第8話:帳簿の行間
報告会の朝、カイルは宿の部屋で三十分を費やして準備をした。
服装は前回よりわずかに格を上げた。濃い灰色の上着に、控えめだが仕立てのいい襟飾り。成功しつつある若手商人が、少し背伸びをして正装した——という印象になるように計算している。
そして、魔力の制御。
前回の懇親会で分かったことがある。エレーナの近くでは、カイルの体内の魔力が反応する。魔力の性質が似ているわけではない。むしろ逆だ。エレーナの魔力は完璧に制御された、結晶のように整然としたもの。カイルの魔力は三百の源泉が混ざり合った、本質的に混沌としたもの。異質なもの同士が近づいた時の反発——あるいは共鳴に近い。
対策として、カイルは普段より一段深く魔力を押し込んだ。身体の芯の、さらにその奥。ほとんど魔力を持たない平民と同じレベルまで表面の気配を落とす。窮屈だが、エレーナの前で揺らぐよりはましだ。
報告会の会場は前回と同じ商業組合の大広間だったが、雰囲気は違った。テーブルが並び、書類が配られ、議事が進行する。懇親会の緩やかさはなく、商業に関する政策報告と意見交換の場だった。
カイルは新参のため末席に近い場所に座った。周囲の商人たちと挨拶を交わし、報告に耳を傾ける。
エレーナは正面のやや上座に座っていた。
前回と同じく、従者は一人だけ。ドレスは淡い灰青色で、やはり華美ではない。書記のように手元で何かを書き留めている。報告の内容を記録しているのだろう。
——王女が自分で記録を取るのか。
カイルは小さな驚きを覚えた。普通、王族は従者に記録させる。自分の手で書くのは、内容を正確に把握したいという意志の表れだ。
報告は二時間に及んだ。税制の改定、輸入品の関税率、各地の物価変動。カイルはレナードの知識を駆使して内容を理解した。正直、大半の商人より深く理解していた。レナードの専門は政治と経済の交差点にあり、税制や貿易政策の分析は得意分野だった。
報告会が終わり、立食の懇談に移った。
カイルは立ち上がり、酒を取りに向かった。そこで——。
「カルヴァーリョ殿」
背後から声をかけられた。振り返ると、エレーナがいた。
——来た。
今度は覚悟していた。魔力は抑えてある。呼吸も整えてある。
「殿下。本日もお目にかかれて光栄です」
「先月のお約束、覚えていてくださったのね」
「忘れるはずがありません」
「嬉しいわ。……少しお話できますか」
エレーナは会場の端にある窓際のテーブルに移動した。カイルは従った。
二人きり、というわけではない。従者が少し離れた場所に控えているし、周囲には他の参加者もいる。だが、会話は事実上二人だけのものになった。
「報告会の内容、どう思われました?」
カイルは一瞬、どこまで踏み込むか迷った。商人らしく無難に答えるか、それとも——。
「正直に申し上げてよろしいですか」
「ぜひ」
「関税の改定案には疑問があります。南方産品への課税を上げれば、短期的には国庫収入が増えますが、中長期的には輸入量が減り、結果的に減収になります。報告ではその試算が抜けていました」
エレーナの目が光った。
比喩ではない。文字通り、瞳の奥に知的な興奮のようなものが閃いた。
「面白い。……あなた、商人にしては随分と政策に明るいのね」
「商売は政策の上に立っておりますので。風向きを読むのは商人の基本です」
「風向きを読む。なるほど。……では、もう一つ伺ってもいいかしら」
「どうぞ」
「エスターリャの港には、南方のさらに奥——大陸沿いではなく、外洋に向かう航路の記録はありますか。十年から十五年ほど前の、王国の官船の出入りについて」
質問は穏やかだったが、カイルの体内で三百の声が一斉にざわめいた。
南方のさらに奥。外洋に向かう航路。十年から十五年前。
——還らずの大陸への航路と、時期が一致する。
魔力が跳ねた。身体の芯に押し込めていた力が、一瞬だけ表面に向かって膨張した。窓際のテーブルに置いてあったグラスが、微かに震えた。
カイルは笑顔を保ったまま、全力で魔力を押し戻した。こめかみに汗が滲んだ。
「……十年から十五年前ですか。私が商会に入る前ですので、正確なことは申し上げられませんが」
呼吸を整えながら、言葉を選んだ。
「エスターリャは南方貿易の要港ですから、民間船の出入りは活発です。ただ、官船となると話は別で、うちの港を使ったという記録は聞いたことがありません。王都の港から直接出航するのが通例ですので」
嘘ではない。開拓団の船がエスターリャの港を使ったという情報は、カイルの知る限りない。
「そう。王都の港から直接。……ありがとう、参考になるわ」
エレーナの口調はあくまで軽かった。世間話の延長、という体裁。だが、この問いの裏にあるものをカイルは見逃さなかった。
「官船」。「十年から十五年前」。「外洋」。
商人に聞く形を取っているが、エレーナが探っているのは航路ではない。その航路を使って何が運ばれ——あるいは誰が送られたか、だ。
そしてカイルは見逃さなかった。エレーナがこの質問をした時、彼女の目が一瞬だけカイルの手元——グラスが震えた方——に向いていたことを。
気づかれたか。
気づかれていないか。
判断がつかない。
「殿下は南方航路にご関心がおありですか」
カイルは逆に問うた。攻守を入れ替えるために。
