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第7話:表と裏

 懇親会からの帰り道、カイルは遠回りをした。


 商人街から宿に戻るだけなら大通りを真っ直ぐ歩けばいい。だが、カイルは一本裏の道に入った。二本裏に入った。さらに奥に。


 建物の質が変わっていく。


 石造りの立派な商館が、木造の安普請に変わる。通りの幅が狭まり、石畳が途切れ、むき出しの土が現れる。洗濯物が頭上を横切り、どこからか子供の泣き声が聞こえる。


 スラムだった。


 王都にはスラムがある。大通りの華やかさからは想像もつかない場所に、声を潜めて、何万人もの貧しい人間が暮らしている。レナードの知識ではそう聞いていた。十五年前の知識だが、今も変わっていないどころか、むしろ膨張しているように見えた。


 カイルはフードを目深に被って歩いた。


 路地の角に座り込んでいる老人。地面に直接座って物乞いをしている女。痩せた犬を連れた子供。


 ——ここだ。


 開拓団に応募した三百人は、こういう場所から来た。あるいは、こういう場所に落ちかけていた人々だった。父アルベルトは村の農夫だったが、もし開拓団に応募しなければ、行き着く先はここだった。マルタはここで薬師をしていた。ロドリゲスはここで職を失っていた。


 ふいに、頭の中が騒がしくなった。


 複数の残滓が同時にざわめいている。三百人のうち、王都の出身者の記憶が反応しているのだ。断片的な映像が瞬く。見覚えのある路地。嗅ぎ慣れた排水溝の臭い。角の向こうにあったはずのパン屋。もうないが、記憶の中にはある。


 ——あそこの角を曲がれば、うちがある。


 カイルの足が止まった。


 誰の記憶だ。名前が出てこない。だが足が覚えている。この角を右に曲がり、三軒目の——。


 足が勝手に動きかけた。


 カイルは歯を食いしばって止めた。


 お前の家じゃない。お前の記憶じゃない。そこにお前の帰る場所はない。


 呼吸を整える。記憶を押し戻す。数秒かかった。


 これがある。これが、ソウル・テイクの厄介なところだ。技能の断片は意図的に引き出せるが、感情や場所の記憶は不意に浮かんでくる。特に、本人にとって強い意味を持っていた場所の近くを通ると、残滓が暴れる。


 王都は三百人のうち相当数の「故郷」だ。この街を歩くこと自体がリスクだった。


 ——だが、だからこそ来た。


 この目で見たかった。三百人の故郷が、今どうなっているかを。彼らが逃げ出した場所が、変わったのか、変わっていないのか。


 変わっていなかった。


 十五年前と同じスラムが、同じ場所にあって、同じように人を飲み込んでいる。開拓事業に応募した三百人がいなくなっても、その穴は別の貧しい人間で埋まっただけだ。


 カイルはスラムを抜けて、大通りに戻った。


 さっきまでの華やかな通りが、違って見えた。パン屋の香り。子供の笑い声。それは本物だ。だがその二本裏に、別の世界がある。王都はそういう街だった。表と裏が、数十メートルの距離で隣り合っている。


 ——この国は、仕組みとしてそうなっている。


 レナードの残滓が呟いた。怒りではなく、ただの分析として。


 ——裕福な者が裕福であり続けるために、貧しい者が貧しくあり続ける必要がある。魔力の格差がその正当化装置だ。魔力が多い者は貴族であり、貴族は統治する権利を持つ。魔力が少ない者は平民であり、平民は統治される。論理は単純で、それゆえに強固だ。


 カイルは宿に戻り、部屋の鍵を閉め、ベッドに座った。


 ——さて。


 懇親会で得た情報を整理する。商人たちから聞いた噂話。貴族の顔ぶれ。そして、エレーナ。


 考えるべきことは多い。だがカイルの頭は、なぜか一つのことに引っかかっていた。


 エレーナが「面白い感想ね」と言った時の、あの表情。


 何が面白かったのか。「人々が温かい」という感想の、何が引っかかったのか。


 ——社交辞令だと見抜かれたか?


