第19話:仕立屋の鏡
マテウスが店に入ってくるなり、カイルの肩を掴んだ。
「おい。今日は空いているか」
「午後にアルメイダのところに顔を出す予定ですが」
「夕方でいいだろう、あの男は。来い」
有無を言わせない口調だった。カイルは帳簿を閉じて立ち上がった。断る理由を探すより、従った方が早いことは二ヶ月の付き合いで学んでいる。
「どこへ?」
「仕立屋だ。お前の服をどうにかする」
カイルは自分の服を見下ろした。灰色の上着に白い襟付きの下衣。商人街では浮かない、地味だが清潔な装いだ。問題があるとは思えなかった。
「何か問題でも」
「問題も何も、お前はいつも同じ服だろう。いつ見ても同じ灰色の上着を着ている。最初に会った時からずっとだ」
「……色違いが二着あります」
「色違いが二着。色違いが二着だと」
マテウスは天を仰いだ。大きな体を揺らして通りに出る。カイルはその背中を追いながら、何がそこまで問題なのか本気で分からなかった。
南方大陸にいた十年間は、着るものを選ぶ余裕などなかった。布が手に入れば繕い、破れたら別の布を当てた。放浪の五年間も似たようなものだ。王都に入る時に初めてまともな服を買ったが、「仕立てる」という発想はなかった。既製品を三着。同じ型の色違い。それで十分だと思っていた。
——十分だろう。
レナードの残滓が呟いた。だがその声には、いつもの鋭さがなかった。どこか面白がっているような気配がある。
「いいか、カイル」マテウスは前を歩きながら言った。「商人の服は名刺だ。取引先はお前の商品を見る前に、まずお前の身なりを見る。『この男は儲かっているか、信用できるか』を服で判断する」
「中身で判断してほしいものですが」
「中身なんぞ五回会わなきゃ分からん。服は一目で分かる」
反論できなかった。レナードの残滓も同意している。社交において外見が果たす機能については、レナードが学院で教えていた政治学の範疇だ。
——だから私は最初からそう言っている。服は道具だと。
呟いたのはレナードだったが、カイルの頭の中で別の声がすぐに被さった。
——道具に金をかけるなら、もっと実のある道具にしろ。
ヨーゼフだ。鍛冶師の頑固な声。生前も、装飾品の注文が来ると渋い顔をしていた男だ。「飾りものに使う鉄があるなら鋤を打て」が口癖だった。
二つの声が頭の中でぶつかり始めた。
——外見は社交の武器だ。特にお前のような立場では。
——武器なら刃を研げ。糸で縫うな。
——論点がずれている。見た目の話をしている。
——見た目で判断するやつとは取引するな。
——それでは商売にならんだろう。
カイルは黙って眉間を押さえた。
「どうした。頭痛か?」
「いえ……少し、考え事を」
「考え事はあとにしろ。着いたぞ」
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マテウスが連れてきたのは、商人街の通りから一本入った路地にある仕立屋だった。
間口は狭いが、店内は整然としている。壁一面に布地の見本が掛かり、採寸台の横に等身大の鏡がある。奥の作業場から裁ち鋏の音が聞こえた。
「おう、ダニエル。客を連れてきた」
奥から出てきたのは、痩せた中年の男だった。眼鏡をかけ、指先に針が刺さったまま出てきたことに本人が気づいていない。
「マテウス殿。いつもありがとうございます。……おや、こちらは」
「俺の知り合いだ。南方の商人でな、服の買い方を知らん」
「マテウス殿、それは少し言い過ぎでは」
「事実だろう。色違いが二着だぞ」
ダニエルという仕立屋の主人が、カイルの服を上から下まで眺めた。職人の目だった。ヨーゼフが鉄の質を見る時と同じ種類の視線だ。
「なるほど。生地は悪くありませんが、型が合っていませんね。肩幅に対して袖がやや長い。それと、色が——失礼ですが、少しお顔の色に合っていらっしゃらない」
「灰色は無難だと思ったのですが」
「無難は無難ですが、お客様は肌の色に南方の陽の気配がおありです。灰色だと顔色が沈んで見える。濃い藍か、深い緑が映えるでしょう」
カイルは返す言葉がなかった。服の色が顔色に影響するという発想が、そもそもなかった。
採寸が始まった。ダニエルが巻き尺を首に掛けて、カイルの周りをくるくると回る。肩幅、胸囲、腕の長さ、手首の太さ。数字を助手に読み上げながら、信じられない速度で採寸していく。
