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第10話:嘘と気配

 商業組合の報告会に出席したのは、偶然ではなかった。


 商人の中に、南方航路に詳しい人間がいるかもしれない。港の記録に残らない情報——噂話、風聞、船乗りの証言——を持っている人間が。


 それが目的だった。


 だから、南方から来た商人がいると聞いた時、エレーナの中で何かが反応した。


 カルヴァーリョ商会の当主代理。カイル・カルヴァーリョ。エスターリャ出身。


 最初の印象は——完璧すぎる、だった。


 前回の懇親会で初めて話した時から、エレーナはこの男に違和感を覚えていた。言葉遣い、表情、間の取り方。全てが洗練されている。商人としての修練、とカイルは言った。確かにそうかもしれない。


 だが、商人の修練で身につく落ち着きと、この男の落ち着きには、質の違いがある。


 商人は「売るため」に落ち着く。相手に安心感を与え、信頼を得るために。目的が明確で、その目的に向かって話術を使う。


 カイルの落ち着きは違った。あれは「隠すため」の落ち着きだ。何かを内側に押し込めて、表面を平らに保っている。修練というよりは——鎧。


 何を隠しているのか。


 報告会で再び話した時、エレーナは一つ試した。


 南方航路について、直接的すぎない形で質問を向けた。十年から十五年前の官船の出入り。商人に聞く範囲としては不自然ではない。


 カイルの答えは完璧だった。自分が商会に入る前だから正確なことは言えない、エスターリャには官船の記録はない、王都の港から直接出るのが通例——。


 論理的で、嘘の匂いがしない。実際、嘘ではないのだろう。


 だが。


 グラスが震えた。


 ほんの一瞬だった。テーブルの上に置かれたグラスの水面が、微かに揺れた。地震ではない。周囲の誰も気づいていない。カイル自身の手が触れたわけでもない。


 あれは——魔力だ。


 エレーナは王立魔法学院を首席で卒業している。魔力の揺らぎを感知する訓練は、学院で最初に学ぶ基礎技術だ。あのグラスの震えは、近距離で魔力が漏出した時に起きる現象に一致する。


 平民の商人が?


 平民にも微量の魔力はある。だが、グラスを震わせるほどの漏出は、相当な魔力量がなければ起きない。それこそ——貴族クラスの。


 前回の懇親会の時、エレーナはカイルの近くにいて、一瞬だけ奇妙な魔力の気配を感じていた。ほんの一瞬で、すぐに消えた。あの時は気のせいだと思った。今日のグラスの件と合わせると、気のせいではなかったのかもしれない。


 カイル・カルヴァーリョ。


 南方出身の商人。


 南方航路の話をした瞬間に、魔力が漏れた。


 ——何に反応した?


 エレーナは燭台の灯りを見つめながら考えた。


 航路の質問自体は穏やかなものだった。商人として答えにくい内容ではない。では、なぜ魔力が揺れたのか。感情が動いたから。魔力の漏出は、感情の昂ぶりに連動することが多い。学院で習う基礎知識だ。


 南方航路に関する質問で、感情が動く商人。


 それは「南方航路に個人的な関わりを持つ人間」だ。


 あるいは——。


 「南方に送られた人間に、関わりを持つ人間」だ。


 エレーナは首を振った。推測が先走っている。証拠がない。グラスの震えだけでは何も断定できない。


 ただ——気になる。


 あの男のことが、気になる。


 知的好奇心だ、とエレーナは自分に言い聞かせた。書類の欠落を追っている中で、南方と関わりのある人物が現れた。調査対象として興味があるだけだ。


 それ以上の意味はない。


 あの落ち着いた声も。南方の太陽が焼いた目の色も。関係ない。



##


 エレーナは席を立ち、書架の奥に向かった。


 図書館の最深部。ここには一般の学者には開放していない区画がある。王室の機密に近い文書が保管された棚。鍵がかかっているが、管理者であるエレーナは鍵を持っている。


 棚の一つを開けた。十五年前の元老院議事録。ドゥアルテが宰相だった時代の記録だ。


 この議事録は以前にも読んでいた。だが、報告会でカイルと話した後、一つ確認したいことができた。


 王都の港から直接出航するのが通例——カイルはそう言った。では、港湾局の出航記録と、元老院の議事録に記された予算執行のタイミングは一致するか。


 ページを繰る。


 南方大陸開拓事業特別会計。予算認可の議事。ドゥアルテの提案、元老院の承認、国王の裁可。手続きは正規のものだ。少なくとも書類上は。


 だが——。


 予算の規模が、おかしい。


 三百人の移民を送り、三年間支援する事業。その予算として計上されている金額が、エレーナの試算の三倍以上ある。


 船の手配。食料。農具。種子。薬品。護衛兵の人件費。全て積み上げても、計上された予算の三分の一にしかならない。


 残りの三分の二は、どこに消えたのか。


 支出の内訳書を探した。ない。


 発注先の記録を探した。ない。


 「南方大陸開拓事業特別会計」の予算は、計上された時点で既に行き先が決まっていなかった——いや、行き先が記録されていない。意図的に。


 エレーナは書類を閉じた。


 指先が冷たかった。


 ——これは、横領だ。


 いや、断定はできない。記録が欠落しているだけで、正当な支出だった可能性もある。特別会計は通常の会計監査の対象外になる場合がある。宰相権限で処理されていれば、記録を残す義務がない。


