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第22話:星と手紙

 公開審議の夜、エレーナは図書館の書斎に戻った。


 机の引き出しから、一冊の手帳を取り出す。鍵つきの小さな手帳。調査の記録を書き留めているものだ。


 今日の日付を書き、ペンを走らせた。


 ——元老院公開審議。傍聴券を渡し、カイル・カルヴァーリョの出席を確認。


 エレーナは書きながら、自分の行動を振り返った。


 傍聴券を渡したのは意図的だった。


 カイルを、ドゥアルテの前に置いてみたかった。


 南方の商人が元老院議長を見て、どう反応するか。それを確認したかった。


 結果を書く。


 ——カイル・カルヴァーリョ。審議中の態度は落ち着いていたが、議長席のドゥアルテを見た時、短時間だが姿勢に変化があった。具体的には、椅子の肘掛を強く握り締めた。時間にして十秒ほど。その後は回復。


 ——審議後の会話。「穏やかな方だと思いました」と回答。声に僅かな掠れがあった。


 エレーナはペンを止めて、その一文を見つめた。


 声の掠れ。指の強張り。どちらも微かなもので、普通なら見逃す。だが、エレーナは見逃さなかった。


 あの男は、ドゥアルテを見て動揺していた。


 商人が元老院議長を見て動揺する理由は、多くない。取引上の利害関係か、政治的な立場の問題か、個人的な因縁か。


 だがカイルは王都に来て二ヶ月の新参の商人だ。ドゥアルテと取引上の関係があるとは考えにくい。政治的な立場も、商人にはまだない。


 残るのは——個人的な因縁。


 南方の商人が、元老院議長に対して個人的な因縁を持つ。


 エレーナの頭の中で、いくつかの情報が繋がった。


 南方航路について質問した時、グラスが震えた。開拓事業と時期が一致する航路の話題に、魔力が反応した。


 「腕の立つ南方の商人」の噂。商人としては異質な戦闘力。


 目に残る南方の陽の光。


 そして今日——ドゥアルテを見て動揺した。


 ——あの男は、開拓事業に何らかの関わりを持つ人間だ。


 エレーナはそう書いた。書いてから、ペンを置いた。


 関わりの内容は、まだ分からない。開拓団に家族を送った遺族かもしれない。開拓事業の予算に関わった商人の関係者かもしれない。あるいは——もっと直接的な関わりがあるのかもしれない。


 だが、確証はない。


 エレーナは手帳を閉じた。


 ——確かめる前に壊すわけにはいかない。


 あの男が何者であれ、エレーナにとって今重要なのは、開拓事業の全容を解明することだ。カイルを追い詰めて正体を暴くことではない。もしカイルが本当に開拓事業に関わる人間なら、彼が持つ情報はエレーナにとっても価値がある。


 急いて問い詰めれば、カイルは王都から消えるかもしれない。そうなれば、情報源を一つ失う。


 ——待つ。まだ、待つ。


 エレーナは手帳を鍵つきの引き出しにしまった。


 元老院書庫。あそこにドゥアルテの「事業完了報告」の本文がある。あれを読めれば、事業の全容に大きく近づける。


 だが、元老院書庫へのアクセス権は議長の許可が必要だ。ドゥアルテに頼むわけにはいかない。


 他の方法はないか。


 元老院の議員の中に、書庫へのアクセスを手配してくれる人間がいないか。あるいは、図書館管理者の職務権限を拡大する正当な理由を作れないか。


 考え始めたが、今夜はまだ答えが出ない。


 窓の外に、目を向けた。


 南の空。低い位置に、あの小さな星が光っている。


 エレーナは窓辺に歩み寄った。


 きれいな星だ。星図に載っていない星。以前から気になっていた。名前をつけた人がいるのかもしれない、と思ったことがある。


「あの星を見ている人が、他にもいるのかしら」


 呟いた。誰にも聞かれない声だった。


 なぜそんなことを思ったのか、自分でも分からなかった。ただ、あの小さな光が、今夜は妙に近く感じた。



---



##


 同じ夜。


 カイルは宿の部屋で、灯りの下に座っていた。


 ドゥアルテを見た衝撃が、まだ身体の中を巡っている。


 穏やかな老人。好々爺。議場を信頼で動かす政治家。——三百人を死地に送り、見殺しにした男。


 その二つが同じ人間の中にある。


 カイルが望んでいたのは、明確な「悪」だった。冷酷で、傲慢で、人を人と思わない男。そういう相手なら、復讐に迷いはない。殺すべき悪がいて、それを殺す。単純な話だ。


 だが、目の前に現れたのは善人の顔をした男だった。


 レナードの残滓が口を開いた。


 ——人を殺すのに、悪意は要らない。仕組みがあればいい。


「仕組み」


 ——開拓事業は、ドゥアルテ一人の悪意で動いたわけではない。おそらく調査報告書は改竄され、予算は流用された。支援船は来なくなり、「事業完了」として帳簿が閉じられた。全容はまだ見えないが、これは一人の悪行ではなく、仕組みとして機能した構造だ。ドゥアルテはその仕組みを設計し、動かした人間——だが、仕組みの中では「最善の判断」をしていたつもりかもしれない。


「最善の判断で三百人を殺した、と」


 ——可能性はある。都市部の不満分子を排除し、国庫から予算を引き出し、自派閥の基盤を固めた。ドゥアルテの立場から見れば、王国の安定に寄与した政策だったかもしれない。開拓団が死のうが生きようが、目的は果たされた。


