温室の同期会議と、読心ウェイターの胃痛
ドルドア邸の温室は、昼間に見ればただ優雅で、夜に見ればだいたい秘密を育てる場所になる。
丸いガラス天井には月光が薄く貼りつき、夜咲きの花々は勝手に香りを満たしていた。
白い小道。濡れた土。つやつやした葉。
そして中央の丸卓には、温室にあるはずのない紙束、定規、鉛筆、金属片が整然と並んでいる。
原因は、もちろんタキオンだった。
「……どうして温室が研究室みたいになってるんですか」
サトリが半眼で言うと、タキオンは顔も上げずに答えた。
「研究室にすると目立つ。温室にすると誰も“科学者が徹夜で作業している”とは思わない」
「いや、思いますよ。見たら分かりますよ」
「花粉で追跡魔法が鈍る。湿度で記録紙も燃えにくい。何より植物は余計なことを言わない。優秀だ」
「比較対象が人間なの、だいぶ終わってますね……」
卓上の金属片が、タキオンの指先ひとつでかしゃりと立ち上がる。
小さな立体模型。
ドルドア邸の見取り図だった。
回廊、舞踏会場、情報局、上空発着塔、厨房、そしてこの温室。
異様に正確で、異様に嫌な予感がする。
「触るな」
「触ってません」
「お前は顔に“壊しそう”と書いてある」
「読心能力者相手に顔で判断しないでくださいよ!」
その横では、ツキノワが大きな身体を丸めて、静かに座っていた。
不死身のクマ族。
焼かれても死なず、斬られても死なず、それでも今夜の彼は、妙に疲れて見える。
「まあ落ち着け、サトリ」
低い声が温室の湿った空気に溶ける。
「お前が来てくれて助かるのは本当だ。私とタキオンだけだと、たぶん説明が尖りすぎる」
「“たぶん”じゃないですね……」
サトリは胸を押さえた。
押さえたいのは心というより、胃のあたりだった。
女神に神の庭で放り込まれ、
「人間側の調整役をお願いしますわ」
と軽く言われた時から、ずっと嫌な予感しかしなかった。
そして、その予感はだいたい当たっている。
■ 科学者タキオン、事実の積み上げで人間関係を処理しようとする
「では始める」
タキオンが言った。
科学者らしく、前置きも愛想もない。
けれどその声には、爆炎の空で全裸同然のままドラゴンの尻尾にしがみついていた時とは別種の凄みがあった。
千年。
知識の泉に潜り、異星の言葉を解き、基礎科学を一から積み上げた男の声だ。
「まず前提を整理する」
彼は模型の上に、小さな駒を置いた。
赤い駒。
白い駒。
黒い駒。
金の駒。
「ルビー閣下、ピンキー、私、ツキノワ。
現在この四者の行動履歴は、見かけ上は一致していない。所属も疑惑も経路も乱れている。だが本質的には同一の作戦列にある」
サトリはため息をついた。
「言い方が、もうちょっと何とかならないんですか」
「正確だ」
「正確ですけど、人の心がついてこないんです」
「心がついてくるのを待っていたら、たいてい間に合わない」
「それを今から何とかするのが僕の仕事なんですよ!」
タキオンはそこで初めて、ほんの少しだけ眉を寄せた。
不服そうというより、理解はしているが納得はしていない顔だ。
「……だからお前を呼んだ」
「結局そこに戻るんですね」
「読心ができる人間は便利だ」
「便利で片づけないでください」
ツキノワが喉の奥で小さく笑う。
「タキオンは、千年かけて異星の言葉は読めるようになったが、人の空気はまだ難しいんだよ」
「空気は観測対象として曖昧すぎる」
「そういうところだぞ」
言い返さない。
そこだけはタキオンも自覚があるらしい。
■ 敵ではない。ただ、最初から全部を明かせなかっただけだ
サトリは花壇の縁から立ち上がった。
「じゃあ、まず僕から確認します」
二人を見る。
巨大なクマ族と、千年の科学者。
「あなたたちは、最初から女神様の計画に協力していた。
ルビーさんたちと同じ、破滅爆散の仲間。
それで合ってますね」
「合っている」
タキオンが即答した。
「私たちは敵ではない。
ただ、最初から“味方です”と名乗って歩ける状況ではなかった」
「イツモアさんに捕まってましたしね……」
「捕まったな」
ツキノワが苦笑する。
「逃げもした。焼かれもした。拷問もされた。不死身の確認までされた。
あれはあれで、なかなか酷い扱いだった」
「ほんとですよ……」
サトリがしみじみ言うと、タキオンが冷静に補足した。
「だが必要な過程でもあった。
ドルドア側の防諜網、イツモアの執拗さ、城内結界の癖、そして女神の計画に介入している別筋の揺らぎを観測するには、こちらも一度“敵として扱われる位置”に立つ必要があった」
「そこなんですよ。そういう説明をそのままルビーさんにすると、たぶん理解はしても“先に言いなさい”って顔になります」
「それはそうだろうな」
ツキノワがあっさり言った。
「だから順番が大事なんだ。
