第17話:商いの席
講演会から二十日が経った。
商業組合の定例集会は、月に一度、大広間で開かれる。組合員が最近の商況を報告し合い、取引上の紛争を仲裁し、新規の規制や税制の変更について情報を共有する場だ。出席は義務ではないが、出席しない商人は情報から取り残される。王都で商売をする以上、出席しない選択肢はなかった。
カイルは三度目の参加だった。
最初の二回は後方の席で黙って聞いていた。今回は少し前に座った。マテウスの隣。アルメイダは通路を挟んだ斜め前だ。顔見知りが増えた。名前を覚え、取引を重ね、茶を飲み、食事を共にした。二ヶ月で築いた関係としては上々だろう。
集会の内容は実務的だった。北方からの毛皮の入荷が遅れている話。港の使用料が値上がりする話。組合費の使途報告。
カイルが耳を立てたのは、最後の議題の時だった。
「——ヴィエイラ商会からの通達です。来月より、南方産香辛料の卸値を一割引き下げるとのことです」
会場がざわめいた。
香辛料の卸値を一割下げる。それはカイルの商売に直接影響する。カルヴァーリョ商会はエスターリャから香辛料を仕入れている設定だ。ヴィエイラ商会が値を下げれば、カイルの価格競争力は落ちる。
だが、カイルが反応したのはそこではなかった。
ヴィエイラ商会が値を下げられる理由。南方から何を運んでいるかの正体。魔法石の利益で香辛料の赤字を補填しているとすれば、値下げは市場支配のための戦略だ。競合する商人を潰し、南方産品の流通を独占する。
——あの商会は、商売をしているんじゃない。市場を制圧しているんだ。
レナードの残滓が分析した。カイルは同意した。だが顔には出さなかった。
「困ったものだ」とアルメイダが隣で溜息をついた。「あの値段で出されたら、うちの香辛料は売れなくなる」
「何とかなりますよ」とカイルは笑った。「品質で勝負すれば」
「お前さんは若いから楽観的でいいな」
集会が終わり、商人たちが三々五々と散っていく中で、カイルは出口付近で立ち止まった。
見た。
大広間の反対側の出口から、二人の男が出ていくのが見えた。一人は三十がらみの男で、仕立ての良い上着を着ている。もう一人は体格の大きな男で、上着の下に何か——武器か——を隠し持っている体の動き方をしていた。
三十がらみの男は、集会の間中、最後列の隅に座っていた。発言は一度もなかった。ただ座って、出席者を見回していた。
ヴィエイラ商会の代理人だろう、とカイルは推測した。
ロドリゲスの残滓が反応した。体格の大きな方の男の歩き方。右足に重心を置き、左手を常に上着の内側に近い位置に保っている。武器を携帯する人間の癖だ。商人ではない。護衛か、あるいは——。
——荒事師だ。
ロドリゲスの経験が告げた。あの体の使い方は、戦場で鍛えた人間のものではない。街で人を脅し、殴り、黙らせることに慣れた人間のものだ。退役軍人が傭兵崩れに落ちた類の、あの匂い。
カイルは視線を外した。
今は観察だけだ。
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集会の帰り道だった。
カイルはマテウスと並んで商人街の通りを歩いていた。アルメイダは途中で別れ、自分の店に戻っている。日が傾きかけていて、通りの影が長くなっていた。
「今日はこれから何か予定が?」
「いえ、宿に戻るだけです。帳簿の整理をしようかと」
「若いのに真面目だな。たまには飲みにでも——」
マテウスの言葉が途切れた。
前方の路地から、声が聞こえた。
怒声ではない。低く、抑えた声。だがその抑え方に、暴力の気配があった。
カイルの足が止まった。
路地の入口から奥を覗くと、四人の男が一人の商人を囲んでいた。囲まれているのは若い男で、組合の集会で見かけた顔だ。名前は知らない。小さな雑貨商だったと思う。
四人の男のうち一人に見覚えがあった。集会の会場で見た、体格の大きな男。ヴィエイラ商会の護衛——荒事師。
「——だから、うちは取引を断ったんです。それだけのことで——」
若い商人の声が震えていた。
