第26話:余白
その日の夕刻、エレーナは書斎に戻った。
視察の報告書を書く。蔵書の状態、分類体系の差異、王宮図書館との重複状況。書記官のペレスが作成した目録の照合結果を確認し、追記事項をまとめる。
ダ・コスタ旧版。状態は経年相応。新版で削除された図版六十三点を含む。王宮図書館未所蔵。保全の観点から写本の作成を検討すべき。
書いた。職務として必要な記録だ。
ペンを置いて、紙を乾かすために一息入れた。
その一息の間に、別のことを思い出した。
書架の最上段に本を戻す、藍色の袖。下ろされる腕。触れなかった距離。あの時、自分は一歩下がるべきだった。下がらなかった。なぜ下がらなかったのか、その場では考えなかった。
——近かった。
今、改めて思う。近かった。男の人と、あれほど近い距離に立った記憶が、ここ数年では思い出せない。兄は別として、宮廷の男たちは常に礼節の距離を保つ。二歩か三歩。それ以下に詰めることは、無礼に当たる。
カイル・カルヴァーリョは、無礼だったのだろうか。
違う。彼の方は距離を取ろうとしていた。近づいたのは、本を戻すという動作の必要上だけだ。そして動作が終われば、きちんと一歩下がった。
下がらなかったのは、エレーナの方だった。
エレーナは自分の指先を見た。ペンを持った右手が、少しだけ冷たい。心臓の方が、いつもより速い気がした。
気のせい、ということにした。
夜は冷える。宮廷の石の床は、秋になれば熱を奪う。指先が冷えるのも、鼓動が少し速いのも、季節のせいだ。
そう自分に言い聞かせて、ペンをまた手に取った。
クララが夜の茶を持ってきた。机の端に盆を置き、湯気の立つ杯をエレーナの手元に寄せた。
「ありがとう」
「今日の視察、いかがでしたか」
「収穫はあったわ。ダ・コスタの旧版が良い状態で残っていた。図版が——」
エレーナは言葉を続けた。学術的な話を。蔵書の状態のこと。分類体系の違いのこと。
クララは黙って聞いていた。
エレーナが話し終わると、少しの間、静かになった。
クララが茶を淹れ足した。ゆっくりとした手つきで。
「あの商人の方も、いらしていましたね」
何気ない声だった。
エレーナの筆は止まらなかった。止まりそうにもならなかった。
「ええ。偶然ね。香辛料の相場記録を調べにいらしていたみたいだけれど」
「さようでございますか」
クララは茶を置いた。
それだけ。それだけのはずだった。
だが、沈黙が続いた。
普段ならこの沈黙は心地よいものだ。エレーナが書き物をし、クララが傍にいる。六年間続いてきた夜の時間。だが今夜は、沈黙の色が少し違う気がした。
エレーナは自分から口を開いた。
「何か言いたそうな顔をしているわ」
「何も」
「嘘」
クララが少し笑った。
その笑い方が、侍女の微笑みではなかった。十九歳の娘の、友人に向けるような笑いだった。何かを知っていて、でも言わない。言わないこと自体を楽しんでいるような。
「何がおかしいの」
「何もおかしくはございません。殿下がご機嫌がよろしいのは良いことですから」
「別にご機嫌がいいわけでは……」
言いかけて、やめた。否定すればするほど墓穴を掘る気がした。
クララは盆を下げながら、一言だけ付け足した。
「藍色がお似合いの方でしたね」
扉が閉まった。
エレーナは一人になった書斎で、ペンを持ったまま動かなかった。
——何よ、それは。
心の中でだけ言った。
誰のことを言っているのか分かっている。分かっているが、分かっていないことにした。
カイルに返信を書く用件はない。今日の書架での会話は公務の範囲だ。ダ・コスタの旧版について話しただけだ。植物のスケッチの話をしただけだ。白い花の……
白い花。
あの男が「もっと」と言いかけて止めた、あの瞬間を思い出した。
言葉の続きは聞けなかった。聞かなかった。追い詰めるつもりはなかったし、追い詰めるべき場面でもなかった。
