Side 王子と令嬢と騎士
「疲れた…」
「歩けるか」
「ん、大丈夫。部屋まではすぐだし」
そういう七海だったが、寮の広間から自室までは少し距離がある。いっそのこと靴を脱いで裸足で歩いていってしまおうかとも思った。だが、フェルディアークが買って、しかも褒めてくれて、ユズフィーナも月の光がうんたら、とまで言葉をもらってしまったドレスが汚れてしまうかもしれないと思うと思いきることもできなかった。
そばを歩くシグルドの手を借りるわけにはいかない。少しよたつきながら七海は歩く。
「リリア」
低い声。それと同時に体が浮いた。
「え…?え…」
目を丸くし、群青の瞳を見つめた。シグルドに抱えられていると理解したのは彼が部屋が並ぶ寮の回廊を歩いている時だった。シグルドの腕が七海の足の裏を支え、彼の胸の中にすっぽりと納まっている。子猫になった気分だった。
「お、おろして…?」
「ダメだ。疲れたんだろう。あのあと、軽く踊ったから」
「あれは、シグルドが躍るかっていうから…」
「フェルディアークが選んだドレスで一回ぐらいは踊っておけ」
「下手だったでしょ…」
「案外上手だった。足も踏まれなかったし」
「それはシグルドが上手だからだよ」
静かな二人の会話は七海の部屋の前まで続いた。ドレスを脱いでしっかり休むように告げ、彼女の部屋のドアが閉まるまでシグルドは見送った。
学園の女子生徒の部屋が並ぶ場所にいつまでもいるわけにはいかない。足音を極力立てず、シグルドは足早に寮の玄関へと向かった。
すでに広間の入口の明かりは消えていた。誰もが寝静まる時間だ。当たり前のことだった。
先ほどまで煌々と明かりがともる広間で夜会が行われていたことなど嘘のようだった。シグルドは一人玄関から外に出る。王宮まで歩いてもいいかもしれない。
シグルドを風が撫でていく。風はいつでもシグルドの隣にいた。どことなく今夜の風は静かに思えて、シグルドに何かを問いかけてくるように思えた。
「シグルド」
フェルディアークの声に振り向く。広間のそばに夜会服のままのフェルディアークとユズフィーナが立っていた。二人とも転移魔法陣で帰れるはずなのに、立っているということはシグルドを待っていたのだろうか。
立ち姿は王子のまま、だが顔に浮かぶ表情はシグルドの友のものだった。
「転移魔法で帰ったかと思った」
「お前を待っていた。リリアは」
「送り届けた」
「そうか」
フェルディアークがシグルドの隣に並ぶ。ユズフィーナは二人の会話に混ざることなく静かに後ろについていた。人のいない夜とはいえ、王子とその許嫁が護衛もなしに歩いているのは信じられないことだろう。彼がだれであるかわかっていて襲ってくる輩がいるはずもないこともまた事実だ。
少しの沈黙のあとフェルディアークが笑った。
「今日は驚かされた」
「…誓いのことかよ」
「あぁ。お前なら、あれがどういう重みをもつものかは重々わかっていることだろうから」
「……必要だと思った。あの場で、あいつに向けて言うのが」
「だろうな。だが、悪くない」
くすくすと笑うフェルディアークに返答せず、そういえば、とシグルドは振り向いた。
ユズフィーナはシグルドを見つめて目を瞬く。足を止めたシグルドは口を開いた。
「夜会の間、あいつはずっとあなたを見ていた」
「…私を?」
「あぁ」
『きれい』
『すごい』
『尊い』
シグルドが覚えている七海の言葉を一つ一つ口にした。隣で聞いているフェルディアークも驚いているがだんだん面白くなってきたようでまた笑っている。
「あと『アクスタほしい』とか」
「あくすた…?」
知らない語句に黙って聞いていたユズフィーナも、笑っていたフェルディアークも首をかしげる。二人でも知らないものだろうか。ならばユニフェに聞いてもだめかもしれない。
しばしの沈黙が流れる。
「ふっ…ははっ…リリアの言葉は時折意味が分からない。でも、それはきっとリリアなりに褒めていたんだろうな」
「だと思う」
「変わった方ですこと」
「前も似たようなことがあった。聞くか、ユズフィーナ」
「…えぇ」
フェルディアークは初めてユズフィーナと七海が顔を合わせたあとのことを話して聞かせた。今度はシグルドが吹き出す番だった。初対面の時点でそのような反応をしているとは思いもしなかった。
「悪い意味ではないな…本当に、変わった子だ」
フェルディアークの言葉にわずかな感情が見られた。だが、シグルドもユズフィーナもその感情について言及しない。
三人の間にまた静寂が訪れた。並ぶ三人の間を夜風が通っていく。フェルディアークは星の浮かぶ空を見上げた。
「…風が強い」
「えぇ。今夜はよく吹きますこと」
「どこぞの誰かが風に誓いを乗せたから、風の神が張り切っているのかもしれない」
フェルディアークの冗談にシグルドは口を閉ざす。
「誰かが立てた誓いというのは、風が神のもとへ届けるらしい。昔、父上にそう聞いたことがある。ならば、シグルド。間違いなく風の加護を持つお前の誓いは神に届けられただろうな」
「…届いたと思うか」
「もちろん。神のもとにも…本人にも」
撤回!返品!と叫んでいた本人に届いたのかは定かではない。シグルドは少し笑う。届いていなかったとしても、あの誓いの言葉は自分自身のためでもあった。
「悪いな、フェルディアーク」
「なんだ、しおらしい」
「俺の誓いはリリアにだけだ」
フェルディアークは僅かな間をおいて今度は大きな声で笑い出す。滅多にない友人の大きな笑い声にシグルドは目を丸くするし、さすがのユズフィーナも足を止めている。
物心ついた王子として己を律してきたフェルディアークが大きな声で笑うなどあるはずもなかった。
「それでいい。お前はどうせ私を裏切ることなどないだろう。そんなことがあれば、国が滅びる」
「そこまで信頼してるのか」
「そうだな…お前が裏切るなんて器用な真似ができないことを知っているからだな」
「できるぞ、俺にも」
「できない。風の加護は、その本質こそ荒ぶるものだが、基本は守るものだそうだ。何者にも縛られず、自由であるがこそ、自分が選んだものに対してはまっすぐ向き合う。まさしくお前だ」
フェルディアークの言葉に嘘はない。打算も計算もない。さすがのシグルドでもそれはわかる。
少し恥ずかしくなってフェルディアークから顔をそらす。
「さて、そろそろ王宮に急ぐか。父上たちもあまりに遅いと心配するだろう」
フェルディアークは胸元から魔法陣に刻まれた懐中時計を出す。ユズフィーナが静かに隣に並んだ。これは二人だけの魔法陣だ。シグルドは自分の頭をかいてから礼服に添えていた灰青の宝石に手を翳す。シグルドのための転移魔法陣を起動させた。
三人の姿が同時に消える。
交わされた会話を聞いていたのは空の星と月だけだった。




