黒い鱗のはじまりと、子猫が残したおかえり
海に半ば沈んだ旗艦の残骸は、まだ国のかたちをしていた。
折れた艦首。
裂けた甲板。
燃え残る帆骨。
そのあいだを、黒い海水がじわじわ満たしていく。
ディーアナとイツモアのいた艦橋は、もう見えなかった。けれど誰も、あえてそこを探さなかった。探したところで、答えが変わらないと知っていたからだ。
空では、なお敵艦が旋回している。
海ではラビ艦長が深く潜り、つぎの突撃のために姿を消した。
遠くでは、タキオンの巨機とツキノワの巨体が、まだ残った偽りの戦線を食い破っている。
戦いは終わっていない。
なのに、この一角だけ時間の芯がずれたみたいに、異様に静かだった。
「ルビー」
ピンキーが名を呼ぶ。
ルビーは答えなかった。
答えられなかった。
胸元の黒いブローチは、もう飾りではなかった。
割れた石の中心から、どろりとした黒が滲み出し、鎖骨を越え、肩へ、腕へ、背中へと伸びている。血ではない。煙でもない。夜そのものを細く裂いて、体に縫いつけているみたいだった。
「ルビー、聞こえる?」 「……聞こえる」 声はした。だが、半分くらいはもう別の場所から響いてくるようだった。
ピンキーは濡れた甲板に膝をつき、ルビーの顔をのぞき込む。
その眼はまだルビーだった。けれど瞳の奥に、見たことのない深い色がある。敵艦の沈む海の底みたいな、光を飲んで返さない黒だ。
「だめだ」 ルビーがかすかに笑おうとした。 「たぶん、もう遅い」 「遅くない」 「ピンキー」 「遅くないったら遅くない」
言い切る声が、少し震えている。
怖いのだ。
それでも逃げないのがピンキーだった。
砕けた甲板の向こうで、サトリがよろめきながら立ち上がる。
頭を打ったのか額に血が流れているが、目だけは生きていた。
「最悪です……」 胃のあたりを押さえながら言う。 「本当に、最悪です。人の心はだいたい読めるのに、今のルビーさんの中、半分くらい人じゃない……」 「半分は読めるの?」 ピンキーが振り向かずに聞く。 「読めます。だから、なお悪いです」 「何が見える」 「我慢です。ひたすら我慢してる。飲み込むのを、壊すのを、ここで全部終わらせるのを、必死に我慢してる」
その言葉の通りだった。
ルビーの胸へ、黒いものが集まり続けている。
海に沈んだ敵艦の残骸から。
撃ち落とされた魔物の霧から。
さっきまで旗艦を沈めようとしていた砲火の名残から。
恐怖、嫉妬、欠乏、怒り、奪いたさ、諦め。
そういう人の醜い熱だけが、選り分けられるみたいに石へ吸い寄せられ、ルビーの体を媒介にして形を変え始めていた。
ぱき、ぱきり、と小さな音がする。
ルビーの右肩に、黒い鱗が一枚、浮いた。
つづいて首筋。手の甲。頬の下。
それは外から貼りつくのではなく、内側から押し上げられて生えてくる。痛くないわけがない。なのにルビーは悲鳴を上げなかった。
「痛い?」 ピンキーが聞く。 「うん」 「すごく?」 「うん」 「じゃあ、なおさら一人でやらないで」
ルビーは答えられなかった。
代わりに、背中が大きく痙攣した。
黒が盛り上がる。
肋骨のあいだから無理やり新しい骨が生えてくるみたいに、背の左右が膨らみ、裂け、そこから巨大な影がのぞく。
まだ翼ではない。
翼になる途中の、もっと危険な何かだった。
海風が変わる。
周囲の残骸が、きしきしと音を立ててルビーのほうへ寄る。
鉄片も、黒い霧も、壊れた木片も、全部が「こちらが本体です」と言わんばかりに、膝をつく彼女へ従い始めていた。
「……来る」 サトリが青ざめた。 「完全に来る。その前に、何か、鍵が――」
そのときだった。
海の上で、ふっと小さな光がひらいた。
さっき双子を呑み込んで消えた宝箱の軌跡、その余熱みたいな細い裂け目が、ほんの一瞬だけ戻ってきたのだ。
「え」 ピンキーが顔を上げる。
裂け目の向こうから、白いものが飛んできた。
砲弾ほど速くはない。
けれど、迷いがない。
まっすぐに、ピンキーの手元めがけて飛んでくる。