だが、あの一瞬、カイルの目の中に、何かが見えた。商人の仮面の向こう側に、ほんの一瞬だけ、別の何かが。
——エレーナ・ヴァルディア。あなたは調査をしているのよ。
自分に言い聞かせた。
カイル・カルヴァーリョは、開拓事業に何らかの関わりを持つ人間だ。それを確かめるための観察を続けている。今日の会話も、その延長に過ぎない。
そのはずだ。
——そのはずなら、なぜ彼の声のトーンを覚えているの。
問いかけてきたのは、自分自身の声だった。
「ありがとう」と言った時の、自分の声。あれは観察者の声ではなかった。もっと柔らかく、少し掠れて、自分で聞いていて自分でないような声だった。書架の間で、薄暗がりの中で、彼の藍色の袖が髪に近づいた瞬間に出た声。
エレーナは目を閉じた。
観察者として彼に近づいたはずだった。観察者として距離を測り、観察者として情報を集め、観察者として結論に至るはずだった。
それが、今夜は少しだけ違う。
「ありがとう」を言った時の自分の声を、彼がどう聞いたのか——それを考えている自分がいる。彼の記憶の中で、自分の声がどう残っているか。それを気にしている自分が、いる。
調査とは、関係のないことだ。
灯りを消す前に、窓辺に歩み寄った。南の空は曇っていた。星は見えなかった。
——曇りなら、仕方ないわね。
何が仕方ないのか。自分でも分からなかった。
同じ夜。
カイルは宿の部屋で帳簿を広げていた。
ヴィエイラとの取引の記録。初回分の品目と数量、支払い条件、来月の南方便の入港予定。ドゥアルテの利権構造の図式に、ヴィエイラの代理人から得た情報を書き足していく。
作業は順調だった。レナードの残滓が数字の整合性を確認し、カイルがペンを走らせる。いつもの分担だ。
だが、ペンが止まった。
帳簿の余白に、無意識に何かを書きかけている。
白い花……
消した。
インクが滲んで、小さな黒い染みになった。
——集中しろ。
レナードの残滓が言った。
「分かっている」
レナードは何も聞かなかった。何を書きかけていたか、聞かなかった。
カイルはそのことに気づいた。レナードは、聞けば分かることを聞かなかった。聞かないことを選んだ。
——聞かないのか。
心の中で問いかけた。
返事はなかった。代わりに、レナードの残滓がいつもより少しだけ遠くに引っ込んだ。分析の距離ではなく、一人にしてやる距離だった。
カイルは帳簿の余白の染みを見た。花の形にはなっていない。ただの染みだ。意味はない。
——意味はない。
マルタの残滓は、今夜は何も伝えてこなかった。温かい気配も、沈黙の圧も。ただ、いなかった。いないことが、逆に何かを言っている気がした。
カイルは帳簿を閉じた。
あの書架の薄暗がりで、エレーナの声が柔らかくなった瞬間を、まだ覚えている。
「ありがとう」。
たった五文字だ。礼を言われただけだ。本を棚に戻しただけだ。
だが、思い出そうとしなくても思い出してしまう。灯りを見ていても、帳簿を見ていても、ふとした瞬間にあの声が耳の奥に戻ってくる。柔らかく、少し掠れた、いつものエレーナの声ではない声が。
カイルは自分の指先を見た。本を棚に戻した時に使った右手。エレーナの髪に触れなかった距離を保った手。
触れなくてよかった、と思う自分と、触れなかったことを覚えている自分が、同じ指先にいる。
——それだけのことだ。
カイルは灯りを消した。
暗がりの中で、椅子に掛かった藍色の上着が沈んでいる。
明日はマテウスに会う。ヴィエイラの取引のことは、まだ、言えない。
嘘の数が増えていく。マテウスに対する嘘。エレーナに対する嘘。商人街の仲間に対する嘘。そして、自分自身に対する嘘も、いくつか。
帳簿の余白に何を書きかけたか。それについては、三百人の誰にも聞かれなかった。




