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神の閉鎖法廷

次にルビーが足を踏み入れたのは、現実の王城でも議事堂でもない、女神が作り出した閉鎖空間だった。


そこは法廷であり、競技場でもあった。


天井は夜空のように高く、床は黒曜石のように艶やかで、その中央には見覚えのない白線が幾本も引かれている。

法廷の証言台と、競技場のフィールドが無理やり一つに縫い合わされたような、不気味に整った場所だった。


「……なんですか、ここは」


ルビーが眉をひそめると、女神様は当然のように胸を張った。


「神の閉鎖法廷よ。逃亡も口裏合わせも、証拠隠滅も一切できない完全中立空間。ついでに今回は、被告にわかりやすいように“青春の香り”も混ぜておいたわ」


「最後の一言、裁判に必要でしたか?」


「必要よ。人間はね、人生で一番輝いてた頃の空気を吸うと、わりとすぐ本音を吐くの」


なるほど理屈は雑だが、効き目はありそうだった。


被告席には、鎖で拘束されたグレープ王がいた。

王冠も外され、豪奢な外套もない。だがその巨体だけで、彼がかつて国を熱狂させた英雄だったことはわかる。


肩幅は広く、首は丸太のように太い。

年老いた今なお、その身体には競技者の名残があった。


この男は、若き日にアメリカンフットボールのプロ選手として名を馳せた。

最高峰の決勝戦――スーパーボールの舞台に立った経験すら持つ、本物のスターだったのだ。


そして、この世界にアメリカンフットボールが存在する理由もまた、そこに繋がっていた。


この異世界では、まれに地球の文化が“迷い知識”として流れ込むことがある。

料理、衣服、歌劇、数字の遊び、盤上競技――そうしたものが数十年、数百年という時間をかけて土着化し、別の形で根づいていくのだ。


アメリカンフットボールもその一つだった。


はるか昔、地球から流れ着いた戦術家や職人たちが、防具づくりと陣形戦を結びつけて広めた競技。

激しい接触、緻密な戦術、そして“仲間のために数秒を削る”献身の精神が、この世界の武人文化と妙に噛み合い、大陸西方では王侯貴族から庶民まで熱狂する大競技へと育った。