 だが、記録を残す「義務」がないことと、記録を残さない「理由」があったことは、別の問題だ。


 エレーナは燭台を手に取り、もう一つの棚に向かった。


 港湾局の記録。出航した船の一覧。十五年前、春。


 三隻の大型船。行き先は「南方」とだけ記されている。具体的な緯度経度はない。


 エレーナは指を止めた。記録をさらに追うと、同じ年の夏と翌年の春にも、同じ「南方」行きの大型船が出航している。それぞれ数隻ずつ。こちらも行き先の詳細はなく、乗客名簿もない。


 ——一度ではない。複数回にわたって、船が出ている。


 胃の底が冷えた。規模が違う。三百人の移民事業ではない。もっと大きい。そしてその分だけ、予算も膨らんでいたはずだ。引き出せる金が増える。記録を消す動機も増える。


 だが今夜はここまでだ。一度に深入りしすぎれば足跡が残る。


 エレーナは頭の片隅にその事実を刻み、まず最初の三隻——最も記録が残っている第一回目の出航に集中することにした。


 乗客名簿。——やはり、ない。


 だが、一つだけ見つけた。


 船長の名前だ。三隻のうち一隻を指揮した船長の名前が、港湾局の当直記録の片隅に残っていた。おそらく記載を消し忘れたのだろう。


 ガスパル・メンデス。


 エレーナは名前を記憶した。紙には書かない。紙は誰かに読まれる可能性がある。


 この名前の人物が今どこにいるか。生きているか。探す価値がある。


 ——ただし、私が直接探すのは危険だ。


 エレーナは自分の立場を理解していた。第二王女が過去の国家事業を調べ回っていると知れたら、宮廷内に波紋が広がる。父は愚鈍ではないが、政治には無関心だ。兄は王位にしか興味がない。だがドゥアルテは違う。あの老人は今も元老院を掌握しており、自分の過去に近づく者には敏感なはずだ。


 図書館の書類を読むだけなら、司書の仕事の範囲内で説明がつく。だが、人を探し始めれば話が違ってくる。


 誰か、外部の人間が必要だった。宮廷の外にいて、南方の事情に詳しく、エレーナの代わりに動ける人間が。


 ——。


 カイル・カルヴァーリョの顔が、頭に浮かんだ。


 エレーナは即座に打ち消した。


 馬鹿馬鹿しい。出会って二回の商人を信用するほど愚かではない。あの男には不審な点がある。魔力の漏出。完璧すぎる所作。南方航路の話題に対する感情の揺れ。


 信用できる要素がない。


 だが——。


 あの男が「何か」を隠しているなら、その「何か」は南方に関わるものだ。それだけは確かだ。


 エレーナは棚の鍵を閉め、書架の間を歩きながら考えた。


 信用はしない。だが、観察はする。あの男がどう動くかを見る。何を探しているかを見る。そうすれば、あの男が隠しているものの輪郭が、少しずつ見えてくるだろう。


 それは、エレーナが探しているものの輪郭でもあるかもしれない。


 燭台の灯りが揺れた。書架の影が長く伸びた。


 エレーナは図書館の窓から夜空を見上げた。星が出ている。南の方角に、見慣れない明るい星が一つ。


 名前は知らない。星図にも載っていない。南方でしか見えない星なのかもしれない。


 あの男は、あの星を知っているだろうか。


 ——また。


 エレーナは自分の思考を叱った。あの商人のことを考えすぎている。調査対象として関心があるだけだ。それ以上ではない。


 棚に鍵をかけ、燭台を手に、図書館を出た。


 廊下を歩きながら、エレーナは小さく呟いた。


「帳簿の行間……か」


 あの報告会で、自分が言った言葉。帳簿の行間に、本当のことが書いてある。


 言いすぎただろうか。商人に対してあそこまで踏み込む必要はなかった。


 だが——あの瞬間、カイルの目を見ていたら、言葉が口をついて出た。


 あの目が、エレーナに言わせたのだ。


 南方の太陽を見てきた目。何かを我慢している目。何かを抑え込んでいる目。あの目の奥に、エレーナが探しているものと同じものが沈んでいる気がした。


 ——気がした、だけだ。


 エレーナは自室の扉を閉め、寝台に腰を下ろした。


 机の上に、母の肖像画がある。小さな銀縁の額。七歳の時に自分で描いた、拙い水彩画。母の顔を描いたつもりだが、似ていない。でも捨てられなかった。


 母が死んで十一年。エレーナは母の死因を探すために図書館に入り、母の死因の代わりに、三百人の消えた人々を見つけた。


 母の死と、開拓事業に繋がりがあるかは分からない。時期は近い。母が死んだのは十一年前。開拓事業が始まったのは十五年前。重なってはいるが、因果関係があるとは限らない。


 ただ——どちらも「記録がない」。


 母の死因を記した医師の診断書は、図書館のどこにもない。開拓事業の成果報告書も、どこにもない。


 消えた記録。消えた人々。消えた母。


 この国には、消えるものが多すぎる。


 エレーナは灯りを消した。


 暗闇の中で、カイル・カルヴァーリョの目が浮かんだ。あの目の奥に沈んでいた光。南方の太陽の残照。


 次に会ったら、もう少し踏み込もう。


 もう少しだけ。

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