第16話:棚の隙間
エレーナ・ヴァルディアには、眠れない夜の過ごし方がある。
図書館に行く。
王宮図書館は夜でも一部の区画に灯りが残されている。書庫の奥、公文書の保管室に近い閲覧席に、エレーナ専用の場所がある。専用と言っても公式なものではない。深夜にこの区画を使う人間が彼女以外にいないだけだ。
講演会から三日が経っていた。
エレーナは閲覧席で紙束を広げていた。港湾局の記録だ。正確には、港湾局の古い記録の写し。原本は港湾局の書庫にあるが、七年以上前のものは王宮図書館の公文書保管室にも副本が収められる決まりになっている。行政の効率としては無駄だが、エレーナにとっては都合が良い。港湾局に出向かなくても、ここで閲覧できる。
探しているのは、十五年前に出航した船の記録だった。
出航記録そのものは以前に確認している。春に一度、夏に一度、翌年の春にもう一度。「南方」行きの船が少なくとも三回出航している。船長ガスパル・メンデスの名前は、一回目の出航記録に残っていた。
今夜、エレーナが探しているのは別のものだった。
積荷目録。
出航する船には積荷目録の提出が義務づけられている。港湾局が積荷の内容を記録し、関税の算定に使う。十五年前の目録が残っているかどうかは五分五分だったが、エレーナは見つけた。
一回目の出航の積荷目録。
内容は大部分が食料と農具だった。穀物、種子、農機具、建築資材、医薬品。開拓団に必要な物資のリストとして、不自然なところはない。量が少ない——三百人分の三年間の支援にしては明らかに足りない——という疑問はあるが、それは以前から分かっていたことだ。予算の大半が別に流れた結果だろう。
エレーナの指が止まったのは、目録の末尾に近い項目だった。
「帰路積荷:特殊鉱石サンプル(少量)、植物標本、土壌サンプル」
帰路積荷。つまり、支援物資を届けた船が帰りに持ち帰ったものだ。
植物標本と土壌サンプルは理解できる。新しい土地の調査として自然だ。だが——特殊鉱石サンプル。
鉱石。
ダ・コスタの地誌概論に、南方大陸の鉱物資源についての章があった。鉄鉱石、銅鉱、そして「微量ながら魔法石の鉱脈が確認された」という記述。
支援船が持ち帰った「特殊鉱石サンプル」は、魔法石のことではないのか。
推測だ。確証はない。「特殊鉱石」が何を指すかは目録には書かれていない。だが、わざわざ「特殊」と記す以上、鉄や銅のような一般的な鉱石ではないだろう。
エレーナは紙にメモを取った。
——帰路積荷に「特殊鉱石サンプル」。ダ・コスタの記述(魔法石鉱脈)との関連?
そしてもう一つ、気になることがあった。
二回目、三回目の出航記録には、積荷目録が添付されていない。目録そのものが存在しない。出航記録だけがあり、何を積んでいたかの記録がない。
一回目だけ目録がある。二回目以降はない。
最初の一回は正規の手続きを踏んだ。だが二回目以降は手続きを省いた——あるいは、記録を消した。
エレーナはペンを置いた。
窓の外は暗い。星は見えない。雲が出ている。
講演会でカイル・カルヴァーリョにダ・コスタの本を勧めたのは、三日前のことだ。組合の書架にある版を。王宮図書館の版は断られた。
あの男は断った。分を弁えている、と。
分を弁える。
その言葉の選び方が、エレーナの中に引っかかったままだった。あれは世間知らずな遠慮ではない。距離を制御するための意図的な拒絶だった。
——あの男は、近づきすぎることを警戒している。私を利用しようとしているのか、私から逃げようとしているのか、どちらだろう。
あるいは、両方か。
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翌日、エレーナは組合の書架の管理を行う事務局に、知人の書記官を通じて一つの確認を入れた。
ダ・コスタの地誌概論の返却状況。
回答は翌日に届いた。「カイル・カルヴァーリョ氏が一泊で返却済み」。
一泊。借りた翌日に返した。
あの本は全八章ある。一晩で全て読むのは不可能ではないが、学術書だ。普通の商人が興味本位で手に取ったなら、最初の数章で飽きて返す。あるいは数日かけてゆっくり読む。
一泊で全て読んで返した。必要な情報を抽出して、さっさと手放した。そういう読み方だ。
そして——。
エレーナは、あの本に紙片を挟んでいたことを思い出した。
三ヶ月前、組合の書架でダ・コスタの本を閲覧した時に、メモを挟んだまま戻してしまった。気づいたのは数日後だったが、取りに行くタイミングを逃した。組合の書架にわざわざ王女が出向けば目立つ。紙片の内容は——「記録がないこと自体が、記録である」。自分のメモだが、文脈を知らない人間が読んでも意味が分からないだろうと判断し、放置していた。
だが、カイルが読んだ。
あの男は南方航路に何らかの関わりを持つ人間だ。帳簿の行間を読む男だ。あの紙片を見つけたら、その意味を理解できるだろう。
