表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/22

第21話:議場の老人

 エレーナからの書簡が届いたのは、仕立屋で服を受け取った翌日のことだった。


 二通目の書簡。前回と同じ上質な紙に、同じ迷いのない筆跡。


 内容はまた短かった。


 ——来週、元老院の公開審議がございます。議題は南方貿易に関する関税の改定案で、商業組合にも関わりのある内容かと存じます。傍聴券を同封いたしましたので、ご興味がおありでしたらお使いください。


 封筒の中に、薄い紙の傍聴券が一枚入っていた。元老院の紋章が押されている。


 カイルは書簡を読み返した。


 六度目の接触だ。


 前回は海図の写本の所在を教え、今回は元老院の傍聴券を渡す。どちらも「商人に役立つ情報を善意で提供する」体裁を取っているが、その裏にある意図は明白だった。


 エレーナはカイルを観察している。情報を渡し、反応を見る。カイルが何に食いつき、何を避けるかで、カイルの輪郭を描いている。


 海図を見に行った。それは「南方航路に関心がある」というデータポイントだ。


 今度は元老院の公開審議。傍聴に行けば、それは「元老院の内部に関心がある」というデータポイントになる。


 ——罠だ。行くな。


 レナードの残滓が即座に言った。


 ——いや。


 カイルは心の中で返した。


 ——行く。


 元老院。ドゥアルテの膝元だ。公開審議であれば、ドゥアルテ本人が議長席にいる。


 カイルは、まだドゥアルテを自分の目で見ていない。


 名前は知っている。経歴も調べた。レナードの残滓が持つ十五年以上前の記憶の中に、宰相ドゥアルテの名前はある。だが当時のレナードは平民の教師で、宰相の顔を直接見たことはなかった。カイルにとってドゥアルテは、名前と経歴だけの存在だ。


 三百人を殺した男の顔を、まだ知らない。


 エレーナの意図がどうであれ、この機会は逃せなかった。


 ——覚悟はあるのか。


 レナードが問うた。


 ——あの男を見て、お前が冷静でいられる保証はない。魔力が漏れれば、元老院の中だ。学院出の魔法使いが何人もいる。気づかれたら終わりだ。


 ——承知している。


 ——承知しているなら、なぜ行く。


 ——見なければ始まらないからだ。


 レナードは黙った。反対はしなかった。反対しても無駄だと分かっているのだろう。



## 十二


 公開審議の朝、カイルは新しい服に袖を通した。


 濃い藍色の上着。仕立屋のダニエルが選んだ色だ。鏡の前に立つと、確かに灰色の時より顔色が明るく見える。襟は控えめで、動きやすい。肩幅も袖の長さも身体に合っている。


 ——似合っているじゃないか。


 誰の声だったか分からなかった。三百人の中の誰かが、ごく自然に呟いた。カイルは少し面食らった。復讐とも分析とも関係のない、ただの感想だった。


 マテウスに見られたら、何と言うだろう。「やっぱり似合うじゃないか」と言いそうだ。——そう思って、カイルの口元がほんの一瞬だけ緩んだ。


 だがすぐに表情を引き締めた。


 今日、見に行くのは三百人を殺した男だ。服が似合うかどうかなど、関係ない。


 護符を胸元に忍ばせ、魔力を身体の芯まで押し込んだ。普段より二段深い。元老院には魔法感知に長けた人間がいる可能性がある。万が一にも気取られないように。


 宿を出た。



##


 元老院の建物は王宮の西翼にあり、図書館とは棟を隔てた位置にあった。


 重厚な石造りの正面に、王国の紋章が刻まれている。公開審議の日は一般市民にも傍聴が許されるが、入口で傍聴券の確認と簡単な身体検査がある。


 カイルは傍聴席に通された。二階の回廊状の席で、一階の議場を見下ろす形になっている。傍聴席には商人や学者風の人間が二十人ほどいた。


 議場は半円形で、中央に演壇、その奥に議長席がある。議員席が演壇を囲むように弧を描いて並んでいた。


 議員たちが入場し始めた。


 カイルは一人ひとりの顔を確認した。レナードの記憶にある名前と、現在の顔を照合する。十五年以上前の記憶だ。老けていたり、太っていたり、痩せていたり。だが骨格は変わらない。レナードの観察眼が、記憶の中の顔と現在の顔を結びつけていく。


