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第11話:紙と印章

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 行政書記局は、退屈な場所だった。


 石造りの建物の中に、木製の長椅子が並んでいる。窓口が三つ。その奥で書記官たちがペンを走らせている音が、絶え間なく聞こえる。羽ペンが羊皮紙を擦る音。印章が蝋に押される鈍い音。書類の束が積み重なる乾いた音。


 カイルは長椅子に座り、順番を待っていた。


 南方産香辛料の取引許可証の更新手続き。本来なら商業組合の窓口で済む話だが、王都の規定では外国商の取引許可は行政書記局を通す必要がある。年に一度の更新で、手続き自体は簡単だが、待ち時間が長い。


 こういう時間は嫌いではなかった。


 宿にいると考え事をしすぎる。ドゥアルテのこと。エレーナのこと。計画のこと。三百の声がそれぞれの意見を主張し、頭の中が議場のようになる。だが、行政書記局の長椅子に座って番号札を握っている時は、声も静かになる。あまりに退屈すぎて、残滓たちも口を挟む気にならないらしい。


 窓口の書記官が「二十三番」と呼んだ。カイルの番号は三十一番だった。まだ八人分ある。


 周囲を見回した。同じように順番を待つ商人が数人。年老いた事務員が一人。書記局の職員が書類の束を抱えて奥の部屋に消えていく。


 時間を潰すために、カイルは壁に貼られた掲示板を読んでいた。最新の関税率表。輸入禁止品目の一覧。港湾使用料の改定通知。どれもレナードの知識があれば理解できるが、十五年前の税率との差異が気になる。上がっている。全体的に、しかし均等ではなく上がっている。南方産品への課税が特に高い。


 ——南方から物を運ぶ者は歓迎されていない、ということか。


 レナードの残滓が分析する。だがカイルはその分析を深追いしなかった。今は商人の顔でいる時間だ。関税表を読むのは商人として自然な行為だが、その裏にある政治構造を読み解くのは別の仕事だ。ここでは商人でいい。


 入口の扉が開いた。


 カイルは反射的にそちらを見た。商人か、職人か、あるいは——。


 銀色の髪が、午後の陽光を受けて一瞬光った。


 エレーナ・ヴァルディアだった。


 従者が一人、後ろに控えている。前回の懇親会にいた従者とは別の人物で、年配の女性だった。エレーナは深い紺色の上衣に薄灰色のスカートという、王族にしては控えめな装いをしていた。だが、どれだけ地味に装っても銀髪が目立つ。王都でこの色の髪を持つ者は、ヴァルディア王家の血を引く者だけだ。


