第2話:魂の代償
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四年目。瘴気の被害が深刻化した。特に子供と老人が持たなかった。
子供が死んだ。二人。三人。四人。カイルと一緒に走り回っていた子供たちだった。
最初の一人は、マリアという名の女の子だった。カイルより一つ年下で、いつもカイルの後をついて回っていた。瘴気に肺を冒されて、三日間咳き込み続けて、四日目の朝に動かなくなった。
カイルはマリアの手を握っていた。最期の瞬間に立ち会っていた。
マリアの手から力が消えた、その瞬間。
——何かが、来た。
胸の奥で、何かが弾けた。小さな光のようなものが、マリアの身体からカイルの身体に流れ込んできた。温かいような、冷たいような、形容しがたい感覚。
そして——マリアの記憶の欠片が、カイルの頭の中に現れた。
虫の捕まえ方。花の名前。母親に抱かれた時の安心感。カイルと一緒に丘を走った日の、風の匂い。
それだけだった。技能と呼べるものは何もなかった。七つの少女が短い生涯で蓄えた、ささやかな記憶の断片。
だが、それと同時に、もう一つ流れ込んできたものがあった。
魔力だった。
平民の子供が持つ、ほんの微かな魔力。蝋燭の火に息を吹きかけた程度の、取るに足らない量。だがそれは確かにカイルの中に入ってきて、カイルの魔力と溶け合った。
カイルはまだ、それが何なのか理解していなかった。八歳の子供は、胸の奥の異変を言葉にする語彙を持っていなかった。
ただ、怖かった。
マリアが死んで、悲しかった。泣きたかった。なのに泣く前に、マリアの「何か」が自分の中に入ってきた。それが怖くて、悲しくて、気持ち悪くて、でも同時に——マリアの最後の感覚が分かった。苦しかった。怖かった。でも最後に、カイルの手の温もりを感じていた。
カイルはマリアの亡骸の前で動けなくなった。
これが最初だった。
ただし、カイルは後に、これが「最初」ではなかったかもしれないと思うようになる。六ヶ月目に死んだ護衛兵の死後、なんとなく「夜の気配の読み方」が分かるようになった気がしていた。気のせいだと思っていた。マリアの時に初めて、流れ込む感覚を明確に知覚した。
二人目、三人目と子供たちが死ぬたび、同じことが起きた。ささやかな記憶の断片と、微かな魔力。カイルの中に、少しずつ何かが積もっていった。
カイルは、このことを誰にも言えなかった。
言えるはずがなかった。
友達が死ぬたびに、その子の「何か」を奪っている。自分が。そう思うと、吐きそうになった。
だが、ある晩、事件が起きた。
大型の魔獣が開拓地の柵を突き破って侵入した。夜だった。見張りのロドリゲスが叫び、大人たちが飛び起きた。カイルも目を覚ました。
小屋の外に出ると、巨大な影が目の前にあった。
猪に似た魔獣だった。ただし体長は三メートルを超え、牙は人の腕ほどもある。黒い体毛が瘴気を含んで紫色に光っている。護衛兵たちが槍を構えて対峙していたが、魔獣は怯む気配がない。
ロドリゲスが槍で突いた。魔獣の脇腹に深々と刺さったが、魔獣は悲鳴を上げるだけで倒れない。逆上した魔獣が体当たりし、護衛兵の一人が吹き飛ばされた。
混乱の中、魔獣が方向を変えた。子供たちの小屋に向かって突進し始めた。
カイルは、その小屋の前に立っていた。
逃げなければ。頭ではそう思った。足が動かなかった。恐怖で、ではない。カイルの中で、何かが動いていた。
胸の奥に溜まっていた「何か」——マリアの分、他の子供たちの分、護衛兵の分——が、一斉にざわめいた。
逃げろ、とカイルの理性は言っていた。
身体は動かなかった。いや——動いていた。ただし、逃げる方向ではなく。
