第6話:銀髪の王女
転機は、王都に来て三週目に訪れた。
取引先の一人である布商人のマテウスから、王立商業組合の懇親会に誘われたのだ。
「堅い話はないよ。酒を飲んで、顔を繋ぐだけの集まりだ。新参の商人なら、ぜひ出ておいた方がいい。貴族のお歴々も顔を出すからね」
貴族が来る。
カイルは穏やかに微笑んで承諾した。
懇親会は王都の中心部にある商業組合の大広間で開かれた。参加者は百名ほど。大半は大商人だが、ちらほらと貴族の姿もある。商売に関わる法制度を所管する貴族、王室御用商人の地位を持つ家の当主、そういった面々だ。
カイルは会場に入った瞬間、意識を切り替えた。
三百人の断片の中から、社交に使えるものを手前に引き出す。レナードの知識——貴族の家名と序列。アルベルトの人心掌握——人を安心させる話し方。名前は思い出せない誰かの記憶——酒の銘柄と産地の知識。
——切り替えが必要だ。
チャンネルを合わせる感覚。知識のフォルダを開いたり閉じたりする感覚に近い。同時に二つは開けない。開こうとすると頭の中がぐちゃぐちゃになる。だから、今はレナードの知識を前面に出しておく。
酒を手に取り、自然に輪に加わった。
「カルヴァーリョ商会の当主代理です。南方から参りました」
「ほう、南方。エスターリャかね。あのあたりの香辛料は品がいい」
「ありがとうございます。うちはアラカン胡椒を主に扱っておりまして——」
会話は滑らかだった。商人の輪の中では、カイルの偽装は完璧に機能した。若いが落ち着きがある。知識もある。何より、話していて心地がいい。
それは三百人分の人生経験がもたらす副産物だった。目の前の人間がどんな言葉を求めているか、どんな相槌を打てば気分良く話し続けてくれるか、声の調子や目線の動きから推測できる。
これは技能ではない。三百人の人生を追体験した者が自然に身につける、人間への理解だ。
一時間ほど経った頃、会場の空気が微かに変わった。
入口の方でざわめきが起きている。カイルがそちらに目を向けると、何人かの商人が道を空けていた。貴族が到着したのだ。
若い女性だった。
従者を一人だけ連れている。ドレスは上等だが華美ではない。深い紺色の布地に、銀の刺繍がわずかに入っているだけ。髪は——銀色。長い銀髪を一つに束ねて、背中に流している。
カイルの心臓が跳ねた。
あの馬車の横顔だ。
忘れていた。本当に忘れていた。だが、銀髪を見た瞬間に、門を通った日の記憶が蘇った。馬車の窓。本に没頭する横顔。そして——自分の魔力が反応したこと。
カイルは反射的に魔力を体内の深部に押し込んだ。あの時と同じ失敗はできない。
周囲の商人たちがざわついている。
「第二王女殿下だ」
マテウスが耳元で囁いた。
「エレーナ・ヴァルディア殿下。商業組合の懇親会にお越しになるのは珍しい。……というか、初めてかもしれん」
カイルは動揺を飲み込み、銀髪の女性を観察した。
第二王女。王族。レナードの知識が断片的に浮上する。現国王の第二子。兄に当たる第一王子が王位継承の本命——という程度の情報しかない。レナードが王都を離れた時にはエレーナはまだ生まれていなかった。レナードの知識では補えない相手だ。
エレーナは会場を見回した。社交的な笑みを浮かべているが、目は笑っていない。義務で来ている、という顔だった。
商人たちが次々に挨拶に向かう。カイルは動かなかった。
——王族に近づくのは計画の一部だ。だが、今日ではない。初対面で商人が王女に話しかけるのは不自然だ。まずは遠くから観察する。
そう決めた。決めたのだが。
エレーナの方が、こちらに来た。
正確には、会場を巡回する中で、カイルがいる一角にたまたま差しかかった。マテウスが張り切って前に出た。
「殿下。布商のマテウスでございます。本日はようこそお越しくださいました」
「ありがとう、マテウス殿。商業組合の活動には以前から関心がありましたの。実際に足を運ぶのは初めてですけれど」
声が近い。カイルの一メートル先に、王族がいる。
魔力を押し込める。もっと深く。表面に出すな。
