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第1話:白い砂浜

初投稿です。本日、プロローグ的なところをまとめて投稿させていただきます。

よろしくお願いします。

 最初の三ヶ月は、本当に希望があった。


 船が南方大陸の浜辺に着いた日のことを、カイルは覚えている。というより、カイルの記憶なのか、後に継承した誰かの記憶なのか、もう正確には分からない。ただ、あの光景だけは鮮明だ。


 白い砂浜。濃い緑の樹林。見たこともない色の花が咲き乱れる草原。


 船から降りた三百人が、しばらく黙って立ち尽くしていた。


 誰かが「綺麗だ」と呟いた。


 誰かが泣いていた。


 五歳のカイルは父アルベルトの手を握りながら、母リディアが涙を拭っているのを不思議に思った。なぜ泣いているのかが分からなかった。後になって分かった。母は嬉しかったのだ。ようやく辿り着いた。ここで暮らせる。カイルに、土地を残してあげられる。


 アルベルトはすぐに動いた。団長として、まず全員にやるべきことを割り振った。男手は樹林の伐採と土地の整備。女性と年配者は仮設住居の設営と食料の管理。ロドリゲスを含む護衛兵五名は周辺の偵察。マルタは医療班の責任者。レナードは子供たちの教育係と記録係を兼任。


 みんな、動いた。


 ここが自分たちの土地になるのだと思えば、身体は自然に動いた。木を切り、土を掘り、石を積み、水を汲んだ。鍛冶師のヨーゼフは浜辺で拾った鉄鉱石を見て「悪くねえ」と目を細め、最初の炉を三日で組み上げた。


 カイルは他の子供たちと走り回っていた。大人たちが忙しく立ち働いているのを、冒険だと思っていた。


 最初の畑に種を蒔いた日、レナードがカイルたちを集めて言った。


「いいか、ここから芽が出て、実がなって、それを収穫する。君たちが見ているのは、新しい国の始まりだ」


 カイルはその言葉を覚えている。これは間違いなく自分の記憶だ。レナードの穏やかな声と、畑の黒い土と、空の青さ。五歳の自分はレナードの言葉の意味をちゃんとは理解していなかったが、何か大事なことを言われている気はした。


 芽は、出た。


 二週間で緑の双葉が土を割って顔を出した時、大人たちは歓声を上げた。アルベルトとリディアが抱き合っていた。ヨーゼフが打ったばかりの鍬を地面に突き立てて「どうだ」と笑っていた。マルタが周辺の植物を採集して回り、「薬になりそうなものがいくつかある」と報告した。


 夜は焚き火を囲んだ。誰かが歌い、誰かが踊った。ロドリゲスが剣術の型を披露して子供たちに拍手された。レナードが星座の話をした。この大陸の星は王国とは少し違っていて、見たことのない星が南の空に光っていた。


「あれに名前をつけよう」とレナードが言った。


「開拓星、なんてどうだ」と誰かが答えて、みんなが笑った。


 三ヶ月間、カイルは幸せだった。


 たぶん、三百人全員が幸せだった。



##


 最初の異変は、瘴気だった。


 朝起きると、地面から薄い紫色の霧が漂っていることがあった。最初は珍しい気象現象だと思われていた。だが、その霧を吸った者が咳き込み、発熱し、やがて起き上がれなくなった。


 マルタが必死に調べた。王国から持ち込んだ薬草で対処を試みたが、効果は限定的だった。この大陸特有の毒素に、王国の薬学は対応していなかった。


「現地の植物で対処するしかない」とマルタは言った。彼女は六十歳の身体を押して森に入り、試行錯誤を重ねた。何度も自分の身体で試し、何度も腹を壊し、それでも少しずつ有効な薬草を見つけていった。


 マルタの努力で、瘴気の被害はある程度抑えられた。


 しかし、次に来たのは魔獣だった。


 人間が拓いた土地の匂いに引き寄せられたのか、開拓地の周囲に獣の影がちらつくようになった。最初は小型の獣で、ロドリゲスたちが追い払えた。だが徐々に大型の魔獣が現れ始め、家畜が襲われ、畑が荒らされた。


