第5話:商人の仮面
宿の部屋で目を覚ました時、一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
天井が白い。壁が白い。窓から差し込む朝日が、薄いカーテン越しに部屋全体を柔らかく照らしている。清潔なシーツ。枕。掛け布団。身体の下にあるのは藁束ではなく、綿が詰まったマットレスだった。
右手が反射的に枕の下に伸びた。ナイフの柄に触れて、ようやく覚醒する。
——王都だ。
昨日、門をくぐった。今は王都ヴァルドゥーラの中級宿屋の一室にいる。商人街の端にある、目立たず、しかし不潔でもない宿。カルヴァーリョ商会の当主代理として滞在するなら、このくらいの格がちょうどいい。高すぎれば目をつけられる。低すぎれば信用されない。
ベッドから降りて、窓を開けた。
朝の王都が眼下に広がる。石畳の通りをもう人々が行き交っている。荷車を引く男。バスケットを抱えた女。学院に向かうのか、制服を着た少年たちが連れ立って歩いている。その全員が、昨日も一昨日もその前も、こうやって朝を迎えている。
頭の中で、誰かの声がした。
——うちの息子も、あのくらいの歳か。
カイルは目を閉じた。開拓団にいた男の残滓だった。名前は思い出せない。息子を王都に残して開拓団に参加し、戻れなかった男。息子の顔は、断片的にしか浮かばない。この記憶は特に欠けが多い。
声は数秒で遠ざかった。朝は比較的楽だ。三百の声は、カイルが疲れている時や感情が揺れている時に騒がしくなる。朝の、まだ心が凪いでいる時間帯は、声も静かだった。
洗面台で顔を洗い、鏡を見た。
二十歳の青年の顔が映っている。端正な、と言っていい顔立ち。この五年間で陽に焼けた肌は、この一年でだいぶ落ち着いた。髪は短く整えてある。服装は仕立てのいい商人の衣服。どこから見ても、南方で成功した若い商人。
笑ってみる。
口角の上げ方。目元の緩め方。人好きのする笑顔。鏡の中の男は、誰が見ても善良そうだ。
この笑顔を作るのに三年かかった。
カイルがこの五年間で最も時間をかけたのは、魔法の修練でも戦闘技術の研鑽でもない。「普通の人間のふりをすること」だった。
三百人分の記憶の断片は、カイルの表情を歪める。感情の制御が不完全な頃は、楽しくもないのに笑い、悲しくもないのに泣いた。継承した感情と自分の感情の境界が曖昧になり、ふとした瞬間に別人のような表情が浮かんだ。
それでは潜入はできない。
だから鏡の前で練習した。自分の表情を、一つ一つ、自分のものとして作り直した。笑い方、怒り方、困った顔、考え込む顔。全部、カイル・カルヴァーリョという人間の表情として再構築した。
三百人の誰の表情でもない、カイルだけの仮面。
机の上に広げた地図に目を落とす。
王都ヴァルドゥーラの市街図。宿の主人から買ったもので、観光客向けの簡易版だが、レナードから継いだ知識で補完できる。レナードは王都で二十年暮らしていた。通りの名前、地区の構成、どの辺りにどの階級の人間が住んでいるか。断片的ではあるが、土地勘がある。
ただし、レナードが王都を離れてから十五年以上が経っている。建物が変わり、店が変わり、人が変わっている。知識を過信すれば足元を掬われる。
——まずは情報を集めることだ。
カイルは身支度を整え、宿を出た。
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王都での最初の二週間を、カイルは商人として過ごした。
カルヴァーリョ商会の設定は事前に作り込んであった。南方の港湾都市エスターリャを拠点とし、香辛料と薬草を扱う中規模商会。当主は高齢のため、若い当主代理が王都での取引開拓を任されている——という筋書き。
実在する商会ではない。だが、エスターリャには五年間で築いた人脈がある。万が一裏を取られても、口裏を合わせてくれる人間が何人かいる。完璧ではないが、初動としては十分だった。
商人街を歩き回り、取引先候補に挨拶をした。名刺を渡し、世間話をし、茶を飲んだ。カイルが持ち込んだ香辛料の見本は本物で、品質は確かだった。商人たちは若い当主代理を歓迎し、食事に誘い、業界の噂話を聞かせてくれた。
情報は、そうやって集めた。
誰かに直接「教えてくれ」と言う必要はない。商人というのは噂話が仕事の半分だ。茶を飲みながら相槌を打っているだけで、王都の勢力図が少しずつ見えてくる。
——元老院議長ドゥアルテは、今も健在だった。
初めてその名を人の口から聞いた時、カイルの内側で三百の声が一斉にざわめいた。
魔力が揺れた。茶碗を持つ手に力がこもり、陶器がかすかに軋んだ。
「——カルヴァーリョさん?」
「ああ、すみません。少し考え事を」
笑顔を貼り付けて、茶碗をそっと置いた。指が微かに震えていた。テーブルの下で拳を握り、呼吸を整える。マルタの呼吸法。吸って、止めて、吐く。魔力を身体の深部に押し戻す。
相手は気づかなかった。
——ドゥアルテ。
レナードの知識が、その名前に大量の注釈をつけてくる。元宰相。現元老院議長。表向きは引退した老政治家だが、実権は今も握っている。王室財政への影響力、軍部との繋がり、神殿との関係。そして——十五年前に南方大陸開拓事業を主導した男。
開拓事業を立案し、移民を募り、船を出した。それだけはレナードの知識から分かっている。だが、その先が分からない。支援が途絶えたのはなぜか。約束が守られなかったのは怠慢か、それとも意図的な見殺しか。確証がない。カイルが持っているのは「ドゥアルテが事業の責任者だった」という事実と、「支援は来なかった」という結果だけだ。
二つの点を結ぶ線が、まだ見えない。
だが、三百の声はそんな慎重さを許さなかった。殺したんだ。許すな。殺せ。引き裂け。
同時に、別の声も聞こえた。落ち着け。調べろ。まだ早い。
後者はレナードの残滓だった。生前と変わらず穏やかで、生前と変わらず正しかった。
——点と点を繋ぐ証拠を探せ。感情ではなく、事実で裁け。
カイルは商談に意識を戻した。




