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第25話:白い花

 商業組合の書架は、組合本部の二階にあった。


 天井の高い細長い部屋に、背の高い書架が壁に沿って並んでいる。窓は北向きで、直射日光が入らない設計だ。書物には悪くない環境だが、照明は蝋燭に頼っている。棚の間は薄暗い。


 カイルは午前の早い時間に書架に入った。ヴィエイラとの取引で扱う南方産香辛料の過去十年分の相場記録を確認するためだ。商人として自然な用事だ。


 棚の間を歩き、南方貿易の区画を探していると、奥の方から声が聞こえた。


「この棚はいつ頃の整理ですか。分類の基準が途中で変わっているようですが」


「は、十年ほど前に一度入れ替えをしておりまして……」


 聞き覚えのある声だった。


 書架の角を曲がると、奥の区画にエレーナがいた。


 書記官らしい若い男と、棚の前で蔵書の背表紙を確認している。その少し後ろに、侍女が一人。


 ——エレーナ。


 カイルの足が止まった。


 エレーナもカイルに気づいた。視線が合う。


 一瞬の間。


「カルヴァーリョ殿。おはようございます」


「殿下。おはようございます。蔵書の視察でいらっしゃいましたか」


「ええ。図書館との重複を確認しているの。組合の書架は初めてなのだけれど、思ったより整理されているわ」


「管理者の方に伝えれば喜ぶと思います」


 社交的なやり取りだ。距離は適切で、声の大きさも棚の間で交わす程度に抑えられている。書記官は少し離れた棚で目録との照合作業を続けている。侍女は数歩後ろに控えている。


 何も特別なことはない。


 組合の書架で図書館管理者と利用者が居合わせた。それだけの話だ。


「カルヴァーリョ殿は、何をお調べに?」


「香辛料の相場記録です。南方産品の取引に必要でして」


「南方産品。あちらの棚に、ダ・コスタの旧版がありましたよ。王宮図書館には新版しかないから、これは収穫だわ」


 エレーナが指した棚の前に、一冊の厚い本が背表紙を見せていた。


 ダ・コスタ著「南方大陸 植生及び地誌概論」。カイルが商業組合の別の書架で読んだのは新版だった。旧版は装丁が異なり、革の表紙がだいぶ傷んでいる。


「旧版には、新版で削除された図版が含まれているの。植物のスケッチが特に。新版では文章だけになってしまった部分が、旧版にはきちんと絵で残っているわ」


 エレーナの声が、少し変わった。公務の声ではなくなっている。本について話す時のエレーナは、いつもそうだ。


 カイルは棚から旧版を取り出した。重い。革の表紙を開くと、古い紙の匂いがした。


「見ても?」


「どうぞ。組合の蔵書ですから、閲覧は自由よ」



 ダ・コスタの旧版は、新版とは別物だった。


 新版では省略された植物の図版が、手描きのスケッチとして丁寧に収録されている。線画だが、葉脈の走り方や花弁の数が正確に描かれていた。五十年前の調査隊に同行した画家の手によるものだろう。


 カイルはページをめくりながら、無意識に棚の前の椅子に腰を下ろしていた。エレーナも近くの椅子に座り、自分の目録照合の手を止めて、カイルが開いたページを覗き込んだ。


 書架の間の、薄暗い一角。蝋燭の光が二人の手元を照らしている。書記官は三つ先の棚で作業を続けている。侍女は通路の端に立っている。


 声は二人にしか届かない。


「この花は——」


 エレーナが指さした。ページの右下に描かれた白い花のスケッチ。花弁は広く、中心から長い雄蕊が伸びている。ダ・コスタの注釈には「アルヴォーレ・ダ・エスペランサ。低木。開けた草原に群生。花期は初夏と推定される。白色」とある。


「新版にはこの花の記述はあるのだけれど、図版が削られているの。文章だけでは花の形が分からなかったから、ずっと気になっていたのよ」


 カイルはスケッチを見つめた。


 知っている。


 この花を知っている。希望の木。ダ・コスタがそう呼んだ花だ。開拓地のまだ瘴気に冒されていなかった頃、草原に群生していた。甘い香り。母が「きれいね」と言って、一輪摘んで髪に挿した。