カイルは両手を前に突き出していた。なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。身体が勝手にそうした。
魔獣が迫る。三メートル。二メートル。牙が目の前に。
カイルの両手から、光が弾けた。
正確には「光」というより、空気の爆発に近かった。カイルの掌から放射状に衝撃波が走り、魔獣の顔面を直撃した。魔獣は悲鳴を上げて横転し、三メートルほど吹き飛んで地面を転がった。
カイルは自分の手を見た。
掌が焼けるように熱かった。指先が微かに光っている。何が起きたか分からない。ただ、胸の奥に溜まっていた「何か」が、一瞬で半分ほど減った感覚があった。
周囲が静まり返っていた。
大人たちがカイルを見ていた。
魔獣はまだ生きていた。横転した状態から立ち上がろうとしている。だがロドリゲスがそこに飛び込み、槍で喉を貫いて仕留めた。
静寂。
ロドリゲスが振り返った。魔獣の血に濡れた顔で、カイルを見た。
「……坊主。今のは、何だ」
カイルは答えられなかった。自分でも分からなかった。
その夜、アルベルトがカイルを小屋の裏に連れ出した。焚き火の光も届かない暗がりで、父と息子は向き合った。
「カイル。正直に話してくれ」
父の声は怒ってはいなかった。だが、緊張していた。
「今の……あれは魔法か」
「分からない」
「分からない?」
「本当に分からないんだ。勝手に出た。手を出したら、何かが……出た」
アルベルトは長い間黙っていた。
平民の間では、魔法は貴族のものだとされている。平民にも微量の魔力はあるが、手から衝撃波を出すような芸当は、本来あり得ない。
「……他に、何かあるか。最近、変わったこととか」
カイルは迷った。
言うべきか。人が死ぬと、何かが流れ込んでくること。マリアの記憶。他の子供たちの記憶。護衛兵の気配の読み方。
父の目を見た。疲れ切った目だった。団長として三百人を背負い、毎日誰かの死に直面し、支援船が来ない現実に耐えている目。これ以上、この人に背負わせていいのか。
「……ない」
嘘をついた。
アルベルトはしばらくカイルの顔を見ていた。信じたのか、信じなかったのか。やがて小さく頷いた。
「今の力のことは、誰にも言うな。俺とお前だけの秘密だ。いいな」
「……なんで」
「人は、分からないものを怖がる。今のこの状況で、皆に余計な不安を与えたくない」
カイルは頷いた。
父は立ち上がりかけて、少し考えてから振り返った。
「カイル。お前は……お前は、悪い子じゃない。何が起きてるか分からなくても、それだけは確かだ。いいな」
その言葉が、後に何度カイルを救ったか分からない。
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それから、カイルは一人で怯えながら生きた。
父に「誰にも言うな」と言われた。だから言わなかった。魔法のことだけではない。人が死ぬたびに何かが流れ込んでくること。それも、誰にも。
だが、人は死に続けた。死ぬたびに、何かが流れ込んだ。記憶の断片。技能の欠片。そして魔力。
魔力が問題だった。
少しずつ、身体の中に魔力が溜まっていく感覚があった。平民一人分の魔力は微々たるものだ。だが、それが十人分、二十人分と積み重なっていくと、もう「微々たるもの」では済まなくなってくる。
感情が昂ぶると、魔力が漏れた。
怒った時に、近くの水瓶にひびが入った。悲しい時に、焚き火の炎が異常に大きくなった。眠れない夜に寝返りを打つと、小屋の壁がきしんだ。
カイルは必死に抑え込もうとした。だが、抑え方が分からない。貴族の子供なら魔法学院で制御を学ぶ。カイルにはその機会がない。平民の開拓団に、魔法の知識を持つ人間はいない。