「航路そのものに、というよりは」とエレーナは少し考えるように目を伏せた。「王室の事業で、結果がよく分からないものがあるというのは気になるでしょう? 予算は使われているのに、成果報告がない。私は図書館の管理を任されているから、そういう書類の欠落が目につくの」
——書類の欠落。予算は使われているのに、成果報告がない。
それは開拓事業のことだ。直接その名前は出さなかったが、指し示す先は明らかだった。
——図書館。
カイルの中でレナードの残滓が反応した。王宮図書館は、王室の公文書を保管する場所でもある。エレーナは図書館の管理者として、過去の公文書にアクセスできる立場にいる。
そして、開拓事業の「書類の欠落」に気づいている。
これは偶然か。それとも——エレーナは自分で調べているのか。
「書類の管理とは大変なお仕事ですね」
「ええ。……でも、嫌いではないの。書類は嘘をつかないから。人は嘘をつくけれど、数字と日付は正直よ。帳簿の行間に、本当のことが書いてある」
エレーナは微笑んだ。今度は目も笑っていた。だがその笑顔がカイルの背筋を冷たくした。
帳簿の行間に、本当のことが書いてある。
この女は——分かっている。少なくとも、何かがおかしいと気づいている。開拓事業の闇に、図書館の書類から独力で辿り着きつつある。
カイルの復讐計画は、エレーナを「利用する」ことを前提にしていた。世間知らずの王女を口説き、懐に入り、王宮の情報を引き出す。
だが、目の前にいるのは世間知らずの王女ではなかった。帳簿の行間を読む女だった。嘘を見抜く目を持つ女だった。そして、自分と同じ場所に——開拓事業の闇に——別のルートから近づきつつある女だった。
これは、好都合なのか。危険なのか。
どちらとも判断がつかなかった。
「少し長くお引き留めしてしまったわね。申し訳ありません、カルヴァーリョ殿」
「いえ。殿下とお話しする時間は、何にも代えがたいものです」
社交辞令だった。そう聞こえるように言った。
エレーナはカイルの目を見て、少し首を傾げた。
「……あなたの目は、南方の太陽を見てきた目ね」
唐突だった。
「太陽の色が違うの。南方に行ったことはないけれど、本で読んだことがある。南方の陽射しは王都より強くて、人の目の色を少し変えるそうよ。あなたの目には、その光が残っている」
カイルは答えに詰まった。
目の色。それは継承とも偽装とも関係ない、カイル自身の身体の特徴だ。南方の——正確には、還らずの大陸の陽射しの下で十年を過ごした痕跡。偽装では隠せない。
「……殿下は、観察眼がおありですね」
「図書館司書の職業病よ。細かいところが気になるの」
エレーナはそう言って、今度こそ立ち去った。
カイルはしばらく窓際のテーブルから動けなかった。
——何だ、今のは。
頭の中が混乱していた。
三百の声がそれぞれに分析を始めている。あれは探りだ。いや、純粋な好奇心だ。知っている。知らない。罠だ。罠ではない。
カイルは全部を遮断した。
自分の頭で考える。
事実だけを並べろ。
一、エレーナは開拓事業の書類の欠落に気づいている。
二、エレーナは「南方出身」を名乗るカイルに、開拓事業について質問した。
三、エレーナはカイルの目に「南方の太陽」を見た。
四、グラスが震えた瞬間、エレーナの視線がそちらに向いていた。
四番目が問題だった。
あの震えは魔力の漏出だ。平民の商人の近くでグラスが震えるのは、普通あり得ない。地震でもなければ。
エレーナは王立魔法学院の首席卒業者だ。魔力の揺らぎを感知できないはずがない。
——気づかれたか?
確証はない。だが、可能性は否定できない。
カイルは宿に戻る道すがら、計画の修正を考え始めた。
エレーナを「利用する」計画は、前提の見直しが必要かもしれない。あの女はカイルが思っていたような駒ではない。下手に近づけば、逆にこちらの正体が露見する。
だが——離れるわけにもいかない。
エレーナが開拓事業の闇を独自に追っているなら、彼女が持つ情報はカイルにとっても価値がある。王宮図書館の公文書。帳簿の行間。ドゥアルテの足跡。カイルが商人の立場からでは絶対にアクセスできない情報に、エレーナは触れられる。
利用するのか。利用されるのか。
あるいは——。
カイルは首を振った。三つ目の選択肢はまだ考えない。
宿の部屋に戻り、机の前に座った。
二枚の紙を取り出す。一枚目は「ドゥアルテ」を中心とした関係図。二枚目は「エレーナ」と書いた紙。
エレーナの紙に、今日得た情報を書き加えた。
「開拓事業の書類の欠落に気づいている」
「帳簿の行間を読む——自分で調査している可能性」
「魔力の揺らぎに気づいた可能性(未確定)」
「南方の太陽の光を見抜く観察眼」
ペンが止まった。
もう一行、書くべきことがある。書きたくないが、正直に記録しておくべきだ。
「会話中、こちらの主導権を一度も握れなかった」
カイルはペンを置いて、天井を仰いだ。
三百人の声が、静かにざわめいている。
その中に、母リディアの残滓があった。何も言わない。ただ、子守唄のメロディが微かに流れている。カイルが追い詰められている時、母の残滓はいつもそうだった。言葉ではなく、あの子守唄を流す。
不思議と、少し落ち着いた。
——来月も会うことになるだろう。
エレーナは「楽しみにしている」と言った。あれが社交辞令なのか本心なのか、カイルにはまだ分からない。
分からないことが多すぎる。
この街に来て一ヶ月。カイルが確信を持って言えることは、一つしかなかった。
——この復讐は、思っていたより複雑になる。




