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第3話:最後の一人

##


 母リディアが死んだのは、父の死から二年後だった。


 瘴気だった。


 マルタの薬で何とか持ちこたえていたが、長年の蓄積には抗えなかった。リディアは一ヶ月かけてゆっくり衰弱していった。


 十一歳のカイルは、その一ヶ月間、母の傍を離れなかった。マルタが煎じた薬を飲ませ、額の汗を拭い、夜は手を握って寝た。


 リディアは魂の継承の力を知らなかった。父アルベルトは、あの夜の魔力の暴走についてはカイルと秘密を共有していたが、人が死ぬたびに何かが流れ込んでくるという能力のことまでは知らなかった。カイルが打ち明けたのは父の死後、マルタとレナードにだけだ。


 母が死ぬ時に、自分の何かが息子に流れると知ったら、母は安心して死ねなくなる。だから言わない。


 最後の日、リディアは少し持ち直して、カイルの顔を見て笑った。


「大きくなったわね」


「……うん」


「お父さんに似てきた」


「そうかな」


「そうよ。目のあたりが」


 リディアの手がカイルの頬に触れた。冷たかった。


「ねえ、カイル。あの砂浜を覚えてる? ここに来た日の」


「覚えてる」


「綺麗だったわよね」


「うん」


「あの日ね、お母さん、すごく嬉しかった。ここでカイルを育てて、カイルの子供が育って、そうやってずっと続いていくんだなって。そう思ったの」


 リディアの目から涙が一筋流れた。


「ごめんね。そうはならなかった」


「母さんのせいじゃない」


「ふふ。大人みたいなことを言うのね」


 リディアの声が小さくなった。


「でもね、カイル。お母さんはあの日のこと、後悔してないよ。あの砂浜を見た時の気持ちは本当だったから。ここに来て良かったと思ったのは、嘘じゃなかったから」


 カイルは母の手を握り返した。


「だから……あなたも、後悔しないで。お父さんも、きっとそう言う」


 母の目が閉じた。


 来た。


 いつもの痛みと、いつもの感覚。


 だが今度は、魔力の暴走は起きなかった。


 マルタから呼吸法を教わって二年。毎晩練習した成果だった。感情の波を感じながら、呼吸を整え、流れ込むものを静かに受け止める。


 流れ込んできたのは——。


 子守唄だった。


 カイルが赤ん坊だった頃に母が歌っていた子守唄のメロディ。カイル自身は覚えていなかった記憶。毎晩、小さなカイルを胸に抱いて歌い聞かせていた母の記憶が、母の目線で再生された。


 腕の中の赤ん坊の重み。柔らかい髪の匂い。小さな寝息。


 それだけだった。


 技能と呼べるものは何もなかった。母はただの母だった。


 母の魔力は本当に微かだった。蝋燭の灯のようなもので、カイルの中にある魔力の大河に注いでも、さざ波一つ立たない量。


 でも、それがいちばん重かった。


 カイルは感情の制御をやめた。一人きりの小屋の中で、声を殺さずに泣いた。


 泣いている間、魔力が揺れた。小屋の中の空気が微かに震え、天井から土埃が落ちた。だがカイルは抑え込まなかった。壊れてもいいと思った。


 壊れなかった。


 泣き終わった後、不思議なことに、魔力は少しだけ落ち着いていた。まるで、溢れそうだった水が涙と一緒に流れ出したかのように。


 マルタが後で言った。「感情を殺すのは、魔力の制御じゃないよ。蓋をしてるだけだ。蓋はいつか吹き飛ぶ。……泣ける時に泣きな」



##


 その後の四年間を、カイルはあまり語りたがらない。


 人が減っていった。年に数十人のペースで。飢え、瘴気、魔獣、そして絶望。自ら命を絶つ者もいた。


 カイルの中に蓄積される技能の断片と魔力は、否応なく増え続けた。


 ロドリゲスが魔獣に殺された時、武人としての断片を継いだ。槍の間合いの取り方、剣を抜いてからの足運び、体幹の使い方、獣の気配を読む感覚。武器を問わず戦場で身体を動かし続けた男の、骨身に染みた勘のようなもの。不完全だが、別の護衛兵から継いだ断片と組み合わさることで、カイル独自の戦い方が生まれ始めた。


 ヨーゼフが熱病で死んだ時、鍛冶の断片を継いだ。金属の温度を見る目。ハンマーを振る角度。ただし、ヨーゼフの筋力はカイルにはない。知識はあっても、十三歳の少年の腕では同じものは打てなかった。


 継承のたびに魔力も増えた。百人を超えたあたりから、カイルの体内の魔力は明確に「異常」な域に達していた。マルタの呼吸法だけでは抑えきれないことが増え、カイルは自分なりの方法を模索し始めた。走る。身体を動かす。魔力を物理的な運動に変換して消耗させる。原始的で非効率な方法だったが、他に手がなかった。