その花形選手として君臨したのが、若き日のグレープだったのである。


「被告、グレートグレープ。元大統領、現国王。容疑は大規模汚職、不正蓄財、議会工作、戦時利権の私物化、ならびに親族への利益供与」


女神様が告げるたび、空間の壁面に光の文字が浮かび上がる。


「あと、泣きそうな顔で息子を騙した罪」


「それは法的な罪状では……」


「情状最悪ポイントよ」


ルビーの小声の突っ込みは、きれいに無視された。


グレープ王はしばらく沈黙していたが、やがて低い声で言った。


「……私は、この国を豊かにした」


「最初はね」


女神様は即答した。


「最初のお前は、たしかに善良な政治家だった。人気取りではなく、本当に国を立て直そうとしていた。

英雄としての知名度を使い、票を集め、古い既得権と戦い、道路も港も競技場も作った。雇用も増やした。民はお前を称えた」


その言葉に、グレープ王の顔がわずかに揺れた。


「だが戦争で変わった。いや、正確には――負けが見え始めてから変わった。

恐怖が、お前に“少しだけならいい”と囁いた。

少しの横流し。少しの便宜。少しの口止め料。

その“少し”を積み上げた結果が、今のお前よ」


光の壁面に、証拠が次々と映し出される。

隠し口座。閣僚への賄賂。迂回された軍資金。王族名義の別荘。息子には知らせずに作られた贅沢な私蔵品の目録。


グレープ王は歯を食いしばった。


「私は……国を守るために必要だった」


「違うわね」


女神様の声が、今度は冷たかった。


「途中からは、自分を守るためだった。

王座を失いたくなかった。称賛を失いたくなかった。

“元スーパーボール選手”“国民的英雄”“改革者”“王”――その肩書を全部持ったまま、死ぬまで贅沢に暮らしたかった。違う?」


沈黙は、肯定より雄弁だった。


ルビーは静かに被告席を見つめる。

この男は、生まれついての怪物ではなかったのだろう。

むしろ出発点は、かなりまともだったのかもしれない。


だからこそ厄介なのだ。

善人だった者が、自分の転落を正義で包装し始めると、本人の中ではどこまでも罪が薄まっていく。


「では判決――の前に」


女神様は、急に口調を変えた。

それは裁き手の声であると同時に、どこか競技開始前の審判のようでもあった。


「グレープ王。特別に選ばせてやろう。

お前には、二つの世界線がある」


法廷の中央、黒い床に二つの光景が映し出される。


一つ目。

戦争には敗れず、王座も保たれる。

汚職は闇に沈み、お前は最後まで豪奢な宮殿で暮らす。

息子トンビも真実を知らぬまま、贅沢三昧で一生を終える世界線。


もう一つ。

王になる前、引退直後まで時を戻る。

権力も宮殿もない。あるのは競技への未練と、現役を終えた身体だけ。

お前はコーチとしてチームに尽くし、息子もまた裏方として働き、親子そろってアメリカンフットボールに人生を捧げる世界線。


「……どちらかを選べ」


グレープ王の喉が、ごくりと鳴った。


豪華な食卓。

絹の服。

勝者として崇められ続ける人生。

息子に不自由をさせない未来。


一方で、泥だらけの練習場。

怒鳴るコーチ陣。

備品運び。

テーピング。

フィルム研究。

裏方仕事。

名誉はあるかもしれないが、王ほどの権力はない。


誰が見ても、前者のほうが“得”だった。


女神様は口元を少しだけ歪めた。


「まだ迷うなら、最後にもう一つ遊びをくれてやる。

今からお前を――スーパーボール、あの夜のお前に戻してやる」


空間が震えた。


轟音。歓声。照明。冷たい芝。

法廷の床が、一瞬で巨大なスタジアムへと変貌する。


グレープ王は若返っていた。

かつての筋肉、かつての瞬発力、かつての呼吸。

ヘルメット越しに見える世界は、まばゆく、鋭く、生きていた頃そのものだった。


「これが最後の一投だ」


女神様の声だけが、天上から響く。


「お前があの夜、本来パスを出した選手に投げれば――贅沢と腐敗の世界線。

ピンキーに投げれば――コーチとして生き、息子も裏方として汗を流す、アメフト命の世界線だ」


ルビーは事情を知らぬまま、フィールド端で目を細めた。


「ピンキー?」


「当時の控え選手よ。走力はあるけど派手さがなくて、スターにはなれなかった子」


女神様はさらりと言う。


「でも、誰より練習してた」


スナップ。

ボールが手に収まる。


グレープ王――いや、若き日のグレープは数歩下がり、守備を見た。

右にエース。

本来の標的だ。

一番確実で、一番華のあるルートを走っている。


左奥に、ピンキー。

地味なコース。

目立たない。

だが、誰よりも必死に前を見て走っていた。


その瞬間、若き日の記憶が押し寄せる。


勝ちたい。

頂点に立ちたい。

英雄になりたい。

大観衆に名前を叫ばれたい。


そして同時に、もう一つの記憶も蘇る。


練習後の誰もいないフィールドで、泥まみれのボールを拾っていた背中。

備品倉庫で壊れた用具を黙って直していた手。

試合に出られなくても、誰より大きな声で仲間を鼓舞していた控え選手。


ピンキーだ。


グレープの指が震えた。


王として生きるなら、右だ。

豪奢な未来へ続く、強く、美しいパス。


だが、あの頃自分が本当に好きだったものは何だった。


金か。

宮殿か。

権力か。


違う。


ぶつかり合い、支え合い、たった数ヤードを仲間のために奪い合う、あの愚直な競技そのものだった。


「……っ」


グレープは踏み込み、腕を振り抜いた。


白い軌道を描いたボールは、右ではなく、左へ飛ぶ。


ピンキーが振り向く。

目を見開く。

両腕を伸ばす。


そして、胸元でしっかりと抱え込んだ。


同時に、世界が止まった。


歓声も、風も、照明も、すべてが光の粒になって砕けていく。

若き日の身体は消え、法廷だけが残った。


被告席に戻ったグレープ王は、しばらく俯いたままだった。

やがて、搾り出すように言う。


「……あいつは、いつも練習の最後まで残っていた」


女神様は何も言わない。


「私は、あの頃……アメフトが好きだった。

勝つことも、脚光も好きだったが、それ以上に……あの場所で、全員で前に進むのが好きだった」


震える声が、法廷に落ちる。


「なのに私は、いつからか、仲間と前へ進むことより……自分だけが高い場所に立ち続けることを選んだ」


ルビーは黙って聞いていた。

それは言い訳ではなく、ようやく本人の口から出た敗北宣言だった。


女神様が、静かに告げる。


「判決。グレートグレープは、王としての生をここで終える。

選ばれた世界線は後者――引退直後へ戻り、コーチとしてチームに奉仕する人生。

息子トンビもまた、華やかな王子ではなく、チームの裏方として汗を流すことになる」


そこで一拍置き、少しだけ口調を緩めた。


「安心しなさい。貧しくはあっても、そちらの人生のほうが、お前はたぶん、ずっと人間らしく笑えるわ」


グレープ王は顔を上げなかった。

しかし、その肩からは、王の重さよりももっと醜い何か――長年こびりついた欲望の鎧が、わずかに剥がれ落ちたように見えた。


「……ピンキーに出して、よかった」


その小さな呟きに、女神様はふんと鼻を鳴らす。


「当然よ。あんた、王よりコーチのほうが向いてるもの」


「そうかもしれんな」


「それと、息子にはちゃんと働かせるから」


「……ああ。それがいい」


ルビーはそこでようやく息をついた。


厳密には救済ではない。

だが、ただ苦しめて終わる裁きでもなかった。


腐敗した王を断罪しながら、まだやり直せる核だけは残す。

それが女神様の流儀なのだろう。


「では次」


女神様はぱん、と手を叩いた。


「トンビ君には、テーピング巻きと給水係と用具磨きと雑草むしりを同時に覚えてもらいましょう」


「待ってください、最後の一つだけ競技と関係ありません」


「人間教育よ」


どこまでも雑で、どこか優しい判決だった。


そしてルビーのブローチは、また一段、黒く染まった。

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