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第18話:二つの影

 集会から三日後、エレーナからの書簡が届いた。


 カイルは宿の部屋で封を切った。


 上質な紙に、繊細で迷いのない筆跡。公式の書式ではなく、個人の便箋だった。


 内容は短かった。


 ——先日の講演会でお目にかかれてよかったと存じます。その後、商業組合の書架に南方航路の海図の写本があることを知りました。十五年前の航路を記載したもので、商人の方々にとっても参考になるかもしれません。ご興味がおありでしたら、書架の番号を下記にお伝えいたします。


 書架番号が記されていた。


 そして、追伸として一行。


 ——商人街で腕の立つ南方の商人がいらっしゃるという話を耳にしました。お怪我がなければ良いのですけれど。


 カイルは書簡を置いた。


 手が冷たかった。


 もう噂になっている。しかも、エレーナの耳にまで届いている。三日で。


 ——言ったろう。


 レナードの残滓が苦い声で言った。


 カイルは黙って書簡をもう一度読んだ。


 二つの情報が含まれている。一つは海図の写本の所在。もう一つは、カイルの戦闘を知っているという事実の提示。


 前者は、これまでと同じパターンだ。エレーナが情報を渡し、カイルがそれにどう反応するかを観察する。海図を見に行けば、エレーナはカイルが南方航路に関心を持っていることを確認できる。


 後者は——新しい。これまでエレーナは、カイルの「異常」を直接的に言葉にしたことはなかった。グラスの震え(魔力漏出)を見ていた可能性はあるが、それを口にはしていない。だが今回、「腕の立つ」という言葉で、カイルの戦闘力に触れた。


 直接的ではない。「耳にしました」「お怪我がなければ」。社交的な気遣いの形を取っている。だがカイルには分かった。これは気遣いではない。カイルが何者であるかの推測に、新しいピースを加えたという宣言だ。


 ——南方に関わりを持つ人間で、平民とは思えない魔力を持っていて、記録の欠落に敏感で、しかも戦闘能力がある。


 エレーナの中で、カイルの輪郭がどんどん鮮明になっている。


 カイルは返書を書くかどうか迷った。


 書かなければ不自然だ。王女からの書簡を無視する商人はいない。だが書けば、文面の一語一語がエレーナの分析対象になる。


 結局、最小限の返事を書いた。


 ——海図の件、ご教示いただきありがとうございます。近日中に組合の書架で確認いたします。お心遣い痛み入ります。ご報告いただいた件につきましては、些細なことでございますので、ご心配には及びません。


 五度目の接触だ、とカイルは記録した。


 だが今回は、エレーナの方から来た。書簡という形で。対面ではなく、紙の上で。


 距離を詰めたのか。それとも、対面を避けたのか。


 ——あの女の意図を読もうとするのは泥沼にはまるのと同じだ。事実だけを集めろ。


 レナードの残滓が繰り返した。もう何度目か分からない忠告だった。



##


 翌日、カイルは商業組合の書架に行った。


 エレーナが示した番号の棚に、海図の写本はあった。


 羊皮紙に描かれた航路図。王都ヴァルドゥーラの港からエスターリャを経由して南方へ向かう航路が、点線と実線で示されている。写本の注記によれば、これは港湾局が保管している原本の縮小複写で、「十五年前の南方航路記録に基づく」とある。


 カイルは海図をテーブルに広げた。


 レナードの残滓が反応した。航路の形状に、断片的な記憶が一致する。レナード自身は航海の専門家ではなかったが、出航前に渡された航路の概要を記憶していた。出発点、中継港、到着予定地。


