第9話:書架の王女
王宮図書館は、夜が一番いい。
日中は学者たちが出入りし、従者が書類を運び、時には兄の取り巻きが「殿下はいらっしゃいますか」と覗きに来る。そのたびにエレーナは笑顔を作り、「何かお探しですか」と答え、求められた書類を出し、求められていない書類は棚の奥に戻す。
夜は誰も来ない。
燭台の灯りが書架の間に長い影を落とす。羊皮紙の匂い。古い革の匂い。インクが乾ききった匂い。エレーナにとって、それは母の匂いだった。
幼い頃、母に連れられてこの図書館に来た記憶がある。母は本が好きだった。王妃としての公務の合間を縫って、よくここに来ていた。エレーナを膝に乗せて、絵本を読んでくれた。
母が死んだのは、エレーナが七歳の時だった。
病死、と発表された。長く患っていた、と。
嘘だ。
エレーナは七歳の子供だったが、母が「長く患っていた」事実はない。前日まで一緒に図書館にいた。絵本を読んでくれた。翌朝、起きてこなかった。
七歳の記憶は不正確かもしれない。だがエレーナは自分の記憶を信じている。母は元気だった。突然死んだ。そして誰も、その理由を教えてくれなかった。
父——国王に聞いた。「母上は病だったのだ」と言われた。
兄に聞いた。兄は何も知らなかった。知ろうともしなかった。
侍女に聞いた。目を逸らされた。神官に聞いた。「神の御心です」と言われた。宰相に聞いた。「殿下はまだ幼い。いずれお分かりになります」と微笑まれた。
皆、笑っていた。皆、優しかった。そして皆、嘘をついていた。
七歳の子供には、誰が本当のことを言い、誰が嘘をついているか分からなかった。分からなかったが、何かがおかしいとは感じていた。大人たちの笑顔が、母の笑顔と違う。母の笑顔は目も笑っていた。宮廷の大人たちの笑顔は、口だけが動いている。
その違いに気づいた日から、エレーナは人を観察するようになった。
声の調子。目線の動き。言葉を選ぶ時の微かな間。本当のことを言っている人間と、嘘をついている人間は、どこが違うのか。七歳から十八歳まで、十一年間。嘘つきだらけの宮廷で、エレーナは一人きりでその区別を学び続けた。
結果として身についたのは、魔法学院のどの教科よりも実用的な技術だった。人の嘘が分かる。正確には、嘘そのものが分かるわけではない。だが「この人間は何かを隠している」という気配だけは、ほぼ外さない。
そうやって観察し、本を読み、学院で学び、魔法を修め、そして図書館の管理者になった。与えられた職、と周囲は思っている。政治に関心のない第二王女に、害のない仕事を与えたのだ、と。
違う。
エレーナがこの職を望んだのだ。
図書館には書類がある。王室の公文書が保管されている。過去の政策、予算、人事、外交。この国で起きた全てのことが、紙の上に記録されている——はずだった。
エレーナは夜ごと書架を歩き、書類を読み、記録の海を泳いだ。母の死の真相を探すために。
真相は、まだ見つかっていない。
だが、別のものが見つかった。
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南方大陸開拓事業。
その名前に最初に出会ったのは、一年前だった。
王室財の支出記録を年度順に追っていた時、十五年前の帳簿に不自然な空白を見つけた。予算が計上されている。かなり大きな額だ。だが、その予算がどこに使われたか、成果報告書がない。
普通ならあり得ない。王室財から支出された予算には、必ず対応する報告書が存在する。それが見当たらない。
予算の名目は「南方大陸開拓事業特別会計」。
エレーナは関連する書類を探した。事業の認可書。開拓団の編成記録。船の手配。渡航計画。あるべき書類の一覧を頭の中で組み立て、一つずつ照合した。
認可書はあった。当時の宰相ドゥアルテの署名入り。
船の手配記録もあった。港湾局の記録簿に、南方行きの大型船が三隻、十五年前の春に出航したと記されている。
だが——。
開拓団の名簿がなかった。
三百人を運んだはずの船に、誰が乗っていたかの記録がない。普通、移民事業には参加者名簿が作成される。家族構成、出身地、職業、年齢。それが全て欠落している。
報告書もなかった。開拓団が到着した後の経過報告。一本もない。
支援物資の発送記録は二回分だけあった。三回目以降はない。打ち切られたのか、最初から二回で終わる予定だったのか。判断する材料がない。
そして、最も不可解なのは——。
この事業を知っている人間が、宮廷にほとんどいないことだった。
エレーナは学者たちに聞いた。それとなく。「南方大陸開拓事業という政策について、何かご存じですか」。誰も知らなかった。十五年前の国家事業を、誰も覚えていない。
忘れたのか。
忘れさせられたのか。
エレーナは書類を閉じ、椅子の背にもたれた。燭台の炎が揺れる。
——三百人。
三隻の船に分乗したとして、一隻あたり百人。家族連れもいたとすれば、子供も含めて三百人。
彼らはどうなったのか。
十五年間、誰もその問いを発していない。




