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第14話:灯りの下で

 その夜、カイルは宿の部屋で本を開いた。


 窓の外は暗い。燭台の灯りが頼りない影を壁に投げかけている。ベッドには座らず、机に向かった。本を読む時の姿勢は、レナードの残滓が厳しい。「本は机で読め。寝床で読むのは本に対する冒涜だ」——レナードが生前、学院の生徒に何百回も言った言葉の残響が、カイルの身体に染みついている。


 「南方大陸 植生及び地誌概論」。フランシスコ・ダ・コスタ著。


 表紙を開くと、最初のページに五十年前の日付が入っている。王立学院出版局の印章。王室の紋章入りの奥付。正式な学術書だった。


 目次を眺めた。全八章。南方大陸の地理的概要、気候、土壌、植生、動物相、鉱物資源、水系、そして最終章が「今後の探査への提言」。


 カイルは第四章「植生」から読み始めた。


 ページを繰るたびに、精密なスケッチが現れる。五十年前の学者が、南方大陸の植物を一つ一つ丁寧に描き写したものだ。根の形状、葉脈のパターン、花弁の配色。学術的な正確さと、同時にどこか温かみのある線。描いた人間が、これらの植物を愛していたことが伝わってくる。


 レナードの残滓が反応した。ダ・コスタという名前に覚えがある。王立学院の教授で、南方研究の第一人者だった。レナードが学院にいた頃にはすでに引退していたが、著書は教科書として使われていた。


 ——この人物は誠実な学者だった。記録を残すことに真面目な人間だ。


 エレーナが言っていた。学者は記録を残すことに誠実だ、と。このダ・コスタの本はその好例だった。植物の分布、採取場所、土壌の性質、全てが詳細に記録されている。


 カイルはページを繰り続けた。


 瘴気についての記述を探した。五十年前の調査時点では、瘴気はまだ広範囲には発生していなかったようだ。ダ・コスタは「南方大陸の一部地域に、植物の生育を阻害する不明な気体が確認された」と記している。「現地の土壌から発生するものと推測されるが、原因は不明。影響範囲は限定的であり、大陸全体の開発可能性を否定するものではない」。


 ——開発可能性を否定するものではない。


 五十年前はそうだった。瘴気は「限定的」だった。だが十五年前、開拓団が到着した時には、瘴気はすでに大陸の広範囲に広がっていた。五十年の間に何かが変わった。それが自然現象なのか、何か別の原因があるのかは分からない。


 ダ・コスタの時代に調査が行われ、報告書が作成され、学術的な議論がなされた。その上で「開発可能性がある」という結論が出た。


 十五年前の開拓事業は、おそらくこの結論を根拠にしている。五十年前の調査結果を持ち出して「南方大陸は開発できる」と主張し、開拓団を送り込んだ。だが五十年の間に瘴気の状況が変わっていたことを、事業を主導した人間は知っていたのか。知っていて送ったのか。


 ——知っていた可能性がある。


 レナードの残滓が推測する。


 ——支援船が物資を運んだのは二回だ。一回目は予定通り。二回目は物資が減っていた。三回目は来なかった。一回目の支援船が帰還した時点で、瘴気の深刻さは報告されていたはずだ。にもかかわらず、三回目を送らなかった。送らなかったのではなく、送る気がなかった可能性がある。


 カイルはページを繰る手を止めた。


 この推論は新しいものではない。何年も前から頭の中にある。だがダ・コスタの本を読むことで、推論の背景が少し明確になった。開拓事業の「根拠」として使われたであろう五十年前の調査結果と、十五年前の現実との乖離。その乖離を知りながら人を送ったのだとすれば——。


 手に力がこもった。本の角が掌に食い込んだ。


 ——落ち着け。


 自分に言い聞かせた。呼吸を整えた。


 今は証拠を集める段階だ。感情で動く時ではない。



##


 第五章「動物相」を飛ばし、第六章「鉱物資源」に目を通した。南方大陸の鉱物資源について、ダ・コスタは楽観的な記述をしている。鉄鉱石、銅鉱、そして微量の魔法石。


 ——魔法石。


 カイルの目が止まった。


 魔法石は魔力を蓄積・増幅する鉱物で、王国では極めて貴重な資源とされている。主な産地は北方の山岳地帯だが、ダ・コスタは南方大陸にも「微量ながら魔法石の鉱脈が確認された」と記している。


 開拓団がいた頃、魔法石の存在は知られていなかった。少なくともカイルの記憶にはない。レナードの知識にもない。だが、ダ・コスタの五十年前の記録には載っている。


 では——。


 ドゥアルテが南方に関心を持っている理由は、香辛料でも染料でもなく、魔法石ではないのか。


 推測が先走っている。だが、ドゥアルテの「何を運んでいるか分からない」南方貿易と、南方大陸の魔法石鉱脈を結びつけることは、それほど突飛ではない。


 カイルは手元の紙にメモを走らせた。


 ——ダ・コスタ著「地誌概論」第六章。南方大陸に魔法石の鉱脈あり。微量と記載。ドゥアルテの南方貿易との関連は?