「断った理由を聞いてるんだ。ヴィエイラ商会の条件が気に入らなかったのか。それとも、誰かに何か吹き込まれたのか」
荒事師の声は静かだった。静かなことが、かえって凄みを帯びていた。
「誰にも何も——本当に、ただうちには大口の取引を受ける体力がなくて——」
「嘘をつくな」
荒事師が一歩踏み出した。若い商人が壁に背をつけた。
マテウスがカイルの腕を掴んだ。
「行くな」
低い声だった。
「あれはヴィエイラの連中だ。関わるな。組合に報告すれば、後で対処してもらえる」
「後で、というのは——」
「衛兵を呼ぶなり何なりする。だが今、あの中に入っていくのは馬鹿のすることだ。お前さんには家族がいないか知らんが、命は一つだぞ」
マテウスの言葉は正しかった。
正しかった。
路地の奥で、荒事師が若い商人の胸ぐらを掴んだ。
商人が「やめてください」と声を上げた。
荒事師の隣の男が、商人の腹を蹴った。
商人が膝をつき、咳き込んだ。
カイルの体内で、何かが切り替わった。
チャンネルが開いた。カイルの意志ではなかった。ロドリゲスの残滓が——身体の奥の、呼吸より深い場所にある記憶が——勝手に表に出てきた。
足の裏に重心が落ちた。肩の力が抜けた。視界が変わった。路地の幅、四人の立ち位置、壁との距離、足元の石畳の状態。全てが一瞬で頭に入った。
ロドリゲスの目だった。戦場で何十年も人を守り続けた男の、あの目。
「カイル——」
マテウスの制止を振り切って、カイルは路地に入った。
足音を殺す歩き方。これもロドリゲスのものだ。だが、ロドリゲスの歩き方をそのまま再現しているわけではない。ロドリゲスは体格の大きな男だった。カイルの身体は細い。断片を自分の体格に合わせて再構築している。不完全だが、それで十分だった。
「すみません」
カイルは声をかけた。商人の笑顔で。穏やかに。
四人が振り返った。
「商人街の通りまで声が聞こえていましたので。何かお困りでしたら——」
「関係ないだろう。消えろ」
荒事師が言った。
カイルは笑顔を崩さなかった。
「ここは組合の管轄区域です。商人同士の紛争であれば組合に仲裁を——」
荒事師が動いた。
右手がカイルの胸ぐらに伸びてきた。掴んで押し退けるつもりだろう。商人を脅すのと同じ手順で。
カイルの身体は、掴まれる前に動いていた。
半歩、横に滑った。荒事師の右手が空を切る。同時にカイルの左手が荒事師の右腕の手首を掴み、軽く引いた。引くというより、相手の勢いを利用して体を流した。荒事師は自分の体重で前につんのめり、バランスを崩した。
残りの三人が反応した。左側の男が拳を振り上げた。カイルは荒事師の腕を離し、左側の男に向き直った。拳が来る。体を沈めてかわし、相手の肘の内側に手のひらを添えて、腕の軌道をずらした。拳はカイルの耳元を通り過ぎた。
カイルの右手が男の顎を下から押し上げた。強くはない。だが正確だった。顎が上がり、男は二歩よろめいた。
三人目が来た。今度は蹴りだ。横から。カイルは後ろに下がってかわし、蹴りが壁にぶつかるのを待った。男が足を戻す隙に、肩を押した。壁に激突させるつもりはない。ただ、体勢を崩すだけでいい。
最初の荒事師が立ち直った。
今度は短剣を抜いた。
——刃物。
ロドリゲスのチャンネルが、さらに深く開いた。
同時に、カイルの身体から魔力が漏れた。
意識してやったことではなかった。感情ではなく、本能だった。身体を守るために魔力が勝手に表面に滲み出し、筋肉の密度を一瞬だけ上げた。強化魔法——に近い何か。学院で教わるものとは全く違う、独学の、理論のない、力技の身体強化。
荒事師が短剣を突き出した。カイルは半身でかわし、荒事師の手首を掴んだ。
握った。
荒事師の顔が歪んだ。短剣を握る指が開いた。手首の骨が軋む感覚を、荒事師は明確に感じたはずだ。カイルの握力は——あの瞬間だけ——平民の商人のものではなかった。
短剣が石畳に落ちた。乾いた金属音が路地に反響した。
カイルは手首を離した。
荒事師が後ずさった。手首を押さえている。折れてはいない。だが、痺れが残っているだろう。
四人目の男は、最初から動いていなかった。三人がやられるのを見て、判断したのだろう。踵を返して路地の奥に走った。
