第12話:値踏み
翌週の講演会までの数日間を、カイルは本来の仕事に費やした。
本来の仕事とは、商いのことではない。
ドゥアルテの周辺を探ること。開拓事業の闇を裏付ける証拠を集めること。三百人の死に責任を持つ人間の輪郭を、少しずつ明らかにしていくこと。
それがカイルの「本来の仕事」だった。
だが、その仕事を遂行するためには、商人としての仕事も疎かにはできない。カルヴァーリョ商会の当主代理が取引をせずに王都にいれば怪しまれる。偽装は維持しなければならない。維持するには実績が要る。
この日、カイルは商人街の中ほどにある取引所に来ていた。
南方産の香辛料を扱う大口取引の商談だった。相手はペドロ・アルメイダという中年の商人で、王都でも指折りの食材卸売商だと聞いている。
取引所の一室。テーブルの上に香辛料の見本が並んでいる。アラカン胡椒。白サフラン。乾燥させた南方薄荷。小瓶に入った貝殻香。色も香りも鮮やかで、品質は確かだった。カイルがエスターリャで仕入れた——正確には、エスターリャの協力者に仕入れさせた——本物の商品だ。
「いい品だ」
アルメイダは白サフランを指先でつまみ、鼻に近づけて香りを確かめた。手慣れた動作だった。五十がらみの肉付きのいい男で、目は小さいが鋭い。商人というより、猟師のような目だった。
「特にこのアラカン胡椒は見事だね。エスターリャ産は粒が揃っていて香りが強い。王都の貴族連中の食卓には欠かせないからねえ」
「ありがとうございます。品質管理には力を入れておりまして」
「ただ、値が張る。うちも卸値をこれ以上上げられないからね。もう少し下げられないかね」
交渉が始まった。カイルは内心で計算しながら、適切な譲歩と主張を繰り返した。値引きの余地がどこにあるか。輸送費の按分。関税の上乗せ分。ロットの大きさ。支払い条件。
こういう時、三百人の断片が地味に役立つ。レナードの知識を前面に出して数字を処理しているのだが、交渉の押し引きの間に、別の残滓の癖がにじみ出てくる。譲れない局面で妙に腰が据わるのはロドリゲスの気質が混線しているのだろうし、相手の数字の甘さに対して反射的に眉が動くのは、ヨーゼフの頑固さが表に漏れているせいだ。意図的に切り替えているのではない。メインのチャンネルに他の残滓がノイズとして紛れ込む。制御しきれない副作用だが、交渉の場では結果的に有利に働くことが多かった。
三十分ほどの交渉で、双方が折り合える価格に落ち着いた。
「よし。この条件でいこう。次の船が入り次第、倉庫に搬入してくれ」
「承知しました」
握手を交わし、契約書に署名する。アルメイダはカイルの署名を見て、満足そうに頷いた。
「若いのにしっかりしてるね、カルヴァーリョさん。エスターリャの当主殿も、いい代理を寄越したもんだ」
「恐れ入ります」
「それとね——」
アルメイダは声を落とした。周囲に他の商人がいないことを確認してから、身を乗り出してきた。
「あんた、南方の商人だから言うんだがね。最近、南方産の品物が、妙なルートで王都に流れ始めてるんだ」
「妙なルート、とは」
「元老院議長閣下——ドゥアルテ閣下のお抱え商人がいてね。ヴィエイラ商会というんだが、そこが最近、うちと同等の南方産香辛料を、うちより安く出してるんだよ。それだけじゃない。染料や鉱石にも手を広げてるらしい。どこから仕入れているのか分からない。南方のどこかの港から直接買い付けているらしいんだが」
カイルは表情を変えなかった。
「それは気になりますね。南方産の香辛料を扱える仕入れ先は限られていますから、ある程度絞り込めるはずですが」
「そうなんだよ。だから気持ちが悪い。エスターリャの商人組合に問い合わせても、ヴィエイラの名前は知らないと言う。つまり正規のルートじゃない可能性がある。密輸とまでは言わないが、税を通していない取引かもしれない」
