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海へ落ちる旗艦と、まだ名を持たない黒い鼓動

偽装艦が三隻、海へ落ちた。

 それを見て、ドルドア艦隊のあちこちで短い歓声が上がった。


だが、その歓声は長く続かなかった。


海だ。


壊れたはずの敵水中基地の跡、そのさらに深い底から、黒い泡が無数に湧き上がっていた。泡というより、煮えた悪意が海面へ逃げてくるみたいだった。白く砕ける波の下で、何かが形を作り直している。


「まだ終わってない」  ミケが、小さくではなく、はっきりと言った。


タマももう笑っていなかった。女神の鞄の口を押さえたまま、じっと海を見る。 「下にいる。いっぱい」 「どれくらい」  ルビーが聞く。 「数えるのやだって思うくらい」


その瞬間、海が盛り上がった。


ひとつではない。十、二十、三十。

 壊れた基地の裂け目から、黒い塊が次々と噴き出してくる。翼の生え損ねた獣、魚の頭に竜の胴をつけたようなもの、艦の砲門だけを無理やり生き物にしたみたいなもの。どれも形が安定していないくせに、敵意だけは完成していた。


「海中基地残党、再噴出!」  通信士の声が裏返る。 「海上魔物群、ディーアナ様の旗艦へ進路集中! さらに上空の敵艦隊も――」


言い終わるより早く、艦橋前面の鏡面図に、赤い線が幾重にも走った。

 周囲の敵艦が、一斉に進路を変えてくる。

 狙いはひとつ。

 ディーアナの旗艦、アルヴァ・ドルドアだけだった。


「ずいぶん分かりやすい」  ピンキーが、むしろ冷静な声で言った。 「向こう、勝ち方を決めてる。王様の船を沈めて終わりにしたいんだ」 「王様じゃない、母上よ」  ルビーが言い返す。 「どっちでも強いから同じ」


その返しに、ディーアナがかすかに笑った。 「ええ。沈むつもりもないし、譲るつもりもないわ。全艦へ通達。旗艦への集中攻撃を前提に、各自敵主力を拘束。落とせるものから落としなさい」


「了解!」


命令が飛ぶ。

 他のドルドア艦が左右へ展開し、周囲の敵艦へ食いついていく。砲火が空を裂き、赤と青の認証光が交差する。敵艦は次々に撃ち落とされていった。だがそのぶん、魔物も砲火も、黒い意思の大半がこちらへ押し寄せる。


「やっぱり来るの、全部こっちなんだ」  タマがつぶやいた。


ルビーは胸元を押さえた。

 黒いブローチが、さっきから妙に重い。冷たいのに熱い。沈むのに燃える。理解したくない感覚が皮膚の下に入り込んでくる。

 落ちていった偽装艦から、今まさに海から噴き上がっている魔物から、見えない黒が細い糸になってこちらへ流れ込んでいるような気がした。


「ルビー」  ピンキーが気づく。 「また、顔がわるい」 「元からこういう顔かも」 「それはない。今は、無理して笑う前の顔」


言い返そうとした瞬間、海上で轟音がした。


ラビ艦長だ。

 潜水烏賊の巨体が海面を薙ぎ払い、残党の一団をまとめて圧し潰す。脚の先から圧縮水流が連射され、海上へ出かけた黒い獣たちを次々と裂いていく。だが、海の底から湧いてくる量が多すぎた。しかも上空からは、本物の敵艦が旗艦目がけて砲火を絞っている。