歯を食いしばって耐えた。何かが溢れそうになるたびに、ひたすら息を止めて、身体の奥に押し込めた。正しいやり方かどうかも分からなかった。ただ、漏れれば人を傷つけるかもしれない。それだけが怖くて、力づくで抑え込んだ。
あの夜の出来事のせいで、周囲の目も変わっていた。誰もカイルを責めはしない。だが、距離ができた。焚き火の輪の中で、カイルの両隣だけがなんとなく空いていることが多くなった。
八歳のカイルは、一人きりで自分の中の得体の知れない力と向き合っていた。
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五年目に、アルベルトが死んだ。
魔獣だった。
大型の魔獣が開拓地を襲った夜、アルベルトは最前線に立った。ロドリゲスが「団長は下がれ」と叫んだが、アルベルトは聞かなかった。護衛兵の数はもう三人に減っていて、人手が足りなかった。
アルベルトは農夫だった。剣の訓練は受けたが、本職ではない。それでも前に出た。妻と息子と、まだ生きている仲間を守るために。
魔獣の爪が、アルベルトの胸を裂いた。
ロドリゲスが魔獣を仕留めた時、アルベルトはまだ息があった。
リディアが駆け寄って、アルベルトの頭を膝に乗せた。カイルは母の隣で、父の顔を見ていた。父の目はカイルを見ていた。
「すまない」
父が最初に言った言葉がそれだった。
「連れてくるべきじゃなかった。お前たちを」
リディアが首を振った。振り続けた。言葉にならない声を上げながら。
アルベルトの目がカイルに向いた。
「カイル。母さんを——」
言い終わる前に、目が閉じられた。
来た。
もう何度目か分からないあの感覚。だが、父の分は——重かった。
頭の中が一瞬、白く染まった。これまでの継承は水が沁みるように少しずつ入ってきたが、父の分は違った。ダムが決壊したように、一度にどっと流れ込んできた。
団長として三百人を率いたこの五年間の記憶。毎日の判断。誰を守り、何を犠牲にするかという選択の連続。食料の配分を決める苦悩。死んでいく仲間への罪悪感。リディアとカイルを連れてきたことへの後悔。
そして——父の魔力。
農夫の、平民の、微かな魔力。だが、カイルの中に入ってきた瞬間、すでに蓄積されていた数十人分の魔力と混ざり合って、ざわめいた。身体の中で魔力が渦を巻く感覚。制御が追いつかない。
カイルの身体から魔力が溢れた。
足元の地面にひびが走った。周囲の空気が震えた。近くに置いてあった農具が弾き飛ばされた。
「カイル!」
リディアの声が遠くに聞こえた。
誰かが駆け寄ってきた。カイルの両手を掴んだ。薬師のマルタだった。
「坊や、息を吸いな! ゆっくり! 吐いて! 吸って! ゆっくりでいい!」
薬師の手だった。何百人もの患者を看てきた、落ち着いた手。何が起きているか分からなくても、目の前の人間が苦しんでいれば身体が動く。それが薬師だった。
カイルはマルタの声にしがみついた。魔力の奔流を、細い糸を手繰るようにして、身体の奥に押し戻した。時間にして十数秒だっただろう。だがその間、カイルの周囲半径三メートルの地面は細かくひび割れ、空気が歪み、夜空の星がぐにゃりと揺れて見えた。
収まった。
カイルは地面に膝をついて、荒い呼吸を繰り返した。
周囲の大人たちが、カイルを見ていた。
怯えた目だった。
父が死んだ悲しみと、自分の力への恐怖が混ざり合って、九歳のカイルはその場で嘔吐した。
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父の死から数日後、マルタがカイルを訪ねてきた。
カイルは小屋の隅に座って、誰とも口を利かずにいた。父の葬儀も終わり、開拓団の新しい体制をレナードとロドリゲスが相談しているのが遠くに聞こえたが、カイルには関わる気力がなかった。
「カイル」
マルタが入ってきて、向かいに腰を下ろした。