ピンキーは反射で立ち上がり、傾いた甲板を二歩で蹴った。
一歩で残骸を踏み、二歩目で欄干の折れた柱へ飛び移り、そのまま空中で体をひねる。人を超えた運動能力だった。
白いものを片手で受け止め、着地までのあいだに危険がないかを見切っている。
「……箱?」
それは掌より少し大きい、白い小箱だった。
角に金の飾り。表面に、タマとミケが爪先でつけたみたいな二つの猫の足跡。
見覚えがある。前に何度も話題になっていた、あの白い箱に似ている。けれどもっと小さく、もっと個人的で、もっとはっきりと「誰かに渡すため」の顔をしていた。
箱は、ピンキーの手の中でだけ、かたりと鳴った。
「これ、あたし宛て」 ピンキーが言う。
ルビーの黒い瞳が、わずかに動く。 「……双子」 「うん。あの子たち、ちゃんと置いてった」
箱の蓋が、ひとりでに開く。
中に入っていたのは、ひとつの小さな発射杖だった。
玩具みたいに可愛かった。白銀の筒に、猫のしっぽみたいな柔らかい曲線の引き金。先端には星ではなく、肉球の形をした透明な結晶。
その下に、細い帯が二本。一本はタマの瞳みたいな明るい色、もう一本はミケの目つきみたいな静かな色。
武器というより、子どもが「これ、いちばんだいじなときの」と言って大切にしまっていた宝物そのものだった。
箱の内蓋に、文字が浮かぶ。
となりに立つひとの、ひっさつ。
たおすためじゃなく、かえすための一発。
ピンキーは、その一文を見た瞬間に理解した。
これは討伐用の武器ではない。
大きすぎるものを砕くためのものでもない。
ひとりで遠くへ行ってしまう相手に、「帰ってこい」と届かせるための道具だ。
「ほんとに、あの子たちらしい」 ピンキーが息を吐く。 「かわいくて、やさしくて、でもいちばん痛いところに当ててくる」
サトリが泣きそうな顔になる。 「説明文が優しすぎて逆に胃が痛いです……」 「胃はあとで」 ピンキーはもう箱を閉じて、発射杖を握り直していた。
そのとき、ルビーの背中が大きく開いた。
ぶしゅ、と音がした。
血ではない。黒い光だ。
背から伸びた二本の骨が、海風の中でゆっくり広がる。膜はまだない。だが、それが翼の骨組みだと誰の目にもわかる。
髪がほどける。色が変わる。赤と黒が混じり合い、燃える炭みたいな艶を帯びる。
爪が伸び、黒い鱗が肘まで這い、声が喉の奥で二重になる。
「ピンキー」 ルビーが言う。
半分はルビーの声で、半分はもっと低い、海底から響くものの声だった。 「近づくな」 「むり」 「危ない」 「知ってる」 「たぶん、私、きみまで壊す」 「壊させない」
即答だった。
ピンキーは、白い小箱を腰帯に差し、子猫の必殺技アイテムを両手で構える。
構え方に迷いがない。
賢いのだ。この子は。かわいいだけじゃない。状況を見て、意味を読んで、必要な位置に自分を置ける。
「ルビー。聞いて」 「……」 「一人で悪いもの全部のんで、一人で龍になって、一人で爆散して終わりとか、だめだから」 「……」 「それ、かっこつけすぎ。あたしが許さない」
ルビーの肩が震える。
笑ったのか、泣いたのか、もう見分けがつかない。
空で残っていた敵艦が、こちらの異変に気づき、距離を取るように旋回を始めた。
海の底ではラビ艦長が次の上昇のために力を溜めている。
遠方でタキオンの巨機が振り向き、ツキノワの巨熊がこちらを見た。
「始まるぞ」 サトリが、誰にともなくつぶやいた。 「もうこれ、戦闘じゃない。終幕の調整です」
ルビーの足元から黒い風が巻き上がる。
沈みかけた旗艦の残骸が軋み、海面が低くうねる。
人のかたちを保っている時間は、もう長くない。
それでもピンキーは退かなかった。
白銀の子猫の必殺技アイテムを握りしめ、龍になりかけたルビーの前に立つ。
「来なよ」 ピンキーは静かに言った。 「今度は、あたしがとなりにいる」
その言葉に応えるみたいに、ルビーの背の骨がさらに大きく広がった。
黒い鱗が喉元を覆い、瞳の奥で巨大な金の火が灯る。
海と空のあいだで、龍の輪郭が、ゆっくりと目を覚まし始めていた。




