第20話:書庫の番人
エレーナの朝は、いつも図書館から始まる。
王宮の東翼にある王宮図書館は、ヴァルディア王国が建国以来蓄積してきた文書の集積地だ。法令、条約、予算記録、議事録、学術報告、地図、書簡。国の記憶がここに眠っている。
そして、その記憶の大半を、誰も読まない。
エレーナは毎朝、図書館に入ると最深部まで歩いて棚の状態を確認する。湿度の変化で羊皮紙が傷むことがあるし、虫食いの兆候がないかも見なければならない。管理者としての日課だ。
「殿下、今朝も早くていらっしゃいますね」
助手の書記官がそう言った。この言葉を聞くのも日課のようなものだ。
「早い方が静かだから」
「それはそうでございますが……朝餉はお済みですか」
「あとで」
「殿下、『あとで』は三日に一度はお忘れになります」
エレーナは返事をせずに、今朝届いた書類の束に目を通し始めた。
元老院の定例会合の議事録。図書館管理者の職務には、元老院の公開議事録を整理して書架に収める業務が含まれている。議事の内容そのものは図書館の管轄ではないが、記録の保管は図書館の仕事だ。
十五年分の議事録を、エレーナは過去一年かけて少しずつ読み返してきた。表向きは書架の整理のため。実際には、開拓事業に関する痕跡を探すためだ。
今朝の束は、十五年前の秋の定例会合の記録だった。
エレーナはページを繰りながら、目を走らせた。
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それは、議事録の末尾に挟まれた一枚の付箋のような紙片に書かれていた。
「南方大陸開拓事業に関する完了報告(宰相ドゥアルテ提出)——本文は元老院書庫にて別途保管」
エレーナの指が止まった。
完了報告。
開拓事業は「完了」したことになっている。帳簿の上では事業は閉じられ、予算の執行も終了している。だが、完了の内容を記した報告書がどこにあるのか、エレーナはこれまで見つけられていなかった。
——ここにあった。元老院の書庫に。
元老院書庫は、王宮図書館とは別の施設だ。元老院の建物の地下にあり、元老院議員と、議長が許可した者だけがアクセスできる。王族であっても、正式な手続きなしには入れない。
エレーナは図書館の管理者だが、元老院書庫の管轄外だ。
ドゥアルテが現在の元老院議長である以上、アクセス許可を出すのはドゥアルテ自身ということになる。
完了報告を読みたいなら、ドゥアルテに頼まなければならない。
——不可能だ。
あの男に「開拓事業の完了報告を読みたい」と言えば、エレーナが何を調べているか一目で悟られる。ドゥアルテは愚かではない。自分の過去に近づく者には敏感なはずだ。
エレーナは紙片を元の位置に戻し、議事録の束を棚に収めた。
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午後、侍女のクララが図書館に顔を出した。
「殿下、来月の夜会のお召し物について、お衣裳係からお伺いしたいことがあるそうです」
「去年のでいいわ」
エレーナは地理書の目録から顔を上げずに答えた。
「殿下。去年と同じものを三年お召しです」
「三年? そんなに経ったかしら」
「経っております。お衣裳係は『せめて飾り帯だけでも新調を』と申しております」
「飾り帯……」
エレーナは考えた。考えたというより、意識が一瞬だけ服の話に向いて、すぐに地理書の目録に戻ろうとした。
「殿下」
クララの声に、少しだけ強さがあった。この侍女は、エレーナが物事を生返事で流す癖を知っている。
「分かったわ。新しいのを見繕ってもらって。色は任せる」
「色のご希望はございませんか」
エレーナはふと窓辺に目を向けた。書斎の窓際に置いた小さな花瓶に、藍色の矢車菊が活けてある。図書館の中庭に咲いていたのを、今朝切ってきたものだ。
「……藍色」
答えてから、なぜわざわざ花の色を選んだのか、自分でも少し不思議だった。いつもなら「任せる」で終わるところを。
クララは嬉しそうに頷いて去っていった。
一人になったエレーナは、机の上に広げた資料に視線を戻した。だが、数秒だけ、手が止まっていた。
