第15話:返却
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翌朝、カイルは本を返しに行った。
ダ・コスタの「南方大陸 植生及び地誌概論」。革装の表紙は一晩で少し手に馴染んだ気がしたが、気のせいだろう。
紙片は元の位置に戻してある。最終ページと裏表紙の間。折り目も向きも、昨夜見つけた時のまま。カイルは確認してから鞄に入れた。確認すること自体が過剰な慎重さだと分かっているが、あの女が相手では過剰でちょうどいい。
商業組合の書架は、大広間の奥の壁際にある。組合員なら自由に閲覧・貸出ができるが、管理は杜撰だった。台帳に名前と日付を記入し、返却時にもう一度記入する。それだけだ。
書架係は年配の男で、組合の雑務を一手に引き受けている類の人間だった。眼鏡の奥の目は眠そうだったが、愛想は良い。
「ダ・コスタの地誌概論ですか。ずいぶん渋い本を借りますな。もっとも、南方の商人さんなら珍しくもないのかな」
「勉強熱心な方ですね、と言ってもらえると嬉しいのですが」
「はは。まあ、組合員で読む方は少ないですよ。学者向けの本ですからな」
カイルは台帳に返却日を記入しながら、さりげなく尋ねた。
「最近、この本を借りた方は他にいらっしゃいますか。知人に勧めたいのですが、すでに読んでいるなら別のものを——」
「さあ、どうでしょう。貸出記録は……」
書架係は台帳を繰った。
「直近だと、あなたが初めてですな。その前は——三ヶ月前に一度、どなたかが手に取った形跡がありますが、名前の記入がない。管理番号だけ書いてある。閲覧だけして戻したのかもしれません」
三ヶ月前。名前なし。管理番号だけ。
エレーナが読んだとすれば、組合員として台帳に記入する必要はない。王族が組合の書架を利用する際の手続きが別にある可能性もあるし、そもそも王女が記帳を求められることは考えにくい。
確認できたのは「この本を最近読んだ人間の名前は分からない」ということだけだった。
紙片の主は、依然として不明のままだ。
「ありがとうございます。参考になりました」
カイルは本を書架に戻した。背表紙を棚に押し込む時、一瞬だけ指先が止まった。
あの紙片が、この本の中で眠り直す。「記録がないこと自体が、記録である」。次にこの本を手に取る人間は、あの紙片に気づくだろうか。気づいたとして、何を思うだろうか。
——お前には関係のないことだ。
レナードの残滓が制止した。カイルは手を離した。
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その日の午後は商人街を回った。
取引先への挨拶と、定例の仕入れ交渉。カルヴァーリョ商会の当主代理としての日常業務だ。エスターリャから取り寄せた香辛料のサンプルを持ち歩き、新規の取引先を一件開拓した。仕立屋の亭主が妻の料理用にサフランを求めていたのを、マテウスからの紹介で拾った案件だ。小口だが、商人街での顔を広げるには小口の積み重ねが効く。
夕方、マテウスと茶を飲んだ。
マテウスは相変わらず世話好きだった。商人街の噂話を惜しみなく共有してくれる。カイルにとっては、金を払わずに得られる最良の情報源の一つだ。
「ヴィエイラ商会のことだがね」
マテウスが声を低くした。茶屋の奥の席。隣の卓との間には十分な距離がある。
「先月、宮廷の軍備調達で大きな契約を取ったらしい。騎士団の装備一式。鎧、剣、盾、馬具。一括納入だそうだ」
「軍備調達ですか。商会としてはかなりの規模ですね」
「規模だけの話じゃない。軍備調達は普通、王室御用達の老舗が仕切る。ロペス商会やカルドーゾ商会が何十年もやってきた分野だ。そこにヴィエイラが割り込んだ。五年前に出てきたばかりの商会がだぞ」
マテウスの眉が寄った。商人として、秩序の撹乱を嫌う顔だった。
「割り込めた理由は?」
「価格だ。他の商会が出せない値段を出した。原価割れに近いんじゃないかと噂されている。そんな値段でやれば赤字だが、ヴィエイラは平気な顔をしている。つまり——」
「別の収入源がある」
「そういうことだ。南方から何を運んでいるか知らんが、それで利幅を補っているんだろう。軍備調達は儲けが目的じゃない。宮廷との繋がりが目的だ」
カイルは茶碗に口をつけた。
ドゥアルテの利権構造が、また一段はっきりした。ヴィエイラ商会は南方貿易で利益を得て、その利益を原資に軍備調達で宮廷に食い込む。ドゥアルテは元老院から宮廷の実務面にまで影響力を伸ばしている。
——接触するか。
ヴィエイラ商会に直接近づくことを、カイルは数日前から考えていた。同じ南方産品を扱う商人として、取引の接点を作ること自体は不自然ではない。だがリスクがある。ヴィエイラ商会がドゥアルテの代理商であるなら、不審な商人には敏感なはずだ。
——まだ早い。
レナードの残滓が制止した。
——ヴィエイラ商会に近づけば、ドゥアルテの視野に入る可能性がある。お前の存在がドゥアルテに知られれば、計画は終わりだ。今はまだ、外から観察する段階だ。
正論だった。カイルは同意した。
「マテウスさん。忠告には感謝しています。首は突っ込みません」
「頼むよ。お前さんは商売の筋がいいんだ。変なところで潰れてほしくない」
マテウスの言葉には本心が滲んでいた。善意だ。計算のない、ただの善意。
カイルは笑顔で応じた。偽物の笑顔で、本物の善意に応じた。
茶屋を出て、宿に向かう道すがら、夕暮れの空を見上げた。星はまだ出ていない。
宿に戻り、夜、一人になった。
机に向かい、メモを整理した。ダ・コスタの本の情報。ヴィエイラ商会の動向。エレーナとの四度の接触の記録。
エレーナとの距離をどう取るか。
——利用しろ。
レナードの残滓が言う。
——王宮に食い込む駒として使え。感情を挟むな。
——近づきすぎるな。
マルタの残滓が言う。
——あの娘の目は、お前を見抜こうとしている。見抜かれたら終わりだ。
二つの声は矛盾しているようで、実は同じことを言っている。「距離を間違えるな」と。
カイルは椅子の背に身体を預けた。
距離の制御権を自分が握る。そう決めていた。だが、四度の接触を振り返ると、制御権を握れていたかどうか怪しい。毎回、主導権はエレーナの側にあった。懇親会で自己紹介を遮られた時。報告会で帳簿の行間を突きつけられた時。書記局で講演会の情報を渡された時。講演会で本を勧められた時。
全て、エレーナが場を設定し、エレーナが話題を選び、エレーナが接点の頻度を決めている。
次の接点も、おそらくエレーナの側から来る。
待つのか。
待つしかない。こちらから動けば、関心の所在を晒すことになる。エレーナが何を知っていて何を目指しているのかが分からない以上、こちらから近づく合理的な理由を作れない。
待て。情報を集めろ。反応するな。
カイルは灯りを消した。
暗闇の中で、母の子守唄が微かに流れた。今夜はそれを聞く余裕があった。聞きながら、眠りに落ちた。
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