 書記局の空気が微かに変わった。待っていた商人たちが顔を上げ、書記官が一人立ち上がった。


「殿下。お待ちしておりました。ご指定の書類はこちらにご用意してございます」


 ——待たせない。王族は順番を待たない。


 当然のことだった。だが書記官の態度に卑屈さはなく、事務的な敬意があった。エレーナがここに来るのは初めてではないようだった。


「ありがとう。確認に少し時間をいただきたいのだけれど」


「もちろんでございます。奥の閲覧室をお使いください」


 エレーナは頷いた。従者と共に奥の部屋に向かおうとし——。


 視線が、カイルの方に流れた。


 目が合った。


 カイルの体内で魔力がわずかに揺れたが、すぐに押さえ込んだ。もう三度目だ。この反応にも慣れてきた。慣れてはいけないのだが、慣れ始めている。


 エレーナはかすかに眉を上げた。驚いた、という表情だった。社交用の作り笑いではなく、本当に予期していなかった顔。


「カルヴァーリョ殿」


「殿下。ご機嫌麗しゅう」


 立ち上がって軽く頭を下げた。商人として適切な角度。深すぎず、浅すぎず。


「こちらにいらしたの。取引の手続きかしら」


「はい。許可証の更新です。南方産品の取引には、年に一度の更新が必要でして」


「知っているわ。あの規定は本来、戦時中の一時的な措置だったのよ。それが三十年も続いている。誰も改定しないから」


 カイルは少し驚いた。あの規定が戦時措置の名残だということを、レナードの知識は知っていた。だがそれを王女の口から聞くとは思わなかった。


「殿下は行政法にもお詳しいのですね」


「図書館にいると、この国の法令集を端から端まで読むことになるの。退屈しのぎとしてはお勧めしないけれど」


 口元がわずかに緩んだ。皮肉な笑みだった。


 書記官が遠慮がちに咳払いをした。


「殿下、閲覧室の準備が——」


「ええ、今行くわ」


 エレーナはカイルに小さく頷いた。


「お手続き、お邪魔してしまったわね。場の空気を変えてしまったでしょう」


 気を遣っている、というよりは、自分が現れたことで周囲が緊張することを正確に理解している口ぶりだった。


「お気遣いなく。退屈な待ち時間に花を添えていただいた形ですので」


 軽い社交辞令のつもりだった。


「花を添える、ね。私は書類を受け取りに来ただけよ」


「書類も、届ける方によっては花になります」


 言ってから、少し踏み込みすぎたかと思った。王族に対する社交辞令の範囲を半歩はみ出している。媚びているとも取れるし、からかっているとも取れる。


 だがエレーナは一瞬止まり、それからかすかに笑った。目が笑っていた。


「お上手ね。……でも、そういう物言いをする商人は珍しいわ。大抵はもっと畏まるか、もっと露骨に媚びるかのどちらかだもの」


 そう言って、奥の閲覧室に消えた。


 カイルは長椅子に座り直した。


 ——踏み込みすぎた。


 半歩のつもりが、一歩になっていたかもしれない。だがエレーナの反応は悪くなかった。「珍しい」と言われた。珍しいということは、記憶に残るということだ。記憶に残ることは——計画上は悪くない。


 だが、あの最後の笑顔。「お上手ね」と言った時の、品定めするような、しかしどこか楽しそうな目。あれを引き出すつもりはなかった。


 窓口が「二十四番」と呼んだ。あと七人。


 カイルは番号札を手の中で弄びながら、閲覧室の方向に意識を向けないようにした。エレーナが書記局に来た理由。図書館の管理者として行政書類を受け取りに来る。それ自体は不自然ではない。王宮図書館は公文書の保管も担っているのだから。


 だが——。


 わざわざ本人が来る必要があるか。従者に任せれば済む用事ではないのか。


 考えすぎだ。王女にも外出の口実は必要だろう。宮殿の中に籠もっているより、たまには外の空気を吸いたいこともある。


 ——考えすぎだ、と分かっているのに考えてしまう。


 これがエレーナという女の厄介なところだった。何をしていても、その行動の裏に別の意図があるのではないかと疑ってしまう。疑わせる目をしている。



##


 二十分ほど経って、カイルの番号が呼ばれた。


 窓口で書類を提出し、更新手続きを済ませる。書記官が許可証に新しい印章を押し、日付を記入し、写しを綴じる。事務的なやり取り。五分で終わった。


 受け取った許可証を内ポケットに入れ、書記局を出ようとした時、背後から声がかかった。


「カルヴァーリョ殿」


 エレーナだった。閲覧室から出てきたところで、手に数枚の書類を抱えている。従者が後ろに立っている。


「お手続きは終わりましたの?」


「はい。おかげさまで。殿下もお済みですか」


「ええ。……ただ、一つ困っていることがあるのだけれど」


 エレーナは手の中の書類に目を落とした。


「この書類の中に、南方の港湾局から転送された貨物目録があるの。エスターリャの港で使われている計量単位が、王都の標準と違うのよ。換算表はあるのだけれど、実務ではどちらが正確なのかしら」


 質問の内容は実務的だった。計量単位の換算。南方と王都では重量の基準が異なる。レナードの知識では十五年前の基準しか分からないが、カイル自身がエスターリャで商いをしていた(という設定の)経験がある。


「エスターリャの計量単位はメディダが基本です。王都のリーブラとの換算は、乾物と液体で係数が異なります。乾物であれば一メディダが約一・二リーブラ、液体は一・四リーブラ程度です。ただ、港湾局の公式記録ではリーブラに統一されているはずですが」


「統一されているはず、ね。されていないから困っているのよ」


 エレーナの声に、わずかな苛立ちが混じっていた。書類に向けた苛立ちであって、カイルに向けたものではない。


「南方の港湾局は、中央の規定を守らないの。計量単位も書式も独自のまま。何度通達を出しても改まらないと、父が——国王が嘆いていたと聞いたことがあるわ」


「……南方は中央から遠いですから」


「遠い、ということは、管理が行き届かない、ということでしょう。距離は言い訳にはなっても、理由にはならないわ」


 厳しい言葉だった。だが、その厳しさは南方に向けられたものではなかった。カイルにはそう感じられた。管理が行き届かない——その責任は管理する側にある。エレーナの不満は、南方の港湾局ではなく、中央の行政そのものに向いている。


「殿下は、この国の行政に問題があるとお考えですか」


 踏み込みすぎた質問だと思ったが、口をついて出てしまった。


 エレーナはカイルを見た。数秒の間があった。


「問題がない国があるなら教えてほしいわ」


 返しが巧かった。否定も肯定もしていない。だが、肯定に近い。


「……確かに」


「書類仕事をしていると分かるの。この国の仕組みは、何層にも重なった手続きの上に成り立っている。一つ一つの手続きには理由があったはずなのに、理由が消えた後も手続きだけが残っている。誰もそれを整理しない。整理すると困る人がいるから」


