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第27話:南風の街

 潮の匂いが、鼻の奥に馴染んだ。


 王都から乗り継いだ南行きの船は、四日かけてエスターリャの港に着いた。陸と海の境界線が、王都とは違う。王都の桟橋は石造りで整然としているが、エスターリャの桟橋は長年の荷揚げで木が黒ずみ、軋む音が絶えない。潮風に混じって、魚と干物と荷札の墨の匂いがする。


 カイルは荷を担いで桟橋を降りた。


 藍色の上着を身につけたままだった。王都を発つ時に脱ぐ余裕がなかった。船の中でも脱がなかった。今、それが妙に浮いている。エスターリャの桟橋で、この色を着ている人間はほとんどいない。商人たちは地味な茶色か灰色、職人は汚れの目立たない濃い緑、港湾労働者は袖を捲った下着一枚だ。


 この街では、この色は浮く。


 カイルは上着の裾を軽く引いて、歩き出した。



 港湾区から商業区へ、商業区から下町へと、足が自然に進んだ。道を確認する必要はなかった。五年分の記憶が、道の名前を覚えていなくても身体を運んでくれる。


 角で石畳がいったん途切れて、踏み固められた土に変わる場所がある。その角を曲がれば下町だ。下町に入ると建物の高さが急に落ちる。二階建てが一階建てになり、瓦屋根が板葺きに変わり、窓枠の木が湿気で反っている。洗濯物が路地の上空を斜めに横切っている。


 空気が変わった。


 王都の商人街の空気は、金と紙と香辛料の匂いがした。エスターリャの下町の空気は、汗と魚油と、煮詰めた豆の匂いがする。子供が裸足で駆けていく。その踵が土を蹴る音まで、五年前と変わらない。


 カイルは一度立ち止まって、上着の胸を軽く押さえた。


 王都の商人の仮面が、少しだけ剥がれかけているのを感じた。剥がれるというより、別のものが下から浮き上がってくる。この街でカイルが被っていた別の仮面——裏社会で通った名前、通った顔、通った立ち居振る舞い——が、下から輪郭を取り戻そうとしている。


 五年分の自分が、まだこの街の空気の中に溶けている。


「兄さん、安いよ。今朝揚がったやつだから」


 路地の端に座り込んだ老婆が、小ぶりの魚を笊に並べて声を上げていた。カイルには声を掛けていない。別の通行人に向けた声だ。だがカイルの耳には届いた。


 老婆の声を、知っている気がした。


 顔を見た。知らない顔だった。ただ、こういう声が下町のどこにでもある。干からびた声。生きるために張り上げる声。


 ——懐かしいな。


 誰の残滓かは分からなかった。レナードでもマルタでもなかった。もっと名前の薄い誰か——王都のスラム出身の、開拓団の中ほどにいた、短命だった誰か。その人間の感覚が、一瞬だけカイルの耳の奥で目を開けた。


 目を閉じた。


 残滓は引っ込んだ。


 カイルは歩き出した。今夜は、ガルシアに会いに行く。



 ガルシアの根城は、下町とスラムの境界にある。


 境界と言っても、壁や柵があるわけではない。道の石畳が途切れて土になり、土が乾いて砂になる、その辺りから空気の色が変わる。その変わり目に、ガルシアが居を構えた古い木賃宿がある。


 表向きは宿屋だ。部屋は貸す。飯は出す。酒も出す。だが、泊まり客の七割はガルシアの知り合いか、ガルシアに用がある人間か、ガルシアに追われている人間のどれかだ。


 カイルは宿の扉の前で一息ついた。


 藍色の上着の袖口を見た。王都で商人街の帳簿を書いていた袖だ。エレーナの髪に近づいた袖だ。その袖が、下町の砂埃の色に沈みかけている。


 扉を押した。


 中は薄暗かった。昼の光は入らない。窓は小さく、高く、油紙で塞がれている。卓が三つ、椅子がいくつか。奥に階段。階段の脇に厨房。入って左の壁に酒樽が並んでいる。そのどれもが、五年前と変わらない配置だった。


 卓の一つに、四人の男が座って酒を飲んでいた。皆、顔に見覚えがあった。全員がカイルを一瞥し、それぞれの判断で視線を戻した。驚いた顔はしなかった。奥から「来たか」という声が聞こえていたからだ。


 奥の卓に、一人の男が座っていた。


 大柄だった。肩の幅がカイルより一段階広い。腕は短い袖から剥き出しで、筋が明らかに仕事を知っている。髪は短く刈り、頬には以前より薄くなった傷の跡がある。二年前にカイルが縫ってやった傷だった。


 男は杯を置いた。


 それから、一拍、黙った。


 カイルの全身を、頭から足元まで目で辿った。


 特に藍色の上着のところで、目がほんの短く止まった。


 黙った。


 それから、急に破顔した。


「——よう、カイル」


 太い声だった。


 笑い皺が目尻に寄った。その笑いは間違いなく本物だった。再会を喜んでいる。だがその笑いが出てくるまでの、あの短い沈黙の意味を、カイルは聞かずに分かっていた。


「久しぶりだな、ガルシア」


 カイルは卓に向かって歩いた。


 男——ガルシアは、隣の椅子を足で蹴って出した。


「座れ。飲め。話はそれからだ」


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