第21話:議場の老人
エレーナからの書簡が届いたのは、仕立屋で服を受け取った翌日のことだった。
二通目の書簡。前回と同じ上質な紙に、同じ迷いのない筆跡。
内容はまた短かった。
——来週、元老院の公開審議がございます。議題は南方貿易に関する関税の改定案で、商業組合にも関わりのある内容かと存じます。傍聴券を同封いたしましたので、ご興味がおありでしたらお使いください。
封筒の中に、薄い紙の傍聴券が一枚入っていた。元老院の紋章が押されている。
カイルは書簡を読み返した。
六度目の接触だ。
前回は海図の写本の所在を教え、今回は元老院の傍聴券を渡す。どちらも「商人に役立つ情報を善意で提供する」体裁を取っているが、その裏にある意図は明白だった。
エレーナはカイルを観察している。情報を渡し、反応を見る。カイルが何に食いつき、何を避けるかで、カイルの輪郭を描いている。
海図を見に行った。それは「南方航路に関心がある」というデータポイントだ。
今度は元老院の公開審議。傍聴に行けば、それは「元老院の内部に関心がある」というデータポイントになる。
——罠だ。行くな。
レナードの残滓が即座に言った。
——いや。
カイルは心の中で返した。
——行く。
元老院。ドゥアルテの膝元だ。公開審議であれば、ドゥアルテ本人が議長席にいる。
カイルは、まだドゥアルテを自分の目で見ていない。
名前は知っている。経歴も調べた。レナードの残滓が持つ十五年以上前の記憶の中に、宰相ドゥアルテの名前はある。だが当時のレナードは平民の教師で、宰相の顔を直接見たことはなかった。カイルにとってドゥアルテは、名前と経歴だけの存在だ。
三百人を殺した男の顔を、まだ知らない。
エレーナの意図がどうであれ、この機会は逃せなかった。
——覚悟はあるのか。
レナードが問うた。
——あの男を見て、お前が冷静でいられる保証はない。魔力が漏れれば、元老院の中だ。学院出の魔法使いが何人もいる。気づかれたら終わりだ。
——承知している。
——承知しているなら、なぜ行く。
——見なければ始まらないからだ。
レナードは黙った。反対はしなかった。反対しても無駄だと分かっているのだろう。
## 十二
公開審議の朝、カイルは新しい服に袖を通した。
濃い藍色の上着。仕立屋のダニエルが選んだ色だ。鏡の前に立つと、確かに灰色の時より顔色が明るく見える。襟は控えめで、動きやすい。肩幅も袖の長さも身体に合っている。
——似合っているじゃないか。
誰の声だったか分からなかった。三百人の中の誰かが、ごく自然に呟いた。カイルは少し面食らった。復讐とも分析とも関係のない、ただの感想だった。
マテウスに見られたら、何と言うだろう。「やっぱり似合うじゃないか」と言いそうだ。——そう思って、カイルの口元がほんの一瞬だけ緩んだ。
だがすぐに表情を引き締めた。
今日、見に行くのは三百人を殺した男だ。服が似合うかどうかなど、関係ない。
護符を胸元に忍ばせ、魔力を身体の芯まで押し込んだ。普段より二段深い。元老院には魔法感知に長けた人間がいる可能性がある。万が一にも気取られないように。
宿を出た。
##
元老院の建物は王宮の西翼にあり、図書館とは棟を隔てた位置にあった。
重厚な石造りの正面に、王国の紋章が刻まれている。公開審議の日は一般市民にも傍聴が許されるが、入口で傍聴券の確認と簡単な身体検査がある。
カイルは傍聴席に通された。二階の回廊状の席で、一階の議場を見下ろす形になっている。傍聴席には商人や学者風の人間が二十人ほどいた。
議場は半円形で、中央に演壇、その奥に議長席がある。議員席が演壇を囲むように弧を描いて並んでいた。
議員たちが入場し始めた。
カイルは一人ひとりの顔を確認した。レナードの記憶にある名前と、現在の顔を照合する。十五年以上前の記憶だ。老けていたり、太っていたり、痩せていたり。だが骨格は変わらない。レナードの観察眼が、記憶の中の顔と現在の顔を結びつけていく。
——あれはバルボーザ伯爵だ。当時は元老院の若手だったが、今は重鎮か。
——左から三番目はカルネイロ家の当主。当時は父親が議席にいた。
レナードの残滓が次々と名前を挙げる。カイルはそれを聞きながら、議場全体を見渡した。
そして——中央の、一段高い議長席に、一人の老人が座った。
白髪。端正な顔立ち。姿勢が良く、背筋がまっすぐに伸びている。年齢は六十代後半か七十代か。穏やかな表情で、隣の議員に何かを話しかけている。相手が笑った。老人も微かに笑った。
——あの席は議長席だ。
レナードの残滓が、低い声で言った。レナード自身はドゥアルテの顔を知らない。だが、あの席に座る人間は一人しかいない。
ドゥアルテ。
カイルの全身が凍りついた。
三百の声が一斉にざわめいた——だが、ざわめきの中身が、カイルの予想とは違った。
怒り。憎悪。殺意。そういうものが噴き出してくると思っていた。三百人の怨念が、仇の顔を見た瞬間に爆発すると。
だが、最初に来たのは困惑だった。
——あれが?