——ドゥアルテの息がかかった商人が、正規の流通を通さずに南方の物資を扱っている。
カイルの中で、レナードの残滓が静かに反応した。
ドゥアルテは南方貿易に関心を持っている。それは以前、香辛料組合の集まりで聞いた。だが関心を持っているだけでなく、実際に非正規のルートで南方の物資を流している。
これだけなら単なる脱税か密輸の話だ。だが、南方の「正規でないルート」という言葉が引っかかった。エスターリャの商人組合を通さない南方の港。それはどこだ。南方にはエスターリャ以外にも港はあるが、主要な産地に近い港となると——。
——考えすぎるな。今はまだ推測の域だ。
カイルはアルメイダに穏やかに訊いた。
「ヴィエイラ商会について、もう少し教えていただけますか。うちも南方の商人として、市場の動向を把握しておきたいので」
「ああ、いいとも。あんたにとっても競合になりかねないからね。ヴィエイラ商会の当主はリカルド・ヴィエイラ。五年前に突然王都に現れて、あっという間に南方産品の卸売で大きくなった。香辛料から染料、鉱石まで手広くやってる。背後にドゥアルテ閣下がいるのは公然の秘密さ。ただ、ドゥアルテ閣下ご本人は表には出ない。議長の名前が取引の書面に載ることは絶対にないんだ」
——書面に名前が載らない。
帳簿の行間に本当のことが書いてある、とエレーナは言った。だがドゥアルテの場合、帳簿にすら書かれていない。
「なるほど。参考になります。ヴィエイラ商会の取引先はどのあたりに?」
「主に宮廷関係だね。軍の装備品、神殿の祭具、それから王室御用達の布地——あ、それは布商のマテウスの方が詳しいかもしれないな」
マテウス。あの布商人か。カイルを懇親会に誘ってくれた人の良い男。マテウスがヴィエイラ商会のことを知っている可能性がある。
「ありがとうございます。大変参考になりました」
「いやいや。南方の商人同士、助け合おうじゃないか。ヴィエイラみたいな連中に市場を荒らされちゃ、我々まっとうな商人はやっていけないからね」
アルメイダは大きな声で笑った。カイルもそれに合わせて笑った。
##
取引所を出て、商人街を歩いた。
午後の通りは賑やかだった。荷車が行き交い、商人たちが店先で声を張り上げている。パン屋の香り。鍛冶屋の金属音。子供たちが路地を走り抜けていく。
この街に来て二ヶ月が経とうとしていた。
最初の頃は、この賑やかさが全て嘘に見えた。表面だけの繁栄。裏には三百人の死が隠されている。この笑い声も、この香りも、三百人を踏み台にして成り立っている——そう思っていた。
今も、そう思っている。思っているはずだ。
だが、商人街を歩く足取りが、最初の頃より軽くなっていることに気づいてしまった。
マテウスが道の向こうから手を振っているのが見えた。
「おう、カルヴァーリョ。今日の商談はどうだった」
「うまくいきました。アルメイダさんとは良い条件で纏まりそうです」
「そりゃあ良かった。あの人は口は悪いが商売は正直だよ。一度取引が成立すれば、長く付き合ってくれる」
マテウスの笑顔には裏がなかった。少なくともカイルにはそう見えた。三百人分の人生経験が、この男に悪意がないことを告げている。マテウスは単純に、新参の若い商人を世話してやりたいだけの善良な男だ。
「マテウスさん、少しお聞きしたいことが」
「なんだい」
「ヴィエイラ商会をご存じですか」
マテウスの表情がわずかに変わった。笑顔は消えなかったが、目の奥に用心深い光が差した。
「知ってるよ。うちとも取引がある。染料と布地の卸でね。……なんで聞くんだ」
「先ほどアルメイダさんから、市場で競合し得る商会として名前が挙がりまして。情報を集めておこうかと」