 海図の航路は、レナードの記憶とおおむね合致した。


 だが、一つ決定的な違いがあった。


 この海図には「行き」の航路しか描かれていない。


 出発から到着まで。王都の港から、中継港を経て、南方大陸の上陸地点まで。実線で描かれた航路は、南方大陸の海岸線で終わっている。


 帰りの航路が、ない。


 通常、海図には往復の航路が記載される。行きと帰りでは海流や風向きの関係でルートが異なることが多く、両方の情報がなければ航海計画は成り立たない。


 だがこの海図は、行きだけだ。


 帰ることを前提としていない船。


 あるいは——帰りの航路は存在するが、記録から外されている。帰りの船が何を運んでいたかを隠すために。


 カイルは海図を眺めた。


 積荷目録の「特殊鉱石サンプル」のことは知らない。エレーナが発見した情報だ。だがカイルは別のルートで同じ推論に辿り着きつつあった。ドゥアルテの南方貿易。ヴィエイラ商会の非正規ルート。ダ・コスタの本に書かれた魔法石鉱脈。そして——行きだけの航路図。


 全てが一つの像を結び始めている。だが、まだ像は曖昧だ。推測を確証に変えるための証拠が足りない。


 カイルは海図を棚に戻し、組合を出た。



##


 宿に戻ると、見知らぬ男が待っていた。


 一階の食堂の隅。目立たない席に座り、薄い麦酒を前にしている。旅装のまま。外套の裾に赤い土の汚れがついている。南方の、あの色の土だ。


 カイルは男の顔を見た。知らない顔だった。だが、男の目がカイルを認識した時の表情——一瞬の安堵と緊張——には覚えがあった。


 エスターリャの人間だ。


 カイルは食堂を横切り、男の向かいに座った。


「食事は?」


「いや。酒だけ」


「遠い所からご苦労さまです。旅は?」


「七日かかった。陸路で来た。船は目立つと言われたので」


 男の口調は事務的だった。世間話をするつもりはないらしい。


「——聞かれた。準備はいつ整う」


 カイルは男を見た。


 「聞かれた」。誰に聞かれたかは言わない。言う必要がない。エスターリャからカイルに使いを出せる人間は一人しかいない。


「まだだ」


「まだ、とは。いつまでだ」


「分からない」


 男の目に苛立ちが浮かんだ。


「向こうは待っている。あんたが王都に入ってから二ヶ月だ。当初の予定では——」


「予定は変わった。思っていたより複雑だ」


「何がだ」


「全部だ」


 カイルの声は静かだった。だが、有無を言わせない重さがあった。三百人分の魔力を抑え込んでいる人間の声帯から出る音は、意図しなくても圧を持つ。


 男は口を閉じた。


「伝えてくれ。『もう少し時間がいる。急げば全て台無しになる』と」


「……それだけか」


「それだけだ。もう一つ——手紙を寄越すな。使いも、今後は控えてくれ。目立つ」


 男は頷いた。不満そうだったが、逆らう気はないようだった。


 男が宿を出た後、カイルは食堂に一人残った。


 薄い麦酒が一杯、手つかずで残されている。男が飲まなかった分だ。カイルはそれを引き寄せて、一口飲んだ。


 時間が足りない。


 ドゥアルテに近づくための準備。ヴィエイラ商会の調査。エレーナとの距離の制御。そして——エスターリャからの圧力。


 向こうは待っている。計画を実行に移す時を。カイルが王宮に食い込み、ドゥアルテの弱みを握り、復讐の舞台を整えるのを。


 だが、王都に入った時に描いていた計画は、もう現実に合わない。王宮に食い込むための駒を探し、ドゥアルテの弱みを握り、復讐の舞台を整える——その筋書きは、エレーナという想定外の存在に出会った時点で狂い始めた。


 エレーナは駒にはならない。あの女を利用するつもりで近づけば、先に見抜かれる。


 ヴィエイラ商会に近づけば、ドゥアルテの目に入る危険がある。今日の一件で、その危険はさらに増した。


 そして——エスターリャの仲間は、カイルの迷いを許さないだろう。


 三つの力が交差し始めている。ドゥアルテへの接近。エレーナとの関係。エスターリャの仲間からの期待。どれか一つを動かせば、残りの二つに影響する。


 カイルは麦酒を飲み干した。


 呟いた。


「時間が、足りない」


 誰にも聞こえない声だった。三百の残滓も、今は黙っていた。

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