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第13話:本の虫

 南方貿易に関する講演会は、商業組合の大広間で行われた。


 出席者は四十名ほど。大半は商人だが、学者らしい姿もちらほら見える。壇上には痩せた中年の男が立っている。王立学院の教授で、南方地域の通商史を専門としているらしい。名前はフェレイラ。


 カイルは後方の席に座った。


 前方に座れば壇上からよく見える。後方なら、出席者全体を見渡せる。どちらが商人として自然かではなく、どちらが観察者として有利かで席を選んだ。


 講演が始まった。


「——ヴァルディア王国と南方地域の通商関係は、およそ百年前の航路開拓に遡ります。当時のラモス王が南方への関心を示し——」


 フェレイラ教授の声は明瞭で、内容は堅実だった。南方貿易の歴史を百年前から現在まで通史的にたどる構成で、学術的には手堅い。だが、カイルの耳が拾ったのは、語られていることよりも語られていないことの方だった。


 百年前の航路開拓。五十年前の通商条約。三十年前の関税改定。そして——十五年前は飛ばされた。


 十五年前の南方大陸開拓事業。フェレイラ教授はそこに一切触れなかった。意図的に避けたのか、本当に知らないのか。カイルには判断がつかなかったが、学術的な通史で十五年前だけが空白になっていること自体が、不自然だった。


 講演は一時間ほどで終わり、質疑応答の時間に入った。


 最初の質問は商人からだった。関税率の今後の見通しについて。教授は政治的な予測は控えると前置きしつつ、歴史的な傾向から見て引き下げの可能性は低いと答えた。


 二番目の質問も商人から。南方産の薬草の品質基準について。


 三番目は——。


「質問させていただいてもよろしいかしら」


 エレーナの声だった。


 カイルは視線を動かした。エレーナは会場の中ほど、通路側の席に座っていた。従者が隣にいる。前回の書記局とは違う従者で、今回は若い男性だった。


 会場がざわめいた。第二王女の出席に気づいていなかった者が多いようだった。フェレイラ教授の顔が一瞬強張り、すぐに恭しい笑みに変わった。


「殿下。ご質問をどうぞ」


「先生の講演は大変勉強になりました。百年にわたる通商史を簡潔にまとめていらして、分かりやすかったわ。一つお聞きしたいのですけれど」


 エレーナの声は穏やかだった。礼儀正しく、知的で、どこにも棘がない。だがカイルは、あの声が棘を隠せることを知っていた。


「先生は南方地域に関する歴史をご専門とのことですが、過去に王室主導で行われた南方地域への——事業と呼ぶべきでしょうか、何らかの公的な取り組みについて、学術的な記録はございますか」


 質問は丁寧に曖昧だった。「開拓事業」とは言っていない。「事業」とも断定していない。「何らかの公的な取り組み」。語の選び方が慎重だった。


 フェレイラ教授は一瞬考えるようなそぶりを見せた。


「南方地域への王室主導の事業ですか。通商条約の締結や使節団の派遣は記録がございますが、それ以外ということでしょうか」


「ええ。例えば、移民や開拓に類する事業です。私は図書館の管理をしておりますので、公文書の中にそういった記録の断片を見かけることがあるのです。学術的に研究されたものがあれば、参考にしたいと思いまして」


 ——断片。


 カイルの耳がその言葉を拾った。エレーナは「断片」と言った。完全な記録ではなく、断片。それは嘘ではない。エレーナが見つけているのは確かに断片だ。だがその断片が何を指しているか、ここにいる誰も——カイル以外は——知らない。


 フェレイラ教授は首を傾げた。


「移民や開拓ですか。……正直に申しまして、私の知る限り、王室主導でそのような事業が行われたという学術的な記録は存じません。もちろん、私の研究が及んでいない領域があるかもしれませんが」


「そうですか。やはりご存じない」


 エレーナの「やはり」という言葉が、会場にわずかな波紋を広げた。「やはり」ということは、他の人間にも同じ質問をして、同じ答えを得ているということだ。


 だが波紋はすぐに消えた。出席者の大半は、王女の学術的な好奇心の一環として聞き流したようだった。図書館の管理者が文献を探している。それ以上の意味を読み取った者は——いるかもしれないし、いないかもしれない。


 カイルは読み取った。


 エレーナは公の場で、わざと質問した。学者が知らないことを確認するために。そして「やはりご存じない」と言うことで、暗に「知られていないこと自体がおかしい」というメッセージを発した。


 誰に向けて?


 会場全体に向けてか。それとも——この場にいる特定の誰かに向けてか。


 カイルは自分がその「特定の誰か」である可能性を考えた。エレーナは講演会にカイルが出席することを知っていた。わざわざ教えてくれた。カイルがこの質問を聞くことを、計算に入れていたのか。


 ——考えすぎだ。


 いや。あの女に対しては、考えすぎるくらいでちょうどいい。


 質疑応答はその後も数問続いたが、カイルの頭に入ってこなかった。



##


 講演会が終わり、出席者がぞろぞろと出口に向かった。


 カイルは急がずに立ち上がった。前方のエレーナがまだ席にいるのが見えた。フェレイラ教授が壇上から降りて、エレーナの席に歩み寄っている。何か話している。おそらく先ほどの質問について、個別に補足しているのだろう。