 六ヶ月目に、最初の死者が出た。


 夜間の見張りをしていた護衛兵が、大型の魔獣に襲われた。ロドリゲスが駆けつけた時にはもう手遅れだった。


 この時はまだ、「不幸な事故」で済んだ。アルベルトが全員を集め、今後の警備体制を見直すと宣言した。夜間は交代で見張りを立てる。森に入る時は必ず複数人で。


 みんな頷いた。怖かったが、まだ「やれる」と思っていた。


 問題は、王国からの支援船だった。


 出発前の取り決めでは、三ヶ月ごとに支援船が来ることになっていた。食料、種子、農具、薬品、そして本国との通信手段。


 最初の支援船は予定通り来た。約束された物資のうち、半分ほどしか積まれていなかったが、それでも来たことに皆は安堵した。アルベルトは船に報告書を託した。現状の困難を詳細に記し、追加の薬品と護衛兵の増員を要請した。


 二回目の支援船も来た。物資はさらに減っていた。薬品の追加は「検討中」とだけ書かれた手紙一枚。護衛兵の増員は無視された。


 三回目の支援船は、来なかった。


 三ヶ月待った。半年待った。


 来なかった。


 アルベルトは皆の前では平静を装っていたが、夜、リディアと二人きりの時に言った。


「見捨てられたかもしれん」


 カイルは寝たふりをしてその会話を聞いていた。六歳だった。「見捨てられた」の意味はぼんやりとしか分からなかったが、父の声が震えているのは分かった。父の声が震えるのを聞いたのは、後にも先にもこの一度だけだった。


 翌朝、アルベルトはいつも通りの顔で皆の前に立った。


「支援船が遅れている。だが俺たちは、船が来なくても生き延びる力がある。今まで半年やってきたじゃないか。畑はある。水はある。マルタの薬がある。ロドリゲスの剣がある。大丈夫だ」


 皆が頷いた。アルベルトの言葉を信じたというよりは、信じたかったのだと、後にカイルは理解した。



##


 一年が過ぎ、二年が過ぎた。支援船は来なかった。


 開拓地は少しずつ、しかし確実に追い詰められていった。


 瘴気は季節によって濃さが変わり、特に雨季には地面から溢れ出すように広がった。マルタの薬である程度は防げたが、薬の材料となる植物の採取には森の奥に入る必要があり、そこには魔獣がいた。


 薬を作るために命を賭ける。それが当たり前になった。


 畑はある程度の収穫をもたらしたが、瘴気に晒された土壌は年々痩せていった。収穫量は減り続けた。ヨーゼフが農具を作り直し、レナードが土壌改良の知識を文献から引っ張り出し、アルベルトが休耕地のローテーションを組んだ。全員が知恵を絞った。


 それでも、足りなかった。


 飢えが来た。


 最初は我慢できた。食事の量を減らし、子供と老人を優先した。マルタは自分の分を半分にして患者に回した。ロドリゲスは「俺は身体がでかい分、蓄えがある」と笑って、自分の食事を子供たちに分けた。


 しかし我慢には限界がある。


 三年目の冬、最初の餓死者が出た。


 若い男だった。名前はパウロ。農夫で、妻と生まれたばかりの赤子がいた。自分の食事を全て妻と子に渡していたことに、誰も気づかなかった。ある朝、起きてこなかった。


 妻が泣き叫ぶ声が、開拓地に響いた。


 カイルはその時七歳で、パウロの死がどういうことか理解していた。パウロの葬儀で、アルベルトは何も言わなかった。ただ黙って穴を掘り、黙って土をかけた。カイルは父の背中を見ていた。


 パウロの死で何かが変わった。それまで「いつか支援船が来る」と信じていた人々の中から、その信仰が消え始めた。


 パウロの死の翌日、ロドリゲスがアルベルトのところに来た。


「船を作れないか」


 アルベルトは首を振った。「ヨーゼフに聞いた。この大陸の木は瘴気を含んでいて、船材に適さない。仮に作れたとしても、本土まで何百キロだ。途中で朽ちる」


「なら、いかだでも——」


「ロドリゲス」


 アルベルトの声は静かだった。


「俺もずっと考えている。だが今の状況で海に出たら死ぬ。それよりも、ここで生き延びる方法を考えるしかない」


 ロドリゲスは唇を噛んで、頷いた。



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