「最近の流行は襟が高めですが、お客様は首が長いので、少し控えめの方が——」
「流行はいいです。動きやすければ」
カイルが言うと、マテウスが横から口を出した。
「だからそういうところだ。流行を無視していいのは、流行を知っている人間だけだぞ」
「……覚えておきます」
「お前のその『覚えておきます』は信用ならん。絶対に覚えない顔をしている」
ダニエルが小さく笑った。マテウスも笑った。カイルだけが真顔で立っている。
鏡に映った自分の姿を見た。
二十歳の青年が、採寸台の上で腕を広げて立っている。南方の陽に灼かれた肌。ほんの少し色素の薄い虹彩。痩せてはいるが筋張った体つき。
この身体に、三百人分の技能と記憶と魔力が詰まっている。
——だがそんなことは、この仕立屋にも、マテウスにも分からない。
彼らから見えるのは、ちょっと不器用な若い商人だ。服の買い方を知らず、食事にもこだわらず、愛想は良いが笑顔のどこかがぎこちない、南方育ちの商人。
それがカイル・カルヴァーリョだ。カイルが五年かけて作り上げた人物。
鏡の中の自分が、ほんの一瞬だけ見知らぬ人間に見えた。
「色は、お任せします」
カイルはそう言った。ダニエルは満足そうに頷いた。
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仕立屋を出た後、マテウスは「飯を食うぞ」と言った。
断る隙を与えなかった。通りの角を曲がり、食堂の暖簾をくぐり、奥の席に座り、注文まで済ませてから、ようやくカイルに向き直った。
「で、お前は普段一人の時に何を食っているんだ」
「パンと干し肉が多いですね。あとは果物を少し」
「……毎日か」
「ええ。日によっては魚の燻製も」
「それは食事じゃない。非常食だ」
マテウスが額に手を当てた。
「お前、商人だろう。取引先と食事をすることもあるだろう」
「ありますが、その時はちゃんと店で食べます」
「一人の時は?」
「パンと——」
「もういい。聞くんじゃなかった」
出てきた料理は、白身魚の煮込みに根菜の付け合わせ、パンと豆のスープ。王都では特に珍しくもない昼食だったが、カイルは一口食べて少し目を見開いた。
美味い。
当たり前のことかもしれない。だがカイルにとって、「温かい料理を誰かと一緒に食べる」という行為には、まだどこか非日常の感触がある。南方大陸では、食事は生存のための行為でしかなかった。味は二の次で、とにかく口に入るものを腹に収めた。何を食べたかなど覚えていない。
マルタが作ってくれた薬草の煮出し汁の味だけは、覚えている。
——あの人の煮出し汁は不味かったがね。
マルタ自身の残滓が、どこか懐かしげに呟いた。カイルは危うく噴き出しかけて、慌てて口元を押さえた。
「どうした」
「いえ、何でも」
「変なやつだ。まあいい。——それよりな」
マテウスの顔が少し曇った。
「お前、アルメイダからヴィエイラの件は聞いたか」
空気が変わった。カイルは箸を止めた。
「取引の打診が来ていると、昨日聞きました」
「それだけじゃない。トレス商会が店を畳んだ。知っているか」
「仕立屋の隣の雑貨屋ですか」
「ああ。ヴィエイラの仕入れ値に太刀打ちできなくなって、客を全部持っていかれた。先月の値下げからひと月も保たなかった」
カイルは頷いた。仕立屋に向かう途中、確かに隣の店の看板が外されていたのを見た。あの時は気に留めなかったが、そういうことか。
「お前のところにも打診が来ているなら、気をつけろ。ヴィエイラの連中は『取引しましょう』と言って近づいてきて、断ると潰しにかかる。かといって取引を受ければ、首輪をつけられる」
「どちらに転んでも、ということですか」
「そうだ。先月の集会の後のことを忘れたわけじゃないだろう。お前が四人叩きのめした連中は、ヴィエイラの手の者だ。次はもっと面倒なのが来るぞ」
カイルは黙った。
「断れ。少なくとも、今は」
「……考えておきます」
「また『考えておきます』か。お前のそれは『聞いたが従うつもりはない』という意味だろう」
「そんなことは」
「ある。俺は二ヶ月お前を見ているんだ」
マテウスの声には苛立ちがあったが、その底にあるものを、カイルは正確に読み取っていた。
心配している。
この男は、カイル・カルヴァーリョという若い商人のことを、本気で心配している。