 いや、違う。社交辞令だと分かって聞き流すのが普通だ。わざわざ「面白い」と言ったのは、別の何かを感じ取ったからだ。


 カイルは天井を見上げた。


 分からない。あの女の考えていることが、分からない。


 ——次の機会がある。来月の報告会。


 それまでに、エレーナ・ヴァルディアについてもっと調べる必要がある。レナードの十五年前の知識では足りない。今のエレーナが何者で、何を考え、なぜ商業組合の懇親会に「初めて」足を運んだのか。


 カイルは机に向かい、白紙の紙を取り出した。


 紙の中央に「ドゥアルテ」と書く。その周囲に、今日聞いた名前を配置していく。元老院の構成員。王室御用商人。軍の将軍。神殿の高位神官。線で繋ぎ、関係を記す。


 そしてもう一枚。


 紙の中央に「エレーナ」と書いた。


 ——道具として使う相手だ。感情を挟むな。


 自分にそう言い聞かせながら、カイルはペンを走らせた。



##


 翌日からの一ヶ月間を、カイルは二つのことに費やした。


 一つは商人としての基盤固め。取引を成立させ、信用を積み、商業組合の中での立場を確保する。これは手段であって目的ではないが、手段が脆ければ目的にも辿り着けない。


 もう一つは情報収集。


 ドゥアルテについては、商人経由で少しずつ輪郭が見えてきた。元老院議長としての公的な権限だけでなく、私的な商取引にも深く関与している。王室御用の武器商人、鉱山経営、そして——南方貿易。


 南方貿易。


 カイルがその言葉を聞いたのは、香辛料組合の集まりでだった。


「ドゥアルテ閣下は南方貿易にご関心がおありでね。エスターリャ方面の航路開拓も支援しておられるとか」


 カイルは笑顔を崩さなかった。


「南方貿易ですか。それは心強いですね。航路が安定すれば、我々商人にとっても——」


「ただ、閣下の関心は香辛料じゃないらしいがね。何を運んでいるのか、我々にはさっぱり分からん」


 カイルの中で、レナードの残滓が反応した。


 ——南方貿易。航路。還らずの大陸への航路と同じ方角だ。


 まだ何とも言えない。南方は広い。エスターリャと還らずの大陸は方角こそ同じだが、距離はまるで違う。だが、ドゥアルテが南方に何らかの関心を持っている——その事実は覚えておく価値がある。


 エレーナについても調べた。


 こちらは商人経由では限界があった。王族の私的な情報は商人の噂話には乗らない。分かったのは公的な事実だけだ。


 第二王女エレーナ・ヴァルディア。十八歳。王立魔法学院を首席で卒業。現在は王宮図書館の管理を任されている。政治には直接関与していないが、元老院の公開審議には頻繁に傍聴に訪れる。


 ——首席卒業。


 魔法学院は貴族の子弟しか入学できない。その中での首席は、魔法の理論と実践の両方で最高評価を得たということだ。あの圧倒的な魔力に加えて、理論の裏付けもある。


 カイルとは正反対だった。カイルは魔力だけは膨大だが、理論がない。独学で覚えた型破りな魔法は、再現性が低く燃費が悪い。正規の訓練を受けた魔法使いと正面からぶつかれば、技術で圧倒される可能性がある。


 エレーナと自分の間にある、もう一つの格差。血統だけではない。教育の格差。


 ——もっとも、今のところ戦う予定はない。


 カイルの計画は、エレーナを駒にすることだ。口説き、信頼を得て、王宮の内側に入る足がかりにする。そのためには戦闘力ではなく、社交力が要る。


 だが、あの目を思い出すたびに、計画の歯車にわずかな違和感が残った。


 ——あの女は、口説かれるような女か?


 レナードの残滓が問いかけてくる。カイルはその問いを無視した。


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