 ペンを止めた。


 この本を勧めたのはエレーナだ。エレーナはこの本の内容を知っている。「注釈も充実している」と言っていた。王宮図書館の版を持っていると。


 エレーナは、この本の中に魔法石の記述があることを知った上で、カイルに勧めたのか。


 それとも、単に南方の植生に関する良書として勧めただけなのか。


 ——あの女の意図を読もうとするのは、泥沼にはまるのと同じだ。


 レナードの残滓が忠告する。


 ——読めないなら、読もうとするな。事実だけを集めろ。


 その通りだ。カイルは本に目を戻した。


 第七章「水系」を流し読みし、最終章の「今後の探査への提言」を開いた。ダ・コスタは南方大陸のさらなる学術調査を提言し、「この大陸には、まだ我々の知らない多くのものが眠っている」と結んでいる。学者らしい、抑制された希望の表明だった。


 カイルは本を閉じかけた。


 その時、最終ページの後に何かが挟まっていることに気づいた。


 薄い紙片。折り畳まれた小さな紙が、裏表紙と最終ページの間に挿まれている。


 カイルは紙片を取り出した。


 広げると、細い文字が数行書かれていた。


 筆跡は繊細で、しかし迷いのない線だった。インクの色は薄い。書かれてからある程度の時間が経っている。


 内容はこうだった。


 ——ダ・コスタの記述する「不明な気体」は、現在の学術用語では「瘴気」に相当するものか。五十年前には「限定的」だったものが、その後どう変化したかの記録がない。続報を探すこと。


 そして、その下にもう一行。


 ——記録がないこと自体が、記録である。


 カイルは紙片を見つめた。


 この筆跡には覚えがなかった。だが、文章の質——簡潔で、論理的で、最後に警句のような一文を添える——その書き方に、既視感があった。


 報告会でエレーナが言った言葉。「帳簿の行間に、本当のことが書いてある」。


 記録がないこと自体が、記録である。


 同じ思考の型。同じ言語感覚。


 この紙片は——エレーナのものか。


 断定はできない。組合の書架にある本を読んだ人間は他にもいるだろう。学者かもしれない。別の司書かもしれない。筆跡を比較する手段もない。


 だが、もしこれがエレーナの書き込みだとすれば——。


 エレーナはこの本を以前に読んでいる。瘴気の変化に関心を持っている。そして「記録がないこと」に敏感に反応する人間だ。


 そして、この紙片が本に挟まったまま書架に戻されている。消し忘れか。それとも——。


 それとも、この本を次に手に取る人間に向けたメッセージか。


 カイルは紙片をテーブルの上に置いた。


 ——考えすぎだ。


 だが、考えすぎだと分かっていても、可能性を排除できなかった。


 仮にこれがエレーナのメモだとする。仮に消し忘れだとする。その場合、エレーナはカイルにこの本を勧めた時、紙片の存在を忘れていた。つまり、カイルに読ませるつもりはなかった。


 仮にこれがエレーナのメモで、意図的に残したのだとする。その場合、エレーナはカイルがこの紙片を読むことを見越していた。「記録がないこと自体が記録である」というメッセージを、カイルに向けて残した。


 前者なら、エレーナの調査の断片がたまたま露出しただけだ。後者なら——エレーナはカイルを試している。あるいは、協力者として見定めようとしている。


 どちらにしても、カイルが取るべき行動は同じだった。


 この紙片を見なかったことにする。


 反応すれば、エレーナに自分の関心の所在を晒すことになる。「記録がないこと自体が記録である」という言葉に、カイルがどう反応するか。それを観察するために残された紙片だとすれば、反応した時点でカイルの負けだ。


 ——反応するな。黙って本を返せ。紙片は元の場所に戻せ。


 レナードの残滓が指示する。


 カイルは紙片を折り畳み、本の元の位置に挟み直した。


 正しい判断だ。これでいい。


 だが——。


 「記録がないこと自体が、記録である」。


 その一文が、頭の中で反響していた。


 エレーナの言葉であるかどうかに関係なく、この一文はカイルの中の何かに触れていた。三百人の記録。開拓団の名簿。成果報告書。全て「ない」。その「なさ」が、三百人の存在を否定している。この国は三百人がいたことすら記録に残していない。名前も、顔も、生きていたことすらも。


 カイルの手が震えた。今度は感情を制御するのに五秒かかった。


 ——怒るな。今は怒る時じゃない。


 呼吸を整えた。


 五秒で収まった。だが、収めた後の空洞が、いつもより深かった。


 この国の仕組みに怒っている人間が、もう一人いるかもしれない。王族の中に。


 その事実は——好都合なのか。危険なのか。


 好都合だ、とレナードの残滓が言う。利用できる。


 危険だ、とマルタの残滓が言う。近づきすぎるな。


 カイル自身は——判断を保留した。


 今はまだ、判断する材料が足りない。エレーナが何を知っていて、何を目指しているのか。カイルの存在をどう位置づけているのか。それが分からない限り、距離の取り方を決められない。


 ただ一つ、はっきりしていることがある。


 エレーナ・ヴァルディアは、カイルが当初想定した「世間知らずの王女」ではない。書類の行間から真実を読み取る聡明さがある——それは報告会の時点で分かっていた。


 だが今夜、認識を改めた。

 あの女は、読むだけでは止まらない。知った上で、動く。

 その認識を得たことは、今夜の収穫だった。同時に、警戒のレベルを一段上げる理由でもあった。


 カイルは本を閉じ、机の引き出しにしまった。


 灯りを消す前に、窓の外を見た。


 夜空に星が出ている。雲の切れ間から、南の方角に明るい星が一つ。


 開拓星。


 カイルはその星を三秒だけ見つめて、視線を外した。


 あの星のことは、誰にも話していない。話すつもりもない。あれは三百人と自分だけのものだ。


 灯りを消した。


 暗闇の中で、母の子守唄が流れかけたが、今夜はそれを聞く前に眠りに落ちた。

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