“敵じゃない”を先に置いて、あとから事情を積む。
逆だと、人間は警戒を解かない」
タキオンは腕を組んだ。
「人間は面倒だ」
「お前も人間側だろうが」
「科学者だ」
「そこを分けるな」
サトリは少しだけ安心した。
この二人は大丈夫だ。
少なくとも、ちゃんと同じ方向を見ている。
■ ツキノワの願いは、死ではなく復帰である
温室のガラスが夜風に鳴る。
ツキノワはしばらく黙っていたが、やがてゆっくり言った。
「次は、私の話をしておきたい」
その声には、戦場でタキオンを庇う時の強さとは別の、静かな重みがあった。
「私は、不老不死を恨んでるわけじゃない」
サトリは黙って聞く。
「女神様に与えられた。
そのおかげで、タキオンと同じ時間を長く生きられた。
燃えても、砕けても、置いていかれずに済んだ。
それは本当に、大きかった」
ツキノワは、自分の掌を見る。
不死身の身体。
壊れても戻る、終わりに届かない身体。
「でもな。終わらないことって、いつか中身を磨り減らすんだ」
サトリの喉が少し詰まる。
「自然なクマ族なら、春は腹が減って、夏は動き回って、冬は眠くなる。
少しずつ年を取って、ちゃんと季節の中で減っていく。
私は、そこへ戻りたい」
「……はい」
「誰かに殺されたいわけじゃない。消えたいわけでもない。
ただ、自然の時間の中に戻りたいんだ」
タキオンは黙って聞いていた。
口を挟まない。
そこに、ツキノワへの信頼が見えた。
「けど」
ツキノワは続ける。
「タキオンを置いて先にいなくなる形は嫌だ。
逆に、自分だけ永遠に残るのも嫌だ。
だから私の願いは、死にたい、じゃない。
一緒に、時間の流れへ戻りたいだ」
サトリは、神の庭で女神が言っていたことを思い出した。
永遠から降りる。
ただし、一人きりでは降りない。
あれは、こういう意味だったのだ。
■ タキオンの未来には、もう知識だけではないものがある
「それについては、私の側にも根拠がある」
タキオンが静かに言った。
その声音は、いつもの乾いた理屈だけではなかった。
「私は長いこと、知識だけを追って生きてきた。
泉の底に沈んだ異星の言葉を拾い、解き、組み直し、再現し、積み上げた。
千年あれば、人はだいたい何でも習慣にできる」
「……はい」
「だが、最近はそうでもない」
サトリは少しだけ目を見開いた。
ツキノワは何も言わない。知っている顔だ。
「知識の泉には“声”がいた。
泉そのものが擬人化したような女だ。
私が潜るたびに呆れ、止め、最後には見守るようになった」
タキオンはそこでほんの一瞬だけ視線を逸らした。
それだけで十分だった。
この科学者が、これ以上ないくらい正直になっている証拠だ。
「私は、彼女と未来の話をするようになった」
サトリは口を挟まなかった。
ここは言わせた方がいい。
「知識を増やす話ではなく、
次に何を見るか、どこへ行くか、何を試すか、何を一緒に確かめるか。
そういう話だ」
ツキノワが、ふっと笑う。
「要するに、恋だな」
「雑にまとめるな」
「間違ってないだろ」
タキオンは否定しなかった。
それが何よりの答えだった。
「だから私は、永遠の観測者のままでいる必要が薄れた。
ツキノワが自然へ戻る道筋を取るなら、私にもまた、永遠の外に足場を作る理由がある」
サトリは大きく息を吐いた。
これなら伝えられる。
少なくとも、伝える意味がある。
■ 読心ウェイターの胃痛、その原因はたいてい説明の順番である
「じゃあ整理します」
サトリは指を一本立てた。
こういう時、自分でも驚くほど給仕みたいな手つきになる。
「まずルビーさんには、“この二人は敵じゃない”を先に言う。
次に、“最初から全部明かせなかったのは計画と観測の都合”と説明する。
そのあとで、“今は同じ列に立ち直すために時計を合わせる必要がある”と続ける」
「妥当だ」
タキオンがうなずく。
「最後に、ツキノワさんの願い。
これは“弱ったから死にたい”じゃなくて、“自然へ戻りたい”として伝える。
で、タキオンさんの方にも、永遠の外へ出る理由がある。そこを添える」
「おおむね正しい」
「おおむねって何ですか」
「表現に若干の感傷が混じる」
「そこは必要なんです!」
サトリが叫ぶと、温室の花が少し揺れた。
ツキノワが肩を震わせる。
「大変だなあ、サトリ」
「本当にそう思うなら、もう少し会話しやすい味方でいてください……」
「善処する」
タキオンが真顔で言う。
その“善処”にどれほど期待していいかは分からない。
だが少なくとも、この男は本気でこちら側に立っている。
そのことだけは、読心しなくても分かった。
■ 帰還の足音
その時、温室の外で低い鐘が鳴った。
一度。
二度。
短く間を置いて三度。
上空発着塔からの帰還合図だ。
サトリの胃がきゅっと縮む。
「来た……」
タキオンの指先が動き、卓上模型は一瞬で分解された。