三百の声が沈黙した。
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食事の後、マテウスと別れてアルメイダの店に向かった。
アルメイダは香辛料の在庫を広げながら、ヴィエイラ商会の話を続けた。
「代理人が来たよ。お前のところにも行ったんだろう? あの男、名前は名乗らないが、いつも同じ顔をしている。四十がらみの、目の笑わない男だ」
「ええ、話は聞いています。取引の内容は」
「南方産の香辛料を、ヴィエイラの仕入れ値でこちらに卸す。代わりに、こちらの取引先を共有しろ、ということだ」
「取引先を共有する——」
「つまり、うちの顧客名簿を渡せということだ。ふざけた話だろう。断ったよ。そうしたら次の週から、うちと同じ品目を二割安で市場に流し始めた」
アルメイダの顔には疲れがあった。
「正直なところ、あと三ヶ月もてば良い方だ。うちのような中堅がまず狙われる。大手は組合の看板があるからヴィエイラも手を出しにくいが、中堅以下は守りがない」
カイルは黙って聞いた。
ヴィエイラ商会の動きは、単なる商売の競争ではなかった。市場を支配し、取引先を囲い込み、逆らう者は力で潰す。古典的な——だが効果的な、利権構造の構築だ。
レナードの残滓が分析を始めた。
——ヴィエイラ商会はドゥアルテの代理商だ。市場を支配すれば、ドゥアルテは商人を通じて王都の物流を握ることになる。元老院の政治力に加えて、経済の支配権も手に入る。
——だがそれは、お前がヴィエイラに接触する理由にもなる。ヴィエイラの内側に入れば、ドゥアルテの利権構造が見える。
——危険だ。
——承知している。
カイルはアルメイダに帰りの挨拶をして、店を出た。
商人街を歩きながら、考えた。
ヴィエイラの取引打診は、罠かもしれない。先日の戦闘で、カイルは荒事師四人を素手で制圧した。ヴィエイラ側がカイルを危険人物と見做している可能性は高い。取引を持ちかけて反応を探り、使える人間かどうかを値踏みしている。
だが同時に、これはドゥアルテへの糸口でもある。
今のカイルは、ドゥアルテに近づく手段を持っていない。商業組合の新参商人では、元老院議長の視界にすら入れない。ヴィエイラ商会を経由すれば、ドゥアルテの利権構造に内側から触れることができる。
綱渡りだ。
——綱渡りは、最初から綱の上にいる人間にしかできない。
レナードの声だった。否定ではなかった。事実の確認だ。
カイルは判断を保留した。今はまだ、情報が足りない。
##
宿に戻ると、日が落ちかけていた。
部屋に入り、上着を脱いで椅子に掛ける。灰色の上着。マテウスが「いつも同じ」と言った服だ。
一週間後に新しい服ができる。濃い藍色だとダニエルは言った。「お客様の肌色に映える」と。
カイルは椅子に掛けた灰色の上着を眺めた。
この服は、王都に入る時に買ったものだ。既製品。カルヴァーリョ商会の当主代理として不自然でない程度の品質で、目立たない色。それが灰色を選んだ理由だった。似合うかどうかは考えなかった。
考える必要がなかった。服は仮面の一部で、自分の好みは関係なかった。
藍色は好きだろうか。分からない。好きな色を考えたことがなかった。
マルタの残滓が、ふっと温かい気配を送ってきた。言葉ではない。微かな笑みのような、穏やかなもの。
「何だ」
カイルは心の中で問うた。
返事はなかった。マルタはいつもそうだ。言葉ではなく、沈黙で伝えるのがこの人のやり方だった。
だが今の気配が何を意味していたか、カイルには分かった。
——普通の青年のように、服を誂えている。
それが嬉しいのだ。たぶん。
カイルは目を伏せた。
普通の青年。そういうものに自分がなれるとは思っていない。仕立屋で服を誂え、食堂でマテウスと飯を食い、アルメイダと商売の話をする。それは全て仮面の延長で、目的のための手段で——
——本当に?
問いかけてきたのは、どの残滓でもなかった。カイル自身の声だった。
今日、マテウスが心配してくれた時、三百の声が沈黙したのは何だったのか。食堂で温かい料理を美味いと思ったのは演技だったのか。仕立屋の鏡に映った自分に、一瞬だけ戸惑ったのは。
カイルは首を振って、机に向かった。帳簿を開く。数字を追う。考えないようにする。
窓の外で、日が沈んでいく。
灰色の上着が、椅子の上で静かに皺を寄せていた。