残りの三人も、互いに目を見合わせた後、四人目に続いた。荒事師が最後に一度だけカイルを振り返った。その目には怒りと——困惑があった。商人に負けた怒りではない。目の前の男が何者か分からないという、得体の知れなさへの恐怖。
四人が消えた。
路地が静かになった。
蹴られた若い商人が、壁にもたれて咳き込んでいた。カイルは近づいて手を差し出した。
「大丈夫ですか」
「あ……ありがとうございます。あの、すみません……」
「組合に報告した方がいい。ヴィエイラ商会の人間なら、組合として対応を——」
「いえ、あの、報告は……できれば……」
商人の目が泳いだ。報復を恐れている。カイルには分かった。
「分かりました。無理にとは言いません。ただ、何かあればマテウスさんか私に声をかけてください」
商人は何度も頭を下げて、足を引きずりながら路地を出ていった。
一人残ったカイルは、壁に背をつけた。
呼吸が荒い。身体が震えている。戦闘の緊張ではない。
——何をやっている。
レナードの残滓が、冷たい声で言った。
——正体を守ることが最優先だと言ったはずだ。目撃者がいる。マテウスが見ていた。あの商人も見ていた。「南方から来た商人が四人の荒事師を素手で制圧した」。この噂がどこまで広がるか、分かっているのか。
分かっている。
分かっていた。路地に入る前から。
なのに、身体が動いた。
ロドリゲスのチャンネルが勝手に開いた——と言えばそうだ。だが、本当にそうか。ロドリゲスの残滓が身体を乗っ取ったのか。それとも、カイル自身がロドリゲスを引き出したのか。
——あの子を見捨てなかったのは、お前自身だよ。
マルタの残滓が、静かに言った。
——ロドリゲスのせいにするのは楽だろうけどね。でもあの一歩目は、お前の足だった。
カイルは壁から背を離した。
手を見た。右手の掌が微かに熱い。魔力が漏れた痕跡。強化魔法の残滓が、まだ筋肉の中にくすぶっている。
漏れた。
また漏れた。感情の昂ぶりとは違う形で。戦闘という状況が、魔力の蓋を押し開けた。荒事師があの手首の異常な握力を覚えていれば——「あの商人は、ただの商人じゃない」と報告するだろう。それがヴィエイラ商会に伝われば。ドゥアルテに伝われば。
——取り返しのつかないことをしたかもしれない。
路地を出ると、マテウスが待っていた。
マテウスの顔は、驚きと困惑が半々だった。
「……お前さん。あれは何だ。護身術の範疇じゃないぞ」
「エスターリャは治安が悪いので。多少の心得は——」
「多少じゃないだろう。四人だぞ。しかも一人は刃物を持っていた」
カイルは笑った。いつもの笑顔。人好きのする、穏やかな微笑み。
「運が良かっただけですよ。相手も本気じゃなかったし」
マテウスは黙ってカイルを見ていた。笑顔を信じていない目だった。だが、それ以上は追及しなかった。商人には商人の分別がある。聞かない方がいいこともある、という判断だろう。
「……まあいい。怪我がなくてよかった。だが、今後は巻き込まれるなよ。ヴィエイラの連中は執念深い」
「肝に銘じます」
二人は商人街の通りを歩いた。日が落ちかけていて、通りに灯りが点き始めていた。
マテウスと別れた後、カイルは宿に向かった。
宿に向かう途中、商人街の外れを通った。その先にスラムがある。前回はスラムの中に足を踏み入れた。三百の残滓が「故郷」に反応し、足が勝手に動いた。
今回は踏み入れなかった。
だが、スラムの入口から子供が一人出てきた。八歳くらいの女の子。痩せていて、服は薄汚れていた。
マリアの面影、とは言えなかった。似ていない。髪の色も顔立ちも違う。だが、年齢が近かった。マリアが死んだのは七歳だった。
三百の残滓がざわめいた。
カイルは立ち止まった。呼吸を整えた。マルタの呼吸法。
残滓の声を聞いた。怒りの声。悲しみの声。そして——「あの子に何かしてやれ」という声。
カイルは自分の声で言った。声に出さず、心の中で。
——今は、できない。
そして足を動かした。ロドリゲスの足ではない。カイル自身の足で。
宿に戻った。




