表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
54/60

海へ誘うおもちゃと、潜水烏賊艦長の帰還

舞踏会の音楽は、まだ止まっていなかった。


二階では歌手のルビーが、すこし低めに抑えた声で客席の呼吸を整えていた。高く張れば不安を煽る。柔らかく流せば、人はまだ立っていられる。

 一階ではダンサーのルビーが、いつもより半歩だけ遅い拍で踊っていた。あれは見せるための踊りではない。人の足を揃え、動線を乱さず、外交官たちに「まだ秩序は生きている」と教えるための踊りだった。


窓の外では、空が悪い色をしていた。

 黒い雲ではない。黒いものが、雲の形を真似して空に居座っているような、不吉な色だった。


「始まったわね」  ディーアナが、舞踏会場の高窓から外を見たまま言った。 「市民の避難を最優先。南区画から順に、港へ。泣かせないで、走らせないで、踏ませないで」


「はい、母上」  ルビー――その身体におじさんの魂を宿した少女は、黒いブローチの冷たさを胸に感じながら答えた。最近は鼓動ではなく、別のものが脈打つ。誰かの悪意、誰かの諦め、誰かの「もういいだろう」という怠さ。そういう、形を持たない黒が、少しずつ石の中へ沈んでいく。


「ピンキー」 「いるよ」  返事はすぐ後ろから返ってきた。


振り向くと、猫族の少女はいつものように可愛かった。普通の人間に見えるほど整った顔立ちなのに、立ち方だけが人間より少し軽い。踵に重さが残らない。いつでも跳べる立ち方だ。


「西側の避難路、ひとつ詰まる」  ピンキーが言った。 「荷車が二台、わざとぶつけてある。あと、上から見てるやつがいる」 「敵?」 「敵というか、敵の仕事をするもの。空にいる」


イツモアが眉を上げる。 「見えているのですか」 「見えてるというより、嫌な視線がする」 「便利ですね、猫族」 「イツモアには言われたくない」


場違いなやり取りなのに、ディーアナがわずかに笑った。 「よし。ピンキーは西避難路の解除へ。イツモア、補佐を」 「承知しました」 「ルビー、あなたは艦隊へ上がって。あれはもう“敵の空中艦隊”じゃない。魔物の合体体よ」


その言葉と同時に、窓の外でひとつ、巨大な咆哮がした。

 空を飛ぶ艦影が、艦ではなく生き物の背骨を束ねたものに見えた。砲門の並びが牙列のようで、帆の代わりに膜が脈打っている。あれは造られた軍艦ではない。飢えや憎しみや恐慌が寄り集まり、「艦隊の形」を着せられて飛んでいるだけだ。


「ほんとに気持ち悪いな……」  ルビーがつぶやくと、隣でタマが鞄をぎゅっと抱えた。 「でも、だいじょうぶ」 「何が?」 「女神様の鞄、今日ずっとごそごそしてるから」


ミケが真顔でうなずいた。 「大きいのが出る前は、いつもこう」


この双子はもう、ただ守られるだけの子猫ではなかった。可愛がられるのは相変わらずだ。神の加護のせいで、見た人間が放っておけなくなる。メイドたちなど特にひどく、真剣に「私が引き取る」「いえ私が」と言い出す始末だ。だが本人たちは明るく、無邪気で、そして状況判断が早い。


「タマ、ミケ。艦隊に上がるわよ」 「うん!」 「うん!」


そのとき、床がひとつ揺れた。

 次の瞬間、遠くの港の方角から、水柱が三本、空へ伸び上がる。


「海中から来る……!」  通信兵が叫んだ。


ディーアナの目が鋭くなった。 「ラビ艦長は」 「もう出てる」  答えたのはピンキーだった。 「さっき海が一回、うれしそうな音した」


「どういう感知?」  ルビーが思わず聞く。 「猫族の勘」


その説明になっていない説明の直後、海上で巨大な影が反転した。


ラビ艦長だった。

 普段は人の言葉を喋り、礼儀正しく艦長席に座る“知的な潜水艦”だが、本来の姿は巨大な潜水烏賊である。海面を割って現れたその身体は、ぬめるように黒く、だが醜くはなかった。むしろ海そのものが形を取ったような、頼もしさがあった。