 ある時、魔獣を狩っている最中に、無意識に魔力を剣に乗せたことがあった。剣の切れ味が一瞬だけ跳ね上がり、それまで歯が立たなかった魔獣の鱗を断ち切った。


 強化魔法に近い現象だった。ただし理論がないから再現性がない。できる時とできない時がある。何が条件なのかも分からない。


 十二歳で、カイルは魔獣を一人で狩れるようになった。


 遅すぎた。


 十二歳の時点で、生き残りは三十人を切っていた。


 十三歳。二十人。十四歳。十人。カイルは狩りをし、畑を守り、マルタから教わった知識で瘴気の治療を試み、レナードと共に皆に状況を説明した。できることは全てやった。それでも人は死んでいった。



##


 マルタが死んだのは、カイルが十五歳の春だった。


 最後の八人のうちの一人。


 マルタは自分の死期を正確に分かっていた。薬師とは、つまり身体のことを知り尽くした人間ということだ。自分の脈を取り、自分の肺の音を聞き、あとどれくらいかを理解していた。


 七十歳。この地獄のような環境で十年を生き延びたのは、薬師としての自己管理能力があったからだ。だが、それも限界だった。


 死の三日前に、マルタはカイルを呼んだ。


「あたしが死んだら、あたしの知識がお前に行くんだろう」


「……全部じゃない。断片だけだ」


「断片で構わないよ。あたしがいなくなった後も、残りの皆の面倒を見られるだろう」


「何人も看取ってきたくせに、自分の番には随分落ち着いてるな」


「年寄りをなめるんじゃないよ」


 マルタは笑った。皺だらけの顔で、歯のほとんどない口で笑った。


「あたしはね、ここに来て良かったと思ってるよ」


「……本気で言ってるのか」


「本気さ。王都じゃ、あたしはスラムの婆さんだ。誰にも必要とされない。ここでは違った。あたしの薬で助かった人間がいた。あたしの知識が役に立った。それだけで十分だ」


 カイルは何も言えなかった。


「それにね」とマルタは続けた。「お前がいた。お前みたいな子がいて、あたしの知識を受け継いでくれる。婆さんの薬学を、次に繋いでくれる。それは……まあ、悪くない終わりだよ」


 三日後の朝、マルタは目を覚まさなかった。


 穏やかな顔だった。


 継承された断片の中に、怒りはなかった。悲しみも、後悔も、驚くほど少なかった。


 あったのは、静かな満足だった。自分の人生を生き切ったという、穏やかな感覚。


 マルタの魔力もまた微かだったが、彼女が生涯をかけて磨いた「体内の気の流れを感じ取る感覚」が、魔力の断片と一緒にカイルに流れ込んだ。マルタ自身はそれを魔法だと思っていなかった。薬師の技術だと思っていた。だが、カイルの中の膨大な魔力と結びついた時、その感覚は魔力制御の基盤をさらに強固なものにした。


 生前に教わった呼吸法と、死後に継承された体内感覚。マルタは二度にわたってカイルを救ったことになる。


 カイルはその日、初めて「継承」を重荷ではなく感じた。


 そして、だからこそ辛かった。マルタのような人間が、こんな場所で死ぬ必要はなかった。王国が嘘をつかなければ。約束を守っていれば。マルタは王都で、大勢の患者に囲まれて、長生きできたはずなのだ。


 怒りは、マルタのものではなかった。カイル自身のものだった。



##


 マルタの死から最後の一人になるまで、半年だった。


 残った七人のうち、二人は翌月の瘴気の大発生で倒れた。マルタの薬を受け継いだカイルが必死に煎じた薬も、今度は間に合わなかった。マルタの知識の断片はあっても、七十年の経験に裏打ちされた勘がカイルにはない。分量を誤り、煎じる時間を間違え、自分の未熟さを呪いながら二人を看取った。


 一人は魔獣に襲われた。カイルが駆けつけた時にはもう手遅れで、その男は最期にカイルの手を握って「すまんな、坊主」と言った。何を謝っているのか分からなかった。後に継承された断片で知った。この男は、もう自分が長くないと分かっていて、最後の見回りに自ら志願していたのだ。カイルに負担をかけまいとして。


 一人は、ある朝、崖の下で見つかった。自ら命を絶ったのだと、誰もが分かっていた。誰も口にはしなかった。


 一人は、静かに眠るように死んだ。老人だった。名前はフェルナンド。元は港の荷運びで、開拓団では力仕事を一手に引き受けていた。最後は腕の筋肉がすっかり落ちて、自分で水を汲むこともできなくなっていた。カイルが水を運ぶと、「すまねえな、大将」と笑った。大将、と呼ばれたのは初めてだった。フェルナンドは次の朝、笑った顔のまま動かなくなっていた。