問題は、カイルがどう反応したかだ。
紙片について問い合わせが来るかもしれない。書架係に筆跡を確認するかもしれない。あるいは——何もしないかもしれない。
エレーナは知人の書記官にもう一つ確認を依頼した。返却された本の状態に異常がないか。紙片——小さなメモ書き——が挟まっていたかどうか。
回答。「特に異常なし。紙片については確認したところ、本の末尾に一枚挟まっている。返却前からあったものかどうかは不明」。
挟まっている。
カイルは紙片を見つけた。見つけた上で、元の位置に戻した。書架係にも問い合わせていない——いや、さりげなく尋ねた可能性はあるが、少なくとも紙片を持ち去ってはいない。反応しなかった。
あるいは、「反応しないこと」を選んだ。
エレーナは椅子の背に身体を預けた。
反応しなかった。
あの紙片に気づかなかったのではない。あの男の読み方なら、必ず気づいている。気づいた上で、触れなかった。
なぜか。
反応すれば、自分の関心の所在を晒すことになるからだ。「記録がないこと自体が記録である」——この言葉に反応する人間は、記録の欠落に関心を持つ人間だ。カイルは、自分がそういう人間であることをエレーナに知られたくない。
つまり、カイルはエレーナを警戒している。
それは——当然のことだ。エレーナが何者かを知っている以上、警戒しない方がおかしい。だが、警戒の仕方に特徴がある。あの男は「近づきすぎない」という形で警戒する。拒絶ではなく、距離の維持。王宮図書館の本を断り、紙片に反応せず、書架係への問い合わせも最小限に留める。
慎重な男だ。
同時に——矛盾した男だ。
あの講演会で、白い花のスケッチを見た時の指先の震え。三秒で収めたが、エレーナは見ていた。距離を取ろうとする理性と、南方大陸に対する感情的な反応。この二つが、一人の人間の中で同居している。
エレーナは自分の推測を整理した。
カイル・カルヴァーリョ。南方の港湾都市エスターリャの商人。だが、南方航路に個人的な関わりを持っている。魔力の漏出がある。平民とは思えない量の魔力。南方大陸の植生に対する感情的反応。そして、「記録の欠落」に気づける知性と、気づいた上で反応しない自制心。
——この男は、何者なのか。
知りたかった。
学術的な好奇心だ、とエレーナは自分に言い聞かせた。調査対象として興味深い。それだけだ。
だが、「それだけ」で済ませるには、エレーナは自分の感情に正直すぎた。
あの男と話している時、エレーナの中の何かが反応する。知的な刺激とは別の何か。あの慎重さの奥に、何か重いものを抱えている気配。それを隠そうとする不器用な誠実さのようなもの。
——いけない。
エレーナは首を振った。
調査対象に感情を持つのは、調査者として最悪の姿勢だ。距離を保て。客観性を失うな。
母を失った時に学んだことだ。感情で動けば、真実を見誤る。七歳の時に泣きながら「お母様は病気じゃなかった」と叫んでも、誰も聞いてくれなかった。泣くのをやめて、証拠を探し始めた時から、ようやく真実に近づけるようになった。
感情を排して、事実だけを見ろ。
エレーナは机の上のメモに目を戻した。
カイルの件とは別に、もう一つ、決断しなければならないことがあった。
船長ガスパル・メンデスの消息。
港湾局の当直記録に名前が残っていた。十五年前の出航記録に記載された、南方行きの船の船長。一隻目の船長だ。
メンデスが今どこにいるのか、生きているのか死んでいるのか、エレーナには分からない。王宮図書館の公文書には、メンデスのその後に関する記録はない。港湾局の記録にもない。船長として登録された記録は十五年前が最後だ。
王宮の中だけで調べられることには、限界がある。
外の人間を使うことを、エレーナは考え始めていた。
図書館の管理者として、エレーナはいくつかの書店や古書商と取引がある。その中に、情報収集に長けた人間が一人いる。エスターリャ出身の古書商で、港町の人脈に詳しい。船乗りの消息を辿れるかもしれない。
リスクはある。外部に調査を依頼すれば、エレーナが何かを調べているという情報が漏れる可能性がある。それがドゥアルテの耳に入れば——。
だが、動かなければ何も分からない。
母の死因を探り始めた時もそうだった。最初の一歩は常に怖い。だが、踏み出さなければ、永遠に「断片」のままだ。
エレーナはペンを取り、古書商への書簡を書き始めた。
用件は古書の取り寄せの依頼に偽装した。本当の依頼は、文面の行間に仕込んだ。
船長ガスパル・メンデス。十五年前に南方航路を航行した船の船長。現在の所在。
書き終えて、封をした。
灯りを消す前に、窓の外を見た。雲の切れ間から、南の方角に明るい星が一つ見えた。
エレーナはその星を知らなかった。星座の本に載っていない、名前のない星。でもこの頃、夜に空を見上げるたびに目に入る。
きれいな星だ、と思った。
それだけだった。