 最後の一文が重かった。


 整理すると困る人がいる。


 それは一般論として言ったのか。それとも——具体的な誰かの顔を思い浮かべて言ったのか。


 カイルの中でレナードの残滓が反応した。だがカイルはそれを追わなかった。ここで深追いするのは危険だった。エレーナの言葉に反応しすぎれば、こちらの関心の所在を晒すことになる。


「殿下のような方が行政に関心をお持ちなのは、この国にとって幸いなことです」


 社交辞令で蓋をした。


 エレーナの目が、一瞬だけ冷えた。カイルにはそう見えた。社交辞令を返されたことへの——失望ではない。確認。ああ、やはりこの男も最終的には社交辞令に逃げるのか、という確認の目。


 だがすぐに表情は戻った。


「ありがとう。計量単位の件、助かりました」


「いえ。お役に立てたなら光栄です」


「それと——」


 エレーナは従者の方を一瞬振り返った。年配の女性従者は、少し離れた場所で静かに待っている。


「来週、商業組合の主催で南方貿易に関する講演会があると聞いたわ。私も傍聴に伺う予定ですの。カルヴァーリョ殿もいらっしゃるかしら」


「……ええ、組合員には案内が来ておりました。出席するつもりです」


「そう。では、また」


 エレーナは従者を伴って書記局を出ていった。


 窓から、馬車が待っているのが見えた。紋章は入っていない。王族の外出としては地味な馬車だった。


 カイルは書記局の入口に立ったまま、馬車が通りの角を曲がるまで見送った。


 ——講演会。


 エレーナの方から「次の接点」を指定してきた。偶然を装ってはいるが、偶然ではない。来週の講演会に出る、という情報をわざわざ伝えてきたのは、「来い」という意味だ。


 だが、なぜだ。


 カイルにとって、エレーナとの接触は計画の一部だった。王宮の内側に食い込むための手段。だからカイルの側が距離を詰めるのは自然だ。


 だがエレーナの方から距離を詰めてくる理由が分からない。


 考えられる仮説は二つ。


 一つ。エレーナは南方に関する調査のために、南方出身の商人を利用しようとしている。情報源として、あるいは宮廷外部の協力者として。


 二つ。エレーナはカイルの正体に疑いを持っており、近づくことで尻尾を掴もうとしている。


 どちらの場合も、距離が近づくことはカイルにとって好都合であると同時に危険だった。利用しようとしているなら利用し返せばいい。だが、疑われているなら、近づくほど露見の可能性が上がる。


 ——どちらだ。


 分からない。あの女の考えていることは、三度会って三度とも読めなかった。


 カイルは書記局を出て、商人街の方角に歩き始めた。


 十分前の会話を、頭の中で再生した。


 計量単位の質問。あれは本当に実務上の疑問だったのか。それとも、カイルの「南方の実務知識」を試したのか。エスターリャの商人なら当然知っている知識。答えられるかどうかで、エスターリャ出身という経歴の信憑性を確認した——そういう可能性はないか。


 考えすぎか。


 いや、あの女に対しては、考えすぎるくらいでちょうどいい。


 宿への道を歩きながら、カイルはもう一つ気づいたことがあった。


 書記局での会話の間、カイルは仮面を外していなかった。商人としての受け答えを維持し、社交辞令で適切に距離を取り、踏み込みすぎた質問も一つで止めた。


 だが——。


 エレーナが「誰もそれを整理しない。整理すると困る人がいるから」と言った時、カイルの中で何かが反応していた。同意ではない。共感でもない。もっと原始的な何か。


 ——この女も、この国の仕組みに怒っているのか。


 怒り方は違う。エレーナの怒りは静かで、知的で、書類と論理に裏打ちされている。カイルの怒りは——三百人の亡霊が叫ぶ、血と泥にまみれた怒りだ。同じものではない。


 だが、向いている方角が同じかもしれない。


 その可能性に、カイルは警戒した。


 同じ方角を向いている人間に、人は親近感を覚える。親近感は油断を生む。油断は計画を崩す。


 あの女は王族だ。三百人を還らずの大陸に送った国の王族だ。たとえ彼女自身がその決定に関与していなくとも、あの血の上に立っていることに変わりはない。


 ——忘れるな。


 カイルは宿の部屋に戻り、鍵を閉めた。


 ベッドに座って、靴を脱いだ。


 窓の外で、夕暮れの鐘が鳴っている。王都の日常の音。三百人には二度と聞けなかった音だ。


 頭の中で、名前の分からない誰かの残滓が呟いた。


 ——あの王女、悪い人間じゃなさそうだな。


 カイルは目を閉じた。


 ——だから厄介なんだ。

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