 残り二人。カイルとレナード。



##


 最後の一人になったのは、十五歳の秋だった。


 レナードが最後だった。


 瘴気でもなく、魔獣でもなく、ただ身体が限界だったのだと思う。長年の栄養不足と過労が、レナードの身体を静かに蝕んでいた。


 最後の夜、レナードはカイルの隣に横たわりながら、夜空を見ていた。


「開拓星」


「え?」


「覚えてるか。最初の夜に、あの星に名前をつけただろう。開拓星」


 カイルは見上げた。南の空に、見慣れた星が光っていた。


「覚えてる」


「あの夜は良かったなあ」


 レナードの声は穏やかだった。いつだって穏やかだった。


「カイル」


「なんだ」


「お前、王国に行くだろう」


 カイルは答えなかった。


「止めないよ。止める権利もない。お前がどうするかは、お前が決めることだ」


「……」


「ただ、一つだけ。恨んでるか、俺たちのこと」


 カイルは長い間、黙った。


「恨んでない。……恨めない」


「そうか」


「みんな……ただ、ここで暮らしたかっただけだ。それだけだろ。恨めるわけがない」


「そうだな」


 レナードが笑った。星明かりの下で、痩せこけた顔が少し柔らかくなった。


「ならいいんだ。それなら大丈夫だ。……全部背負うなよ、カイル。お前はお前の人生を生きろ。まだ始まってもいないんだから」


 レナードの目が閉じた。


 流れ込んできた。


 知識。膨大な知識。歴史、政治学、算術、法学。ヴァルディア王国の権力構造。貴族の家系と派閥。元老院の仕組み。法の抜け穴。レナードが生涯をかけて蓄積した学識の断片が、カイルの中に注がれた。


 そして——レナードの魔力。


 元教師の、平民の、微かな魔力。だがレナードの魔力には不思議な「質」があった。知識を体系化し、整理し、保存する——そういう方向に長年使われてきた魔力は、カイルの中に入った時、散らばっていた二百九十九人分の断片を少しだけ「整理」した。混沌とした記憶の奔流の中に、かすかな秩序の糸が通った。


 完全な整理にはほど遠い。だが、それまでより少しだけ、必要な記憶を引き出しやすくなった。


 これもまた、レナードらしい継承だった。


 三百人目。


 カイルは一人きりで星を見上げていた。


 開拓星が光っている。


 身体の中で、三百の残滓がざわめいている。それぞれが、それぞれの人生の残り香を主張している。怒りもある。悲しみもある。だが、マルタの静かな満足もあるし、レナードの穏やかさもあるし、母の子守唄もある。ロドリゲスの誇りもある。ヨーゼフの頑固さもある。パウロの自己犠牲もある。子供たちの笑い声もある。


 そして三百人分の魔力が、カイルの身体の中で渦巻いている。一人ひとりは微かな光でも、三百集まれば星になる。ただしその星は制御を失えばいつ暴発するか分からない、不安定な星だ。


 復讐しろ、と叫ぶ声がある。


 生きろ、と囁く声がある。


 どちらもカイルの中にあって、どちらもカイル自身の声ではない。


 では、カイル自身は何を望んでいるのか。


 分からない。


 十五年生きて、そのほとんどをこの大陸で過ごして、三百人の死を看取って、三百人の断片を背負って。カイル自身の望みが何なのか、考えたことがなかった。考える余裕がなかった。


 分かっているのは一つだけだ。


 海の向こうに、全ての始まりがある。


「とりあえず、行く」


 カイルは朽ちかけた開拓地を振り返った。墓標の列。三百人分。丁寧に名前を刻んだ。レナードの分はまだだ。明日の朝、刻む。


「行ってくる」


 誰もいない開拓地にそう言った時、足元の地面が微かに光った。三百人分の魔力が、カイルの感情に呼応してかすかに漏れ出したのだ。


 光はすぐに消えた。


 だが、カイルの目は足元の地面に留まっていた。光が通った土の表面が、ほんの一瞬だけ色を変えていた。いつもの瘴気に冒された赤茶色ではなく——健康な土の、黒い色。


 一瞬で元に戻った。だがカイルは確かに見た。


 魔力が瘴気を、ほんの一瞬、押し退けた。


 この時は、それが何を意味するのかまだ分からなかった。後に、南端の浜辺で朽ちかけた流木を前にした時、この記憶が蘇ることになる。瘴気に蝕まれた木材でも、魔力を流し込めば——一時的にではあるが——浄化できるのではないか、と。


 それは遠い先の話だ。


 カイルは翌朝、レナードの墓標を立てた後、海に向かって歩き始めた。


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