「……許せないな」


 ——許せないのは当然だ。だが、許せるかどうかと、倒せるかどうかは別の話だ。


 カイルは机の上に広げた資料を見た。


 海図の写本の記録。ダ・コスタの本から得た情報。ヴィエイラ商会の動き。アルメイダやマテウスから聞いた話。そして今日、自分の目で見たドゥアルテの姿。


 仕組みの輪郭が、少しずつ見え始めている。


 ドゥアルテは宰相時代に開拓事業を利用して権力基盤を固めた。宰相を退いた後も、元老院議長として政治力を維持し、ヴィエイラ商会を通じて南方貿易の利権を握っている。政治と経済の両輪で、この国の裏側を動かしている。


 ——だがまだ、証拠がない。


 ドゥアルテと開拓事業を直接結びつける物証がない。報告書の改竄も、予算の横領も、支援船の停止も、全てカイルの推測と断片的な情報に過ぎない。


 証拠がなければ、復讐は私刑にしかならない。暗殺は可能かもしれないが、ドゥアルテ一人を殺しても仕組みは残る。次のドゥアルテが現れるだけだ。


 ——仕組みを壊すには、仕組みの中に入るしかない。


 カイルはヴィエイラ商会のことを考えた。


 取引の打診が来ている。ヴィエイラの代理人が「南方産品の取引について話したい」と言ってきた。マテウスは断れと言った。レナードも罠だと警戒している。


 だが——


「受ける」


 声に出して言った。


 ——正気か。


 レナードが即座に反応した。


「ヴィエイラの内側に入らなければ、ドゥアルテの利権構造は見えない。外から眺めているだけでは、推測の域を出ない」


 ——綱渡りだ。ヴィエイラはドゥアルテの代理商だ。内側に入れば、ドゥアルテの目に入る。正体が露見する危険が跳ね上がる。


「綱渡りは最初からだ。王都に入った時から、綱の上にいる」


 レナードは黙った。


 マルタの残滓が、微かに何かを伝えてきた。言葉ではない。身体の芯に、温かい圧のような感触。「気をつけなさい」とも「無理をするな」とも取れる、曖昧だが確かな気配。


 カイルは頷いた。心の中で。


 エレーナのことを考えた。


 今日、回廊で礼は述べた。だがあの短い会話の中で、カイルは余計なことを言った。「本の方が面白い」というエレーナの言葉に、「とても、よく分かります」と答えてしまった。社交辞令ではなく、本心で。


 ——失態だ。


 分かっている。だが、あの瞬間、嘘を言うことがどうしてもできなかった。


 エレーナに「分かります」と言ったのは、共感したからだ。服よりも本が面白いという感覚を、カイルは理解できてしまった。南方大陸にいた頃、レナードが語ってくれた本の話に夢中になった夜があった。あの頃は本を読む余裕などなかったが、話を聞くだけで世界が広がった。


 エレーナと自分は、似ている。


 ——似ていない。


 カイルは即座に否定した。似ているはずがない。あの女は王女で、こちらは復讐者だ。


 ——だが似ているところがある、とお前は感じた。それは事実だ。


 レナードの声は、今度は分析ではなかった。ただの確認だった。


 カイルは何も答えなかった。



##


 窓を開けた。


 夜の空気が流れ込んでくる。王都の夜は、南方大陸の夜とは匂いが違う。人の暮らしの匂い。煙突の煙、焼きたてのパン、石畳に染みた雨水。生きている街の匂いだ。


 南の空を見上げた。


 低い位置に、小さな星が光っている。


 開拓星。


 レナードが名前をつけた星だ。開拓地の最初の夜に、焚き火を囲みながら南の空に見つけた、名前のない星。「あれを開拓星と呼ぼう」とレナードが言って、三百人が笑った。まだ、笑えた頃の話だ。


 カイルはいつも、この星を三秒だけ見つめて視線を外す。長く見ると、記憶が引きずり出される。


 だが今夜は——少しだけ長く見つめた。


 穏やかな顔をしていたな。


 心の中で、三百人に向かって呟いた。


 ——あの男は穏やかな顔をしていた。お前たちを殺した男は、好々爺の顔をしていた。


 返事はなかった。


 三百の声は、今夜は静かだった。怒りでも、悲しみでもなく、ただ——黙っていた。


 言葉にならない感情が、胸の底に沈んでいる。怒りとも悲しみとも、もっと名前のないものだ。三百人分の感情と、カイル自身の感情が混ざり合って、もう区別がつかない。


 星はただ光っている。十五年前と同じ場所で、同じように。


 あの星の下で、三百人は死んだ。


 あの星の下で、カイルは生き残った。


 そして今、あの星の下で——カイルは復讐の糸を手繰り、エレーナは帳簿の行間を読み、ドゥアルテは穏やかに笑っている。


 カイルは窓を閉めた。


 灯りを消す前に、椅子に掛かった藍色の上着が目に入った。暗がりの中で、濃い色が沈んでいる。


 明日からまた、仮面を被る。


 だが今日は、少しだけ——仮面の下にいる自分が見えた気がした。


 マテウスの心配を嬉しいと思った自分。温かい飯を美味いと思った自分。エレーナに「よく分かります」と本心を言ってしまった自分。


 ——それがお前だよ。


 誰の声だったか、分からなかった。マルタかもしれない。レナードかもしれない。あるいは、三百人の誰でもない、カイル自身の声かもしれない。


 カイルは灯りを消した。


 暗がりの中で、椅子に掛かった藍色の上着だけが、窓から差し込む星明かりをうっすらと受けていた。


 明日、あの服を着て、ヴィエイラの代理人に会いに行く。


 仮面の色が、一つ変わる。

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