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夕刻、古書商からの手紙が届いた。
エレーナがエスターリャ出身の古書商に依頼していた、船長メンデスの消息調査の中間報告だ。
手紙は慎重に書かれていた。古書商は事情を詳しく知らない。エレーナが頼んだのは「十五年前に港湾局に勤めていたガスパル・メンデスという人物の現在の所在」だけだ。
報告は二つの事実を伝えていた。
一つ。メンデスは十五年前の夏に港湾局を退職している。退職届には「一身上の都合」とだけ記されており、退職後の所在は不明。ただし、エスターリャの港湾関係者の中に「五、六年前にメンデスに似た男をエスターリャの南区で見かけた」と証言する者がいた。未確認情報。
二つ。港湾局の出航記録を調べたところ、メンデスの名前が記された出航許可がもう一件あった。最初の出航から四ヶ月後、同年夏の日付だ。
エレーナは手紙を膝の上に置いて、天井を見上げた。
四ヶ月後。最初の出航が春だとすれば、夏に二度目の出航がある。
以前、王宮図書館の予算記録で見つけた「複数回出航」の痕跡と一致する。あの時は出航の時期と回数しか分からなかったが、今度は船長の名前で裏が取れた。メンデスが少なくとも二度、南方に向かっている。
開拓団は、一度きりではなかった。
エレーナはそれを、ほとんど確信に近い形で理解した。
一度の開拓事業に、なぜ二度の出航が必要なのか。支援物資を送るためか。それとも——もう一組の開拓団を送るためか。
予算規模が試算の三倍だった理由が、ここに繋がる可能性がある。一組ではなく、複数組の開拓団を送っていたなら、予算が膨れ上がるのは当然だ。
——いや、待って。
エレーナは自分を制した。
予算が三倍なのは、横領の疑いもある。「複数回送ったから予算が増えた」のか、「横領するために予算を水増しして、ついでに複数回送った」のか。因果の方向が逆かもしれない。
いずれにしても、確証にはまだ遠い。
エレーナは手紙を暗号棚にしまった。図書館の最深部にある、エレーナだけが鍵を持つ引き出しだ。
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夜、書架の整理をしながら、エレーナはカイル・カルヴァーリョのことを考えた。
南方の商人。エスターリャの商会の当主代理を名乗る青年。
五度の接触で、エレーナが集めた情報を並べる。
一つ。南方貿易に詳しく、政策にも明るい。商人としての能力は本物だ。だが、商人にしては知識の幅が広すぎる。税制、航路、行政の仕組み。まるで、どこかで体系的に学んだことがあるかのように。
二つ。魔力の揺らぎ。報告会の時、南方航路について質問した際に、窓際のグラスが微かに震えた。あれは魔力の漏出だ。平民の商人がグラスを震わせるほどの魔力を持っているのは、普通ではない。
三つ。戦闘力。商人街の路地でヴィエイラの荒事師四人を素手で制圧した。「腕の立つ南方の商人」の噂は、もう商人街全体に広がっている。
一つひとつは説明がつく。だが、三つ揃うと像が変わる。
——南方に深い関わりを持ち、平民とは思えない魔力を持ち、戦闘能力がある人間。
エレーナは考えた。
あの男が南方航路の質問を聞いた時、グラスが震えた。質問の中身は「十年から十五年前の王国の官船の出入り」だった。それは開拓事業の時期と一致する。
偶然か。
エレーナは偶然を信じない。
だが、結論を急ぐつもりもなかった。推測は推測だ。確証がない段階で動けば、相手に警戒させるだけだ。確かめる前に壊すわけにはいかない。
窓の外に目を向けた。南の空、低い位置に、小さな星が光っている。
名前のない星だ。星図にも載っていない。以前から気になっていた。
「きれいね」
独り言が口をついた。いつもの感想。
だが今夜は、少し違う思いが頭をよぎった。
——あの星に、名前をつけた人がいるのかしら。
なぜそんなことを思ったのか、エレーナ自身にも分からなかった。ただ、あの小さな光が妙に目に残った。
エレーナは窓を閉めて、書架に戻った。