何本もの脚が一斉に開き、海中へ突き立つ。

 次の瞬間、海の下で鈍い閃光が走った。


「敵の水中基地に接触しました!」  艦隊側の水見術士が叫ぶ。 「内部圧壊、続いて……爆ぜる!」


海が下から煮え立ったように白く盛り上がり、ひと呼吸遅れて巨大な爆音が来た。

 海面下に隠れていた敵基地が、ラビ艦長の締め上げと魔力圧で砕けたのだ。


「やった!」  タマが飛びはねる。 「まだ」  ミケが指を差した。


壊れた海面から、小さな黒いものが無数に噴き上がっていた。

 小型ワイバーン。翼の形だけ整っていて、身体はまだ半分泥のような、未完成の魔物たちだ。基地が壊れた反動で、一斉に海上へ追い出されたのだろう。


「数が多い!」 「地上に散るとまずいわね」  ディーアナが言うより早く、タマの鞄がぽこんと鳴った。


「出た」


タマが取り出したのは、木でできた小さな回転木馬だった。

 掌に乗るほどの大きさで、屋根には鈴、柱には薄い青の塗装、そして馬の顔がどれも妙に愛らしい。戦場に似合わないにもほどがある。


「……それで?」  ルビーが問う。


タマは胸を張った。 「海上あそびセット」


「雑な名前だな」  とイツモアが言った瞬間、タマは回転木馬のゼンマイを巻いた。


ちりん。


可愛い鈴の音が、ありえないほど遠くまで伸びた。

 空へ散りかけていた小型ワイバーンたちが、ぴたりと動きを止める。

 そして次の瞬間、まるで見えない餌に誘われる群魚のように、一斉に向きを変えた。


「海のほうへ……」  ルビーが息をのむ。


回転木馬はくるくると回りながら、淡い青の光の筋を海上へ引いていく。

 ワイバーンの群れは、その筋を追った。地上へ向かわない。市街へ落ちない。ひとつの狂いもなく、海へ、海へと誘導されていく。


「これなら市民に落ちない!」 「すごいだろ」  タマが得意げに言った。 「かわいくて、つよくて、ちゃんとやさしい」


ラビ艦長はその光の筋を見て、海上で身体をひねった。

 潜水烏賊の巨体が一気に反転し、脚の先から連続で圧縮水弾を撃ち出す。

 海へ誘導されたワイバーンたちが、そこでまとめて撃ち抜かれ、黒い霧となって消えていった。


「地上被害、最小限!」  伝令の声が飛ぶ。


舞踏会場の外では、避難する市民の列がようやく整い始めていた。

 泣く子を抱く母親。パンの籠を抱えた老人。店の看板だけ外して走る若者。

 その上空を、歌声がまだ流れている。踊りの拍子がまだ続いている。ドルドアという国は、最後まで文化で民を守るつもりなのだと、ルビーは妙に納得した。


そのとき、二階の扉が開き、歌手のルビーが姿を見せた。

 つづいて、階下からダンサーのルビーも上がってくる。


「避難導線、もう限界だわ」  歌手のルビーが言った。 「ここから先は艦の外でやる仕事じゃない」 「だったら退いて」  ディーアナは即答した。 「あなたたちは残すものよ。ここで失うわけにはいかない」


ダンサーのルビーが、少しだけ悔しそうに唇をかんだ。 「逃げるのは性に合わないのだけど」 「逃がすのも統治の一部です」  イツモアがさらりと言う。 「あなた方二人は“本物のルビー”です。失われると困る」


ルビーはその言い方に、一瞬だけ救われた気がした。

 自分が代わりであることは知っている。だが本物を守る役目なら、誇りを持てる。


港側から、脱出艇の準備完了を告げる信号が上がった。


「二人とも、旗艦の脱出艇へ」  ディーアナが命じる。 「海上戦線が本格化する前に離脱しなさい。あとで必要になる」 「あとで?」  歌手のルビーが首をかしげる。


ディーアナは外を見た。

 空の悪意はまだ増えている。海の底にも残り火がある。

 そしてルビーの胸の黒いブローチは、先ほどより少しだけ重くなっていた。


「ええ」  ディーアナは静かに言った。 「最後の場面には、本物の歌と舞が要るわ」


その言葉を合図にしたみたいに、はるか西空で、ひときわ大きな艦影が身をよじった。

 敵の空中艦隊。その中核にいるものが、こちらへ顔を向けたのだと、誰もがわかった。


ラビ艦長が海上で唸る。

 タマの回転木馬が、まだ鈴を鳴らしている。

 市民は逃げる。

 歌と踊りは、辛うじて続いている。


そしてルビーは、自分の胸元に手を当てた。

 黒いブローチの奥で、なにかが目を覚ましかけている。


「……まだだ」  小さく言う。 「まだ、起きるな」


けれど石は、答えるようにひとつだけ、深く脈打った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