「あの夜のこと、話しな」
「……何も——」
「嘘をつくんじゃないよ。お前の身体から何が出たか、あたしは見てた。あれは普通の平民の子供に起きることじゃない」
カイルは黙った。
父に「誰にも言うな」と言われた。だが、その父はもういない。そして、あの夜の暴走は大勢の前で起きた。もう隠しようがない。
マルタはカイルの手を取った。薬師という職業柄、人の身体の微細な変化に敏感だった。脈を取る指先に、微かな痺れを感じたのだろう。
「お前、魔力が多いね。平民にしちゃ、ずいぶん溜まってる」
カイルは観念した。そして、少しずつ話した。
人が死ぬと何かが入ってくること。記憶の断片だけでなく、魔力のようなものも。
マルタは長い間黙って聞いていた。
「……そうかい」
それだけ言った。驚きも、恐怖も、嫌悪も見せなかった。
「制御できないんだろう」
「分からない。抑え方が分からない。父さんに、誰にも言うなって言われて、ずっと一人で……」
「そうかい。一人で抱えてたのか。……ばかだね」
マルタの声は厳しかったが、目は優しかった。
「魔法の教育なんて、ここじゃ誰もできない。だけどね」
マルタはカイルの手を握り直した。
「薬師の仕事は、身体の中の流れを整えることだ。魔力も身体の中を流れるものなら、考え方は同じかもしれないよ」
マルタが教えてくれたのは魔法ではなかった。呼吸法だった。薬師が患者の脈を診る時に使う、意識を集中させるための呼吸法。体内の気の流れを感じ取るための技術。
魔法とは似て非なるものだったが、カイルにとっては唯一の手がかりだった。
「あの夜、あたしがお前に『息を吸え』って言ったら、収まっただろう。あれは偶然じゃない。呼吸はね、身体の中の流れを変えるんだよ。薬師はそれを知ってる」
マルタの呼吸法を毎晩練習することで、魔力の漏出はある程度抑えられるようになった。完全ではない。感情が強く動いた時には、まだ漏れる。だが、水瓶を割るような事故は減った。
レナードにも話した。マルタに促されて。
レナードの反応はマルタとは違った。学者らしく、興味を示した。
「……ソウル・テイク、とでも呼ぶべきか。魂の継承。文献で読んだことがある類似の現象は……いや、正確には一致するものはない。だが、精神魔法の禁術に近い概念がある」
「禁術?」
「王国では禁じられている魔法の一分野だ。他者の精神に干渉する術。……カイル、お前の力は自発的に発動するものではないのか?」
「自分から何かしてるわけじゃない。勝手に来る」
「そうか。ならば禁術とは機序が違う。……いずれにせよ、王都にいた頃の私でも詳しいことは分からん。魔法は貴族の領分で、平民の学者が首を突っ込める分野ではなかったからな」
レナードはカイルの肩に手を置いた。
「ただ一つ、言えることがある。お前がどんな力を持っていようと、お前はお前だ。マリアの記憶がお前の中にあっても、お前がマリアになるわけじゃない。分かるか」
カイルは頷いた。頷いたが、心の奥では——本当にそうだろうか、と思っていた。
人が死ぬたびに、自分が何者なのか少しずつ分からなくなっている。その感覚は、レナードには話せなかった。
それでも、もう一人ではなかった。マルタとレナードがいた。焚き火の輪の中で空いていたカイルの両隣に、二人は当たり前のように座った。
リディアも変わらなかった。母親だった。息子が何者であろうと、母は母だった。
だが、カイルの中で何かが決定的に変わったのも事実だった。感情が動くと魔力が漏れる。魔力が漏れると人を傷つけるかもしれない。呼吸法である程度は抑えられるようになったが、完璧ではない。だから感情の振れ幅を小さくした。大きく笑わない。大きく泣かない。大きく怒らない。九歳の子供が、感情を制御する方法を覚え始めた。