だが、近い。これだけ近いと、相手の魔力を感じてしまう。圧倒的な密度。空気の中に溶け込んでいる、強く、しかし制御された魔力の気配。門の前ですれ違った時とは比較にならない。近距離で感じるエレーナの魔力は、水面下にある巨大な氷山のようだった。見えている部分は穏やかだが、その下に尋常ではないものが沈んでいる。
カイルの体内の魔力が、その圧に反応して揺らいだ。
——まずい。
呼吸を整える。マルタの呼吸法。吸って、止めて、吐く。体内の流れを意識し、魔力を身体の芯に凝縮する。
「こちらは?」
エレーナの声だった。カイルを見ていた。
マテウスが答えた。「南方のエスターリャから来た若い商人ですよ。カルヴァーリョ商会の当主代理で——」
「自己紹介は、ご本人から伺いたいわ」
マテウスが口をつぐんだ。
カイルはエレーナの目を見た。
淡い紫色の瞳。宝石のような——という比喩は正確ではない。宝石は光を反射するだけだが、この瞳は光を吸い込んでいる。見る者の内側を覗こうとする目だった。
カイルは微笑んだ。練習した笑顔。穏やかで、人好きのする笑顔。
「カルヴァーリョ商会の当主代理、カイル・カルヴァーリョと申します。南方のエスターリャから、王都での新規取引開拓のため参りました。殿下にお目にかかれて光栄です」
完璧な商人の挨拶だった。声の調子も、お辞儀の角度も、目線の外し方も。
エレーナは数秒間、カイルを見つめていた。
「南方。エスターリャ」
「はい」
「遠いところからいらしたのね。王都はいかがですか」
「素晴らしい街です。活気があって、人々が温かい。南方では味わえない賑やかさです」
「……」
エレーナの表情が、わずかに変わった。何が変わったのか、カイルには一瞬分からなかった。
「そう。人々が温かい。……面白い感想ね」
言葉の選び方が奇妙だった。褒められたわけでも、否定されたわけでもない。ただ、「面白い」と言われた。カイルの中でレナードの残滓が警告を発した。この女性は、言葉の表面を聞いていない。言葉の裏を読んでいる。
「失礼ですが、カルヴァーリョ殿」
「はい」
「あなた、随分と落ち着いていらっしゃるのね。私と話す時に緊張しない商人は珍しいわ」
「殿下の前で緊張していないように見えるとしたら、それは私の商人としての修練の賜物です。内心では手が震えております」
嘘だ。手は震えていない。震えているのは体内の魔力だ。
エレーナはかすかに口元を緩めた。笑ったのか、笑っていないのか判断がつかない微妙な表情だった。
「修練。なるほど。……では、その修練の成果を、また別の機会にお見せいただけますか。商業組合の報告会が来月ありますの。私も出席する予定です」
「喜んで参上いたします」
「楽しみにしていますわ」
エレーナは軽く頷いて、次の商人の方へ歩いていった。
カイルはその背中を見送りながら、ゆっくりと息を吐いた。
心臓が速い。
魔力の揺らぎは抑えた。表情も崩さなかった。会話も問題なかった。だが——。
何かがおかしかった。
カイルは社交の場で人と話す時、常に主導権を握っている。三百人分の人生経験が、相手の心理を読む力を与えてくれる。誰が何を考えているか、何を言えば喜ぶか、何を言えば信用するか。それが分かる。
エレーナとの会話では、それが通じなかった。
彼女が何を考えているか、最後まで読めなかった。
——第二王女。
カイルの計画において、王族との接点は必要不可欠だった。王宮の内側に食い込むために。この国の構造を内側から崩すために。
だが、カイルが想定していたのは、もっと単純な相手だった。世間知らずの王族。籠の中で育った姫。適切な言葉で口説き、適切な距離で懐に入り、気づいた時には手遅れにする——そういう計画だった。
あの目は、籠の中の鳥の目ではない。
頭の中で、マルタの残滓が呟いた。
——気をつけな。あの子は、お前を見てる。
カイルは首を振って、酒を一口飲んだ。
大丈夫だ。計画通りにやる。エレーナが聡明だとしても、こちらには三百人分の引き出しがある。時間をかければ、必ず懐に入れる。
大丈夫だ。
——本当か?
それが三百人の声なのか、自分の声なのか、カイルには分からなかった。