 カイルは出口の方に向かった。


 今日はここまでだ。エレーナの質問の意図は確認できた。情報を整理する必要がある。ここで無理に接触する理由はない。


 だが、出口に向かう途中で足を止めた。


 通路の壁際に、小さな書架があった。商業組合が組合員向けに設置した書架で、南方貿易に関する実用書が数十冊並んでいる。カイルは何気なく背表紙を眺めた。香辛料の分類図鑑。航海術の入門書。南方諸港の港湾案内。


 一冊、背表紙の色が違う本があった。革装の古い本。「南方大陸 植生及び地誌概論」。


 手に取った。著者はフランシスコ・ダ・コスタ。五十年前の出版で、南方大陸の植生、地形、気候を概括的に記した学術書だった。ページを繰ると、精密な植物のスケッチが載っている。瘴気に侵される前の、健康な土壌に生える植物の図鑑。


 カイルの目が止まった。


 一枚のスケッチ。白い花をつける低木。名前は「アルヴォーレ・ダ・エスペランサ」——希望の木。


 知っている。


 この花を知っている。開拓地の、まだ瘴気に冒されていなかった頃の草原に、この花が咲いていた。白い花弁。甘い香り。母が「きれいね」と言って、一輪摘んで髪に挿した。


 記憶が溢れかけた。


 カイルは本を閉じた。手が震えていた。微かに。指先だけ。


 深呼吸。マルタの呼吸法。吸って、止めて、吐く。三百の声を押し込める。ここは講演会場の出口だ。人がいる。感情を漏らすわけにはいかない。


 三秒で収めた。手の震えが止まった。


 本を書架に戻そうとした時。


「その本、お好き?」


 背後からの声にカイルは振り返った。


 エレーナが立っていた。教授との会話を終えて、出口に向かう途中だったのだろう。従者が数歩後ろに控えている。


「……いえ、少し気になって手に取っただけです」


「ダ・コスタの地誌概論ね。古い本だけれど、南方大陸の自然環境について書かれたものとしては、今でも最も詳しい文献の一つよ。この人は実際に南方大陸に渡って調査をしたの。五十年前に」


「そうなのですか」


「ええ。王室の支援で学術調査団が派遣されたの。半年間の調査で、植物の標本を三百種以上持ち帰ったと記録にあるわ。……面白いことに、この調査団の記録はきちんと残っているの。報告書も、参加者名簿も、予算の明細も。全部」


 最後の一文に、エレーナは僅かな力を込めた。


 カイルは気づいた。記録がきちんと残っている調査団がある。一方で、記録が全て欠落している事業がある。エレーナはその対比を、カイルの前で口にした。


 意図的だ。


 だが、カイルは反応しなかった。反応してはいけない。


「なるほど。学術調査の記録は充実しているのですね。学者の方々の仕事の丁寧さがうかがえます」


「ええ。……学者は記録を残すことに誠実よ。政治家はそうとは限らないけれど」


 沈黙が流れた。一拍。二拍。


 エレーナが先に視線を外した。


「あの本、もしご興味があるなら貸してあげましょうか」


「え?」


「組合の書架にあるものだから、組合員は持ち出せるはずよ。ただ、管理番号の記入が必要ね。……それか、私が持っている別の版があるの。王宮図書館の書庫にある方が状態がいいし、注釈も充実しているわ。そちらをお貸ししましょうか」


 カイルは考えた。


 本を借りる。それは次の接点を作るということだ。しかも王宮図書館の本ということは、返却の際に王宮に行く理由ができる。


 エレーナがそこまで計算しているかは分からない。本当に学術書に興味を示した商人に好意で貸そうとしているだけかもしれない。


 だが——。


 エレーナの提案を受ければ、カイルはエレーナとの距離をさらに一歩縮めることになる。それは計画上、有利だ。だが同時に、エレーナの観察下に自分を置くことにもなる。


 利と害を天秤にかけた。二秒で判断した。


「ありがたいお申し出ですが、殿下のお手を煩わせるのは恐縮です。組合の書架のもので十分ですので」


 断った。


 エレーナは一瞬、かすかに目を細めた。予想と違ったのだろうか。


「そう。遠慮しないでいいのに」


「いえ、本当に。王宮図書館のお本を平民の商人が借りるというのは、さすがに分を弁えていないかと」


「分を弁える、ね」


 エレーナの口調が微妙に変わった。批評するような調子。だがすぐに元に戻った。


「では、こちらの書架のものをどうぞ。管理台帳に名前を書けば持ち出せるはずよ。読み終わったら感想を聞かせてくださいな」


「ありがとうございます。必ず」


 エレーナは従者と共に去っていった。


 カイルは書架の前に残った。


 断ったのは正解だった。王宮図書館の本を借りれば、返却時にエレーナと私的な空間で会うことになる。まだ早い。距離を縮める速度は、こちらが制御しなければならない。


 だが——。


 エレーナが「分を弁える」という言葉に引っかかった時の、あの表情。批評するような、しかし同時にどこか寂しそうな目。


 ——分を弁えることを当然とする社会の構造に、あの女は苛立っているのか。


 そう思ったが、すぐに打ち消した。あの女の内面を推測するのは危険だ。推測は共感を生み、共感は油断を生む。


 カイルは管理台帳に「カイル・カルヴァーリョ」と記入し、ダ・コスタの地誌概論を手に取った。


 革装の表紙は手に馴染んだ。古い本特有の、乾いた紙とインクの匂い。


 この本に、あの白い花の名前が載っている。母が髪に挿した花の。


 それは——読むべきか、読まないべきか。


 カイルは本を鞄に入れた。


 読む。商人として、南方の植生について知識を補強するために読む。それだけだ。


 それ以上の理由はない。

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