「ああ。……まあ、ヴィエイラ商会についてはな、あまり首を突っ込まない方がいいよ」
「と、おっしゃいますと」
マテウスは周囲を見回した。通りの人混みの中で声をひそめた。
「背後にでかい人がいるんだ。どこまで知ってるか分からないが、ヴィエイラの当主が自分の判断で動いてるわけじゃない。上から言われた通りにやってるだけだ。そういう商会に逆らうと、商売どころの話じゃなくなる」
「……上というのは」
「聞くなよ。あんたもここで商売を続けたいなら、ヴィエイラには近づくな。正面切ってぶつかるな。それだけだ」
マテウスの忠告は真剣だった。善意からの言葉だ。カイルにはそれが分かった。
「ありがとうございます。気をつけます」
「おう。……それよりさ、今夜、組合の仲間と飯を食うんだが、来ないか? アルメイダも来るぞ。あの男の若い頃の武勇伝が聞けるぞ、面白いんだ」
カイルは断ろうとした。
夜の時間は情報の整理と計画の練り直しに使いたい。ドゥアルテとヴィエイラ商会の関係を洗う必要がある。食事に時間を割く余裕はない。
だが、マテウスの顔を見て、断りの言葉が喉に詰まった。
この男は——人を疑わない顔をしている。三百人の中にも、こういう顔をした男がいた。名前は思い出せない。食事のたびに隣の人間に分けてやる癖がある男だった。餓えが深刻になる前に、瘴気にやられて死んだ。分けてやった食事の分だけ、他の誰かが一日長く生きた。本人はそれを知らないまま逝った。
「……喜んで」
カイルは微笑んで答えた。
これは偽装のためだ。商人仲間との付き合いを維持するためだ。情報収集の一環だ。
そう自分に言い聞かせた。
だが、言い聞かせなければならない時点で、何かがずれ始めていることにカイルは気づいていた。
##
夜の食事は、商人街の外れにある居酒屋で行われた。
マテウス、アルメイダ、そして他に三人の商人が集まった。全員、中堅どころの商人で、互いに長い付き合いがあるらしい。カイルだけが新参だったが、マテウスが「南方から来た有望な若いの」と紹介してくれたおかげで、すんなりと輪に入れた。
酒が回り始めると、話題は取り留めのないものになった。
最近の景気。関税の愚痴。誰それの息子が商売を継いだ話。隣町の市場が荒れている話。アルメイダの若い頃の話——密輸船に乗り込んで南方まで行って帰ってきた武勇伝は確かに面白かった。
カイルは適度に相槌を打ち、適度に笑い、適度に酒を飲んだ。この程度の社交は三百人の断片があれば難しくない。誰もが心地よく話せる聞き手になること。それはカイルにとって、最も容易な偽装の一つだった。
だが、この夜は少し違った。
「ところでカルヴァーリョ、あんた家族は」
アルメイダが赤い顔で聞いてきた。
「いえ。独り身です」
「もったいない。南方の女はいい女が多いと聞くぞ。うちの嫁はここの出身だがね、まあ、やかましくて」
「おい、聞こえたらまた怒られるぞ」
マテウスが笑って制した。
「でも確かに、あんた若いのに落ち着いてるなあ。商売も手堅いし、言葉遣いもしっかりしてる。どこで育ったんだ」
何気ない質問だった。悪意はない。酒の席の世間話。
カイルは練習した答えを返した。
「エスターリャの郊外で育ちました。両親は早くに亡くしまして、商会の先代に拾われたんです。商売はそこで覚えました」
「そうか。苦労人だな。道理で年の割にしっかりしてるわけだ」
嘘だった。全部嘘だった。エスターリャの郊外ではなく、還らずの大陸で育った。両親は早くに亡くしたのではなく、目の前で死んでいった。商会の先代など存在しない。
だが、嘘を吐くたびに、喉の奥に何か硬いものが引っかかるようになっていた。
以前はそんなことはなかった。嘘は道具だ。目的のために必要な道具。感情を挟む余地はない。五年間の放浪で、カイルはそう訓練してきた。