 ——あれはバルボーザ伯爵だ。当時は元老院の若手だったが、今は重鎮か。


 ——左から三番目はカルネイロ家の当主。当時は父親が議席にいた。


 レナードの残滓が次々と名前を挙げる。カイルはそれを聞きながら、議場全体を見渡した。


 そして——中央の、一段高い議長席に、一人の老人が座った。


 白髪。端正な顔立ち。姿勢が良く、背筋がまっすぐに伸びている。年齢は六十代後半か七十代か。穏やかな表情で、隣の議員に何かを話しかけている。相手が笑った。老人も微かに笑った。


 ——あの席は議長席だ。


 レナードの残滓が、低い声で言った。レナード自身はドゥアルテの顔を知らない。だが、あの席に座る人間は一人しかいない。


 ドゥアルテ。


 カイルの全身が凍りついた。


 三百の声が一斉にざわめいた——だが、ざわめきの中身が、カイルの予想とは違った。


 怒り。憎悪。殺意。そういうものが噴き出してくると思っていた。三百人の怨念が、仇の顔を見た瞬間に爆発すると。


 だが、最初に来たのは困惑だった。


 ——あれが?


 ——あの穏やかな老人が?


 ——嘘だろう。


 三百人の声は、怒りではなく戸惑っていた。


 あの白髪の老人が、三百人を死地に送った男だという事実が、視覚と感情の間で噛み合わない。カイルが想像していたのは——いや、三百人の残滓が想像していたのは、もっと明確な「悪」の顔だった。冷酷な目。傲慢な態度。人を人と思わない空気。


 目の前にいるのは、好々爺だった。


 議事が始まった。ドゥアルテが議長として審議を進行する。その手際は見事だった。対立する議員の意見を公平に聞き、論点を整理し、感情的になりかけた場を穏やかに収める。周囲の議員たちがドゥアルテに向ける視線には、敬意があった。


 ——上手い。


 レナードの残滓が呟いた。感情を排した、純粋な分析だった。


 ——政治家として、あの男は一流だ。議場を完全に掌握している。しかも力で押さえつけているのではない。信頼で動かしている。


 カイルは呼吸法を意識した。マルタから継承した、魔力を抑え込む呼吸。吸って、止めて、ゆっくりと吐く。体内の魔力が暴れようとするのを、一息ごとに鎮めていく。


 ドゥアルテが発言する議員に頷いている。その仕草が、どこかアルベルトに似ていた。


 ——似ていない。


 カイルは即座に否定した。父は開拓地で仲間の話を聞く時、同じように穏やかに頷いていた。だがそれとこれは違う。アルベルトは本心から人の話を聞いていた。ドゥアルテは——


 ——本心かもしれないぞ。


 レナードの声が刺さった。


 ——あの男が議場で見せている穏やかさが、全て演技だとは限らない。人を死地に送った人間が、同時に有能で信頼される政治家であることは、矛盾しない。


 カイルの指が、椅子の肘掛を握り締めた。


 矛盾しない。その言葉が一番重かった。


 ドゥアルテが悪人なら、話は単純だった。悪を倒す。正義を果たす。三百人の仇を討つ。だが目の前にいるのは、悪人に見えない老人だ。国を動かし、議場を治め、周囲から敬われている人間だ。


 ——それでも、あの男は三百人を見殺しにした。


 カイルは自分に言い聞かせた。


 ——穏やかな顔をしていても、あの男が事業を主導した。三百人を南方に送る仕組みを作り、動かした人間だ。支援船は来なくなった。帰る手段は与えられなかった。なぜそうなったのか——報告書の改竄があったのか、予算が抜かれていたのか、確証はまだない。だが、三百人が飢え、病み、殺され、最後の一人になるまで死んでいったことは事実だ。