金属片は袖と懐へ音もなく消える。
ツキノワは、のそりと立ち上がった。
遠くの回廊から足音が近づく。
急いでいるが、乱れてはいない。
軍靴と、軽い靴音と、それから妙に元気な小走り。
「ダーリンー! ちゃんとパンは二つしか食べてませんよー!」
「二つ食べたのですか!」
「一つ半です!」
「減っていません!」
サトリは顔を覆った。
「……通常運転だ」
タキオンが冷静に言う。
「そこだけ切り取ると平和なんですけどね……」
パンの匂いが、花の香りに混じって近づいてくる。
温室の扉が開いた。
最初に飛び込んできたのは、やはりピンキーだった。
紙袋を大事そうに抱え、髪を少し乱しながら、それでも顔だけは太陽みたいに明るい。
「いました! ダーリン、温室です! みんな温室でした!」
その後ろから、ルビーが現れる。
赤いドレス。
疲労を見せない背筋。
そして胸元には、前よりもいっそう深く黒くなったブローチ。
その黒が、温室の空気に触れた瞬間、鈍く脈打った。
ルビーの視線がまずサトリへ。
次にツキノワへ。
最後にタキオンへ移る。
温室の空気が、ぴんと張る。
サトリは思った。
ここだ。
ここで順番を間違えると全部がこじれる。
「……こんばんは、ルビーさん」
声が少しだけ上ずった。
「おかえりなさい。
まず結論から言います」
ルビーの目が細くなる。
外交官の目だ。
五分で相手国の外務大臣を切り捨てた、あの“王国の赤いバラ”の目。
「聞きましょう」
「この二人は敵じゃありません。
最初から、女神様の計画に協力していた側です。
ただし全部を明かせなかった事情があります。
それと、今は同じ目的のために“時計を合わせ直す”必要があります」
ルビーは黙って聞いていた。
遮らない。
その沈黙がかえって怖い。
サトリは続ける。
「あと、ツキノワさんには寿命の相談があります。
でもそれは弱ったからじゃなくて、自然なクマ族へ戻りたいという願いです。
それからタキオンさんの方にも、永遠の外へ出る理由があります」
「ほう」
ルビーの視線が、タキオンに向く。
「あなたにも、ですか」
タキオンはまっすぐに受け止めた。
「ある。
私は知識だけのために残る段階を、すでに少し過ぎた」
ピンキーがきょとんと首をかしげる。
「ダーリン、時計を合わせるって、みんなでお昼寝することですか?」
「たぶん違います」
サトリが反射で答えた。
もう誰の補助をしているのか分からない。
ルビーは小さく息を吐いたあと、こめかみを押さえた。
「……サトリ」
「はい」
「報告の密度は評価します。
胃痛がこちらへ移りそうなまとめ方であることを除けば」
「僕もそう思います……!」
一拍の沈黙。
それからルビーは、タキオンとツキノワを正面から見た。
「では、単純に聞きます」
その声は静かで、よく通った。
「あなたたちは、最後までこちらの列に並ぶ覚悟がありますか」
タキオンは即答した。
「ある」
千年の知を背負った科学者の声だった。
ツキノワも続ける。
「あるよ。
私は自然へ戻りたい。けどその前に、やることはやる」
迷いのない声。
ルビーはそれを聞くと、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「それで十分です」
その一言で、温室の張りつめた空気が少しだけほどけた。
同期はまだ完全ではない。
説明も、整理も、願いの着地もこれからだ。
それでも今ここには、
追う者と追われる者ではなく、
同じ終わりへ責任を持って並び直そうとする者たちがいた。
■ 透明な局長は、空気を読む気がない
その瞬間だった。
温室の外で、短く鋭い警報が鳴り響く。
一回。
二回。
三回。
イツモア情報局の緊急招集音だ。
「……早いな」
ルビーが呟く。
扉の向こうから、半分だけ透明化を解いたイツモアの声が飛んできた。
「ルビー閣下! 温室におられるのは分かっております!
大変感動的な再会の最中、誠に申し訳ありませんが、それどころではありません!」
「どの程度それどころではないのです」
「舞踏会会場の鏡面回廊で、“本来映らないはずの人数”が確認されました!
さらに前哨線の識別符丁、三層目まで汚染!
敵は、もう屋敷の内側です!」
温室の空気が、一瞬で冷える。
ルビーは胸元のブローチを押さえた。
黒い石が、かすかに熱を持つ。
タキオンの袖の中で、金属が小さく噛み合う音がした。
ツキノワは立ち上がり、肩をひとつ鳴らす。
ピンキーはなぜか紙袋を抱え直した。
サトリは胃を押さえた。いつものことだ。
そしてルビーは、扉の方へ向き直る。
「分かりました。行きます」
その横顔は、帰ってきた娘のものでも、借りた身体の客人のものでもなかった。
同じ列に立つ者たちを率いて、故郷の悪へ向き直る者の顔だった。