——あの穏やかな老人が?
——嘘だろう。
三百人の声は、怒りではなく戸惑っていた。
あの白髪の老人が、三百人を死地に送った男だという事実が、視覚と感情の間で噛み合わない。カイルが想像していたのは——いや、三百人の残滓が想像していたのは、もっと明確な「悪」の顔だった。冷酷な目。傲慢な態度。人を人と思わない空気。
目の前にいるのは、好々爺だった。
議事が始まった。ドゥアルテが議長として審議を進行する。その手際は見事だった。対立する議員の意見を公平に聞き、論点を整理し、感情的になりかけた場を穏やかに収める。周囲の議員たちがドゥアルテに向ける視線には、敬意があった。
——上手い。
レナードの残滓が呟いた。感情を排した、純粋な分析だった。
——政治家として、あの男は一流だ。議場を完全に掌握している。しかも力で押さえつけているのではない。信頼で動かしている。
カイルは呼吸法を意識した。マルタから継承した、魔力を抑え込む呼吸。吸って、止めて、ゆっくりと吐く。体内の魔力が暴れようとするのを、一息ごとに鎮めていく。
ドゥアルテが発言する議員に頷いている。その仕草が、どこかアルベルトに似ていた。
——似ていない。
カイルは即座に否定した。父は開拓地で仲間の話を聞く時、同じように穏やかに頷いていた。だがそれとこれは違う。アルベルトは本心から人の話を聞いていた。ドゥアルテは——
——本心かもしれないぞ。
レナードの声が刺さった。
——あの男が議場で見せている穏やかさが、全て演技だとは限らない。人を死地に送った人間が、同時に有能で信頼される政治家であることは、矛盾しない。
カイルの指が、椅子の肘掛を握り締めた。
矛盾しない。その言葉が一番重かった。
ドゥアルテが悪人なら、話は単純だった。悪を倒す。正義を果たす。三百人の仇を討つ。だが目の前にいるのは、悪人に見えない老人だ。国を動かし、議場を治め、周囲から敬われている人間だ。
——それでも、あの男は三百人を見殺しにした。
カイルは自分に言い聞かせた。
——穏やかな顔をしていても、あの男が事業を主導した。三百人を南方に送る仕組みを作り、動かした人間だ。支援船は来なくなった。帰る手段は与えられなかった。なぜそうなったのか——報告書の改竄があったのか、予算が抜かれていたのか、確証はまだない。だが、三百人が飢え、病み、殺され、最後の一人になるまで死んでいったことは事実だ。
——仕組みを作った人間の顔が穏やかであることは、仕組みが生んだ地獄を一切軽くしない。
呼吸を整えた。魔力は抑えている。漏れてはいない。
だが、声が掠れていることに気づいた。
審議は二時間で終わった。
##
傍聴席から出ると、回廊にエレーナが立っていた。
まるで、カイルが出てくる場所を知っていたかのように。
「カルヴァーリョ殿。お越しくださったのですね」
「殿下のご厚意のおかげです。傍聴券をいただけなければ、元老院に足を踏み入れる機会はなかったでしょう」
「初めてでしたか、元老院は」
「はい。想像していたよりも——開かれた議論が行われていて、驚きました」
社交辞令だったが、嘘ではなかった。
エレーナは少し歩き始めた。カイルも並んで歩く。従者は数歩後ろにいる。回廊の窓から午後の陽光が射し込み、石の床に光の帯が伸びていた。
「議長はいかがでした?」
何気ない口調だった。世間話の一環、という体裁。
だがカイルは、この質問がこの日のエレーナの本題であることを理解していた。
ドゥアルテの名前は出さなかった。「議長」とだけ言った。だが、この場で議長と言えば一人しかいない。