 ——仕組みを作った人間の顔が穏やかであることは、仕組みが生んだ地獄を一切軽くしない。


 呼吸を整えた。魔力は抑えている。漏れてはいない。


 だが、声が掠れていることに気づいた。


 審議は二時間で終わった。



##


 傍聴席から出ると、回廊にエレーナが立っていた。


 まるで、カイルが出てくる場所を知っていたかのように。


「カルヴァーリョ殿。お越しくださったのですね」


「殿下のご厚意のおかげです。傍聴券をいただけなければ、元老院に足を踏み入れる機会はなかったでしょう」


「初めてでしたか、元老院は」


「はい。想像していたよりも——開かれた議論が行われていて、驚きました」


 社交辞令だったが、嘘ではなかった。


 エレーナは少し歩き始めた。カイルも並んで歩く。従者は数歩後ろにいる。回廊の窓から午後の陽光が射し込み、石の床に光の帯が伸びていた。


「議長はいかがでした?」


 何気ない口調だった。世間話の一環、という体裁。


 だがカイルは、この質問がこの日のエレーナの本題であることを理解していた。


 ドゥアルテの名前は出さなかった。「議長」とだけ言った。だが、この場で議長と言えば一人しかいない。


「穏やかな方だと思いました」


 カイルは答えた。声を平静に保つことに、全神経を使った。


「議論の裁き方が見事で、議員の方々からの信頼も厚いようにお見受けしました」


「そう」


 エレーナは少し間を置いた。


「そうね。……穏やかよ。いつも」


 その「いつも」の中に何が含まれているのか、カイルには読み取れなかった。


 皮肉なのか。同意なのか。あるいは——エレーナ自身の、ドゥアルテに対する何らかの感情が、あの一語に圧縮されているのか。


 回廊の角を曲がると、中庭が見えた。噴水の音がしている。


「——あら。今日はいつもと違うお召し物ね」


 エレーナが唐突に言った。


 カイルは一瞬、何のことか分からなかった。


「藍色。似合っていらっしゃるわ」


「……ありがとうございます。仕立ての心得のある知人に、薦められまして」


「以前はいつも灰色でしたから。印象が変わったわ。……あら、私もそういうことを言える立場ではないのだけれど。私こそ三年間同じ服だと叱られたばかりですもの」


 エレーナが小さく笑った。自嘲するような、だが不思議と風通しの良い笑い方だった。


 カイルは面食らった。


 五度の接触で、エレーナが個人的な話をしたのは初めてだった。服の話。それも自分が叱られた話。王女としての威厳とは無関係の、ただの日常の一コマ。


「殿下も、叱られることがあるのですね」


 言ってから、不敬だったかと思った。だがエレーナは笑ったままだった。


「当然よ。私を叱る人は少ないけれど、いないわけではないわ。……図書館にいると、つい身なりのことは後回しになるの。本の方が面白いから」


「本の方が面白い」


「変かしら」


「いいえ。——とても、よく分かります」


 なぜそう答えたのか、カイル自身にも分からなかった。社交辞令ではなかった。ただ、本当にそう思った。本の方が面白いから身なりが後回しになる。その感覚を——理解できてしまった。


 エレーナの目が、一瞬だけ、少し柔らかくなった気がした。


 だがすぐにいつもの穏やかな仮面に戻った。


「長くお引き留めしてしまいましたね。お仕事に障りがあってはいけませんから、このあたりで」


「はい。本日はありがとうございました。大変勉強になりました」


 カイルは一礼した。エレーナは小さく頷いて、従者と共に去っていった。


 カイルは回廊に一人残された。


 ——何だ、今のは。


 頭の中で、三百の声が困惑している。分析派のレナードも黙っている。


 服の話をしていた。王女と、服の話を。本が面白いという話を。


 そして——「とても、よく分かります」と、本心を言ってしまった。


 ——失態だ。


 カイルは歩き出した。元老院の建物を出て、王宮の外へ。


 帰り道、レナードの残滓は珍しく黙っていた。


 代わりに、ロドリゲスの残滓がぼそりと言った。


 ——あの顔は知っている。


「何の話だ」


 ——議長の顔だ。穏やかで、部下の話をよく聞いて、信頼されている。軍にもいた、ああいう上官が。笑いながら兵を死地に送るやつだ。命令書に名前を書く時も、同じ顔をしている。


 カイルは足を止めた。


 ロドリゲスの声は、レナードのような分析ではなかった。経験だった。戦場で見てきた人間の話だ。


 ——あの手の人間は、自分が悪いことをしているとは思っていない。仕組みの中で最善を選んでいると思っている。兵が死ぬのは仕組みの結果であって、自分の責任ではない、とな。


「……だとしたら」


 ——だとしたら、何だ。


「余計に許せない」


 ロドリゲスは黙った。同意の沈黙だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