 記憶が胸の底から浮き上がってくる。レナードの断片ではない。カイル自身の記憶。五歳の子供が見た、白い花の記憶。


「美しい花ですね」


 声が自分のものではないように聞こえた。


「ダ・コスタは白色としか書いていないけれど、実際にはどんな白なのかしら。紙の白とは違うでしょうし」


 エレーナが独り言のように言った。学者の癖だ。疑問を口に出す。


 カイルの口が開いた。


「もっと——」


 止めた。


 言いかけた言葉を、飲み込んだ。


 もっと透き通った白だ。陽の光を通すと、花弁が薄く光る。乾いた季節には銀色にも見える。それを知っているのは、あの大陸にいた人間だけだ。


「もっと?」


 エレーナが顔を上げた。


「もっと繊細な白だろうと、想像します。南方の陽光の下で咲く花ですから、紙の上の白とは違うでしょうね」


 取り繕った。社交辞令に戻した。


 だが、一瞬の間があった。「もっと」と言いかけて止めた、その間が。


 エレーナの目がカイルを見ていた。観察でも、分析でもなかった。ただ、見ていた。何かを待つように。あるいは、何かを聞いたように。


 カイルはその視線の意味が分からなかった。分からないことが、妙に落ち着かなかった。嫌ではない。だが、どこに置いていいか分からない。


 目を逸らすべきだった。


 そう思いながら、逸らせなかった。エレーナの目の奥に、いつもの知的な光とは違う何かが揺れていた。ごく淡い、水面を微風が撫でたような揺らぎ。カイルがそれを読もうとすると、次の瞬間には消えていた。気のせいかもしれなかった。


 気のせいだと思いたかった。気のせいだと思ってしまえば楽だ。


 沈黙が、数秒。


 蝋燭の芯が、小さく爆ぜた。


 エレーナが先に目を逸らした。ページをめくり、別の図版に視線を移した。指先の動きが、いつもより少しだけ遅い気がした。


「この辺りの植物分類は、現在の学院の基準とはだいぶ違うわね。五十年前の分類体系だから、属名が変わっているものも多いでしょうし」


「学術的な整理は、殿下の方がお詳しいかと」


「そうでもないわ。ダ・コスタの時代の分類は独自の体系で、学院の教科書にも載っていないの。実物を見た人間の記録というのは、体系とは別の価値があるわ」


 ——実物を見た人間の記録。


 その言葉が、カイルの胸に刺さった。何気ない学術的な発言だ。だがカイルにとっては、別の重さがある。


 本を閉じた。


「長くお引き留めしてしまいました。殿下のご公務の邪魔になってはいけませんので」


「そんなことはないわ。……あ、その本、棚に戻していただけるかしら。元の場所が上の方で、私では届かなかったの」


 エレーナが上を指さした。旧版のダ・コスタが収まっていた場所は、書架の最上段だった。エレーナの背丈では確かに届かない。


 カイルは本を持って立ち上がった。書架の前に立つと、エレーナとの距離が半歩分になった。


 エレーナはその場を動かなかった。動く必要があったはずだ。本を棚に戻すだけの人間に、そこまで近くにいる理由はなかった。だがエレーナは一歩下がらなかった。


 手を伸ばして、最上段に本を滑り込ませた。


 下ろした腕がエレーナの傍を通る。触れてはいない。だが袖口の藍色が、視界の端でエレーナの髪に近づいて、離れた。その距離で、微かに香りがした。古い書物と紙の匂いに、淡い石鹸の香りが混じっている。エレーナらしい香りだった。


「ありがとう」


 エレーナの声が、少しだけ柔らかかった。いつもの社交の声とは、違う質感で。


 カイルはその声のトーンを聞いた。聞いて、覚えてしまった。忘れ方が分からなかった。


「いえ」


 それだけ答えて、一歩下がった。下がるのにも、一拍の遅れがあった。身体が一瞬、前に留まろうとした。その感覚を、カイルは自分で見なかったことにした。


 エレーナは何事もなかったように目録の紙を手に取り、書記官を呼んだ。


「ペレス。この棚の分類番号を確認してもらえるかしら」


 公務に戻った。声もいつもの声に戻っていた。


 エレーナが書記官と話しながら通路の方へ歩いていく。その後を侍女が追う。


 通路の角で、エレーナが一度だけ足を止めた。


 振り返らなかった。だが止まった。ほんの半呼吸ほどの間、立ち止まって、それから歩き出した。


 何かを言いかけて、やめた人の止まり方だった。


 侍女が、クララという名前だったか、通路の角で一度だけ振り返った。


 カイルを見た。


 その目が何を言っているのか、カイルには分からなかった。値踏みでも警戒でもない。もっと柔らかい、だが正確な目だった。何かを確認するような目。


 クララは何も言わずに角を曲がった。


 カイルは書架の前に一人残された。


 棚の最上段、ダ・コスタの旧版が戻った場所を見上げた。


 エレーナが開いていた白い花のページに、薄い折り目がついていたことを思い出した。読みかけだったのだ。あの花のスケッチを、何度も見ていたのかもしれない。


 ——偶然だ。


 カイルはそう結論づけた。


 結論づけたが、書架を出るまでに、少し時間がかかった。


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