「穏やかな方だと思いました」
カイルは答えた。声を平静に保つことに、全神経を使った。
「議論の裁き方が見事で、議員の方々からの信頼も厚いようにお見受けしました」
「そう」
エレーナは少し間を置いた。
「そうね。……穏やかよ。いつも」
その「いつも」の中に何が含まれているのか、カイルには読み取れなかった。
皮肉なのか。同意なのか。あるいは——エレーナ自身の、ドゥアルテに対する何らかの感情が、あの一語に圧縮されているのか。
回廊の角を曲がると、中庭が見えた。噴水の音がしている。
「——あら。今日はいつもと違うお召し物ね」
エレーナが唐突に言った。
カイルは一瞬、何のことか分からなかった。
「藍色。似合っていらっしゃるわ」
「……ありがとうございます。仕立ての心得のある知人に、薦められまして」
「以前はいつも灰色でしたから。印象が変わったわ。……あら、私もそういうことを言える立場ではないのだけれど。私こそ三年間同じ服だと叱られたばかりですもの」
エレーナが小さく笑った。自嘲するような、だが不思議と風通しの良い笑い方だった。
カイルは面食らった。
五度の接触で、エレーナが個人的な話をしたのは初めてだった。服の話。それも自分が叱られた話。王女としての威厳とは無関係の、ただの日常の一コマ。
「殿下も、叱られることがあるのですね」
言ってから、不敬だったかと思った。だがエレーナは笑ったままだった。
「当然よ。私を叱る人は少ないけれど、いないわけではないわ。……図書館にいると、つい身なりのことは後回しになるの。本の方が面白いから」
「本の方が面白い」
「変かしら」
「いいえ。——とても、よく分かります」
なぜそう答えたのか、カイル自身にも分からなかった。社交辞令ではなかった。ただ、本当にそう思った。本の方が面白いから身なりが後回しになる。その感覚を——理解できてしまった。
エレーナの目が、一瞬だけ、少し柔らかくなった気がした。
だがすぐにいつもの穏やかな仮面に戻った。
「長くお引き留めしてしまいましたね。お仕事に障りがあってはいけませんから、このあたりで」
「はい。本日はありがとうございました。大変勉強になりました」
カイルは一礼した。エレーナは小さく頷いて、従者と共に去っていった。
カイルは回廊に一人残された。
——何だ、今のは。
頭の中で、三百の声が困惑している。分析派のレナードも黙っている。
服の話をしていた。王女と、服の話を。本が面白いという話を。
そして——「とても、よく分かります」と、本心を言ってしまった。
——失態だ。
カイルは歩き出した。元老院の建物を出て、王宮の外へ。
帰り道、レナードの残滓は珍しく黙っていた。
代わりに、ロドリゲスの残滓がぼそりと言った。
——あの顔は知っている。
「何の話だ」
——議長の顔だ。穏やかで、部下の話をよく聞いて、信頼されている。軍にもいた、ああいう上官が。笑いながら兵を死地に送るやつだ。命令書に名前を書く時も、同じ顔をしている。
カイルは足を止めた。
ロドリゲスの声は、レナードのような分析ではなかった。経験だった。戦場で見てきた人間の話だ。
——あの手の人間は、自分が悪いことをしているとは思っていない。仕組みの中で最善を選んでいると思っている。兵が死ぬのは仕組みの結果であって、自分の責任ではない、とな。
「……だとしたら」
——だとしたら、何だ。
「余計に許せない」
ロドリゲスは黙った。同意の沈黙だった。




