いたいところですが!」 ラビ艦長の声が海鳴りのように響く。 「状況はぜんぜん良くありません!」
「知ってる!」 ピンキーが叫び返す。 「でも双子は?」 「送達完了です! 幸せな世界線へ、責任をもって!」
その報告を聞いた瞬間だけ、ピンキーの目がやわらかくなった。
よかった、と確かに思ったのだ。
その「よかった」が、まだ人の側に立っている証拠だった。
遠方で、蒼い光が海霧を裂く。
タキオンの巨機だ。
その肩に乗ったツキノワの巨熊が、残る敵艦へ次々と飛び移っている。偽装の皮を剥がされ、本性をむき出しにした敵艦はもう“ドルドア軍の形”を保てない。
タキオンの拳が一隻の艦首を貫き、ツキノワが甲板上の黒い術核をもぎ取る。
艦は声にならない悲鳴をあげながら海へ落ちていった。
「海側三時方向、砲線一本切る!」 タキオンの反響する声が届く。 「ピンキー、初撃を撃つなら今しかない! 完全龍化の前だ!」
「完全龍化って言った!?」 サトリが胃を押さえたまま叫ぶ。 「言い方もっとどうにかならないんですか!」 「科学的に正確だ」 「正確すぎて最悪です!」
ツキノワの咆哮が、その会話を切り裂いた。 「ピンキー! こっちは支える! だからそいつを人のいるうちに呼び戻せ!」
人のいるうちに。
その言葉が、ピンキーの胸へ真っ直ぐ刺さる。
ルビーの全身で、黒い鱗が増えていく。
脚の骨格が変わり始めていた。膝の向きが、人のそれからずれかけている。
指先の爪はすでに獣のものだ。
喉の奥から漏れる息は熱ではなく、黒い光の粒を含んでいる。
「ルビー」 ピンキーが呼ぶ。 「今から撃つ」 「……撃てない」 ルビーの口が動いた。 「きみは、私を撃てない」 「撃つよ」 「やさしいから」 「ルビーほどじゃない」
その答えに、龍の顔になりかけた口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
笑ったようにも見えた。
泣きそうにも見えた。
だが次の瞬間、完全に別のものが目を覚ました。
ルビーの背の翼が一気に開く。
海面が爆ぜ、沈みかけた旗艦の残骸が四方へ吹き飛ぶ。
黒い風圧だけで、上空を旋回していた敵艦の一隻が傾いた。
さらにルビーの喉元に、黒と金の光が集まる。
「まずい!」 ラビ艦長が叫ぶ。 「そのまま吐かせれば、この海域ごと吹き飛びます!」
ピンキーは迷わなかった。
白銀の子猫の必殺技アイテムを両手で構える。
照準器などない。
だが透明な肉球結晶の向こうに、ルビーの心臓の位置だけが、まるで教えられたみたいにはっきり見えた。
引き金に指をかける。
「帰ってきて」
撃った。
音は、思ったより小さかった。
砲撃でも魔法でもない。
やわらかな鈴のような音と一緒に、白い光が一本だけ、まっすぐルビーの胸へ飛んだ。
命中。
黒い鱗の中心で、光が花みたいにひらく。
ルビーの全身が跳ねた。
龍の喉元に溜まっていた黒光が、吐き出される直前で散る。
代わりに、胸元のブローチがぎり、と嫌な音を立てた。
「が……っ!」
ルビーの口から、初めてはっきりした悲鳴が漏れた。
効いている。
間違いなく届いている。
けれどそれは、龍を倒す効き方ではない。龍の中に埋もれかけた“ルビー本人”だけを、無理やり前へ引きずり出すような痛みだった。
「ルビー!」 ピンキーが叫ぶ。 「そこにいるでしょ! まだいるでしょ!」
金の瞳が揺れる。
黒い翼が半拍だけ止まる。
海上に渦巻いていた悪意の霧が、逆流するみたいにざわついた。
その隙を逃さず、ラビ艦長が上空の残敵へ突っ込む。
漏斗ロケット噴射で海から空へ跳び、龍化ルビーの周囲に砲線を引こうとしていた敵艦の腹を粉砕。
タキオンの巨機がそれに合わせてもう一隻を殴り落とし、ツキノワが残骸に取りついた魔物の核を引き剥がす。
「初撃成功!」 タキオンが叫ぶ。 「だが一発では足りない! 当然だがな!」
「当然って言うな!」 ピンキーが怒鳴り返す。
そのやり取りのあいだにも、ルビーの龍化は止まり切らない。
止まったのは一瞬だけだ。
胸へ届いた白い光が、確かに“帰る道”を示した。だが、吸い込んだ悪意の量が大きすぎる。
黒い鱗はなお増える。
腕はすでに前脚の構造へ寄り始めている。
背の翼も、今度はもっと大きく、もっと完成形に近づいて開こうとしていた。
ルビーは苦しげに息をしながら、それでもかすかな声を絞り出す。
「ピンキー……」 「いる」 「……もう一回、来る」 「知ってる」 「次は……私も、止められないかもしれない」 「じゃあ、あたしが止める」
ピンキーは、一歩だけ前へ出た。
海に沈みかけた旗艦の破片の上。龍になりかけたルビーの真ん前。
普通なら立てる場所ではない。
けれど猫族の少女は、揺れる足場の上ですら迷わず立つ。
白銀の必殺技アイテムを握る手に、次の光が溜まり始める。
ラビ艦長が海からうなりを上げ、タキオンとツキノワが周囲の敵を押し返し続ける。
サトリは半泣きで胃を押さえながら、それでも目を逸らさない。
そしてルビーは、黒い翼を今度こそ大きく広げた。
海と空の境目で、龍の影が完成しつつある。
だがその真正面には、まだ小さな人間の少女が一人、立っていた。