なのに、マテウスの「苦労人だな」という言葉が、妙に刺さった。
——苦労人。
苦労を知っている人間は苦労人を見抜く。マテウスにも、語らない過去があるのかもしれない。その過去から来る共感が、カイルの嘘に妙な重みを与えてしまう。
食事が終わり、カイルは宿に戻った。
部屋の鍵を閉め、椅子に座り、今日一日で得た情報を整理した。
紙を出す。
——ヴィエイラ商会。当主リカルド・ヴィエイラ。五年前に王都に出現。ドゥアルテの代理商。南方産品の卸売(香辛料・染料・鉱石)。南方の非正規ルートで物資を調達。書面にドゥアルテの名は出ない。
——ドゥアルテの利権構造:宮廷関係(軍装備、神殿祭具、王室御用達布地)を押さえている。ヴィエイラを通じて南方貿易にも手を伸ばしている。
これは開拓事業とは直接繋がらない。だが間接的には繋がるかもしれない。ドゥアルテが南方に非正規のルートを持っている。そのルートが、十五年前に開拓団を送った航路と重なる可能性がある。
まだ推測だ。証拠がない。
——証拠は、どこにある。
レナードの残滓が考える。王宮の公文書。元老院の議事録。港湾局の記録。そして——実際にその航路を知っている人間の証言。
実際に航路を知っている人間。
カイルはペンを止めた。
エレーナが港湾局の記録から、開拓事業に繋がる何かを独自に見つけている可能性がある。報告会での会話の端々から、そう推測できる。書類の欠落に気づいている。予算の異常に気づいているかもしれない。そしてその先に、何か具体的な手がかりを掴んでいるかもしれない。
エレーナは自分と同じ場所を、別のルートから掘り進めている。
利用できるか。
カイルはその考えを吟味した。冷静に。感情を排除して。
エレーナが見つけた情報を引き出せれば、カイルの調査は大幅に進む。王宮の公文書にアクセスできるのはエレーナだけだ。カイルがどれだけ商人街で情報を集めても、公文書の壁は越えられない。
だが、エレーナから情報を引き出すということは、エレーナとの距離をさらに縮めるということだ。そしてエレーナは、距離が縮まれば縮まるほど、カイルの嘘を見抜く確率が上がる相手だ。
矛盾している。近づかなければ情報が得られない。近づけば正体がばれる。
——ならば、近づかれる前にこちらから制御しろ。
レナードの残滓が言う。教師の口調。
——距離を縮めるのはいい。だが、縮める速度と方向をこちらが決めろ。主導権を握れ。
主導権。報告会で一度も握れなかった主導権。
カイルは紙をもう一枚出した。
ドゥアルテの関係図の隣に、もう一つの図を描いた。エレーナとカイルの関係図。今の接点。今後の接点。情報の流れ。警戒すべきポイント。
図を描きながら、カイルは自分に言い聞かせた。
あの女は王族だ。駒だ。道具だ。この国の構造を暴くための、鍵の一つにすぎない。
書記局で「整理すると困る人がいるから」と言ったエレーナの横顔が、不意に浮かんだ。
カイルは紙の上にペンを強く押し当てた。インクが滲んだ。
——余計なことを考えるな。
三百の声のうち、マルタの残滓だけが黙っていた。マルタはいつも、カイルが自分に嘘をつく時に黙る。否定も肯定もしない。ただ黙って、カイルが自分で気づくのを待っている。
だが今夜、カイルは気づかないことにした。
灯りを消し、ベッドに横になった。
明日も商人の仕事がある。明後日もだ。講演会は三日後。
三日後に、またあの銀髪の王女と顔を合わせることになる。
目を閉じた。
眠りに落ちる寸前、頭の中に母の子守唄がかすかに流れた。いつもは寝入りの時に聞こえる残滓の中で最も穏やかな音。リディアが歌っていた、言葉のない旋律。
その旋律に身を任せて、カイルは眠った。