「ラビ艦長が海を抑えても、上が多い……!」  イツモアが鏡面図を睨む。 「砲線が二重三重に固定されています。これはもう、こちらを落とすまで止めません」


「だったら落とさせない」  ディーアナが言った。 「タマ。あなたの鞄、まだ働ける?」


タマはぱっと顔を上げた。 「うん、たぶん」 「たぶんでいいわ。やりなさい」


鞄が、まるで返事をするみたいにぽこんと鳴った。

 タマが取り出したのは、小さな紙の吹き戻しだった。祭りで子供が吹く、あの巻いて伸びる笛だ。先に青いひらひらがついていて、どう見ても戦場向けではない。


「それで?」  サトリが胃を押さえながら言う。 「またすごいのくる?」 「かわいいやつ」  タマが真顔で答える。


ふうっ、と吹く。


ぴろろろろ、と間の抜けた音が鳴った。

 その瞬間、旗艦の上空へ群がりかけていた魔物たちが、一斉に首を回した。

 吹き戻しの先から、青い風の道が海上へ伸びていく。

 魔物はその音と風に引かれた。怒りも殺意も忘れたみたいに、くるりと向きを変え、海へ、海へと流されていく。


「誘導……!」  ルビーが息をのむ。 「空中魔物を海へ流した」 「地上に落とさないため」  ミケが補足する。 「タマのは、いつもやさしい」


「やさしいが、助かる」  ディーアナが言う。 「ラビ艦長、海上へ誘導済み魔物群を掃討!」


海から、まるで了解のうなりのような低音が返る。

 潜水烏賊のラビ艦長が方向を変え、海上へ引き出された魔物の群れを迎え撃つ。

 そのおかげで地上被害は抑えられる。市民の避難列は、まだ切れていない。まだ守れる。


だがその代償に、旗艦は完全に敵の焦点になった。


上空から三本の主砲が同時に光る。

 海上からは残党魔物の突撃。

 さらに、壊れたはずの敵艦の残骸から飛び散った黒い塊が、小型の砲弾のようにこちらへ降ってくる。


「衝撃来ます!」  艦橋の誰かが叫んだ。


第一撃。

 左舷中腹。外板ひび割れ。

 第二撃。

 後部甲板。炎上。

 第三撃。

 艦底近く。船体傾斜。


旗艦全体が、悲鳴みたいな音を立てた。


「持ちこたえて!」  歌手のルビーでもダンサーのルビーでもない、ルビー・ムーンが叫ぶ。

 本物の二人はもう脱出艇へ移った。

 ここに残っているのは、決断のためのルビーだけだ。


「左舷補助翼が死にました!」 「昇力低下! このままだと海面へ引かれます!」 「他艦からの援護は」 「来てる! でも間に合わない!」


ピンキーが欄干を蹴って飛び、転がる砲手を引っ張り起こした。

 その動きは人を超えていた。

 一歩が軽く、二歩目で欄干を越え、三歩目で砲台に着く。猫族としての可愛さはそのままに、戦場でだけ別の生き物みたいになる。


「右前方、死角から来る!」  ピンキーが叫ぶ。 「ルビー、しゃがんで!」


言われた通りにした瞬間、黒い破片の槍が頭上を抜け、背後の柱へ突き刺さった。

 あの一声がなければ、貫かれていた。


「助かった」 「あとでパン一個」 「安くない?」 「命の値段としては安いよ」


そのときだった。


海上で、ひときわ大きな爆発が起こる。

 ラビ艦長が掃討していた魔物群のさらに奥、海中基地の最後の心臓みたいな部分が破裂したのだ。

 その爆圧が海面を持ち上げ、巨大な波となって旗艦の下腹を打ち上げた。


「くっ……!」


船体が持ち上がり、そのまま傾く。

 甲板上の人間がまとめて転ぶ。

 タマとミケの小さな身体が、同時に足場を失った。


「タマ! ミケ!」  ルビーが手を伸ばす。


届くはずもなかった。


二人の子猫は、砲撃と衝撃波と傾斜の三つに押され、甲板の端から空へ放り出された。

 鞄を抱えたタマ。ミケの伸ばした手。

 くるりと回る小さな体。

 その下には、海。

 その周囲には、まだ敵の黒が飛んでいる。


「いや――!」


ルビーの叫びと同時に、胸元のブローチが、これまでで最も深く脈打った。


どくん。


その一拍で、世界の色が変わった。


落ちていく双子。

 砕けていく旗艦。

 集中攻撃を受けながら立ち続けるディーアナ。

 隣で何かを計算しながら、それでも彼女のそばを離れないイツモア。

 海にいるラビ艦長。

 周囲で撃ち落とされる敵艦。

 その全部から、黒いものが見えた。


悪意。

 恐怖。

 妬み。

 奪いたいという欲。

 沈めたいという願い。

 終わってほしいという怠さ。


それらが細い流れになって、全部、ルビーの胸へ集まってくる。


「やめろ……」  ルビーは無意識に石を押さえた。 「まだだ。まだ、来るな」


だがブローチは言うことを聞かない。

 黒い石の中心に、細い裂け目みたいな光が走る。

 冷たさの奥で、何か巨大なものが息をした気がした。


ピンキーが振り向く。

 双子が空へ投げ出されている。

 旗艦はもう、半ば墜ちかけている。

 それなのに彼女の目は、まずルビーを見た。


「……ルビー」 「見るな」 「見る」 「だめだ」 「だめじゃない」


ピンキーは揺れる甲板を蹴って、ルビーの前に立った。

 その顔は怖がっていた。けれど逃げてはいなかった。


「それ、起きるんでしょ」  小さく言う。 「うん」 「ひとりで起きないで」 「たぶん、もう……」


言い終わる前に、旗艦へ第四撃が入った。


轟音。

 船体の裂ける音。

 海が近づく。

 空が傾く。


そしてルビーは、胸の内側で、まだ名を持たない巨大な何かが、ゆっくり首をもたげるのを感じた。


双子は空にいる。

 旗艦は墜ちる。

 ディーアナの艦は、もう限界だった。


それでもまだ、終わってはいない。

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