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第24話:侍女の目

 エレーナは、インクの染みに気づかない癖がある。


 書き物に集中すると、ペンを持ち替える際に指先が紙に触れる。そのまま頬杖をつくから、左手の薬指と中指、それから顎の下あたりにインクが移る。本人はまったく気づいていない。


「殿下」


 クララが声をかけた。朝の書斎。エレーナは机に向かって古い記録の写しを読んでいた。


「何」


「お顔に、インクが」


「え?」


 クララは濡らした布を差し出した。エレーナが受け取って顎を拭く。布に藍色のインクが移った。


「……またやっていたのね」


「今朝だけで三度目です」


「数えているの」


「癖をお直しになるまで、数えます」


 エレーナは小さく肩をすくめた。クララは書斎の隅に置かれた朝食の盆を指さした。パンとチーズと果物。手がつけられていない。


「お食事を」


「あとで」


「殿下」


「……分かったわ。食べます」


 エレーナは渋々パンをちぎった。記録の写しに目を落としたまま食べている。クララはそれを見て何も言わなかった。言っても聞かないことを知っている。


 クララはエレーナより一つ年上の十九歳だ。侍女として仕えて六年になる。エレーナが十二歳で図書館管理者を志願した時も、十五歳で首席卒業した時も、傍にいた。


 宮廷でエレーナを「殿下」と呼びながらインクを拭いてやる人間は、クララしかいない。


「クララ」


「はい」


「元老院書庫に入るには、議長の許可が要るのよね」


「そのように伺っております」


「議長以外に許可を出せる人間はいるかしら」


 クララは少し考えた。


「元老院の規則では、議長の他に、三名以上の議員の連名による閲覧申請が認められているはずです。以前、書記官が手続きの手引きを整理した際に見た記憶がございます」


「三名の連名……」


 エレーナはパンを噛みながら、天井を見た。


 三名の議員を味方につける。ドゥアルテに知られずに。容易ではないが、不可能ではない。元老院にはドゥアルテの派閥に属さない議員もいる。問題は、誰に頼めるか。


「殿下。何をお探しなのですか」


 クララの声は柔らかかったが、目は真っ直ぐだった。


 エレーナは少し迷った。クララには調査の詳細を話していない。母の死の疑惑も、開拓事業のことも。巻き込みたくないからだ。


「古い記録を読みたいだけよ。図書館の管轄外に面白そうな文書があるの」


 嘘ではない。だが全部でもない。


 クララは「さようでございますか」と言って、それ以上聞かなかった。


 この侍女は聡い。エレーナが何かを隠していることには、とうに気づいているだろう。だが踏み込まない。踏み込まないことが信頼の形であることを、二人とも分かっている。



 午後、エスターリャの古書商から手紙が届いた。


 メンデスの消息調査の続報だ。


 手紙の内容は二点。


 一点目。メンデスの足取りは、エスターリャの南区で途切れた。五、六年前の目撃情報以降、確認できた痕跡はない。生死も不明。


 二点目。ただし、港湾局の元同僚に聞き取りをしたところ、メンデスが退職する際に「私的な航海日誌」を持ち出したという証言が得られた。港湾局の公的な航海記録とは別に、メンデス個人が書き溜めていた記録らしい。所在は不明。


 エレーナは手紙を読み返した。


 航海日誌。船長が個人的に記録した航海の記録。もしそこに南方大陸への航海の実態が書かれていれば、出航の日付、航路、乗船人数、積荷、帰還の有無。公的記録からは消された情報が残っている可能性がある。


 だが、メンデスは見つからない。日誌も見つからない。


 ——手詰まり、ではないわ。


 エレーナは自分に言い聞かせた。


 メンデスの足取りがエスターリャで途切れた。エスターリャは南方貿易の拠点港だ。メンデスが南方航路の船長だったなら、退職後もエスターリャに留まるのは自然だ。


 そしてカイル・カルヴァーリョの商会も、エスターリャが拠点だ。


 偶然かもしれない。エスターリャは大きな港町で、商人が拠点にするのは珍しくない。


 ——偶然が重なりすぎている。


 南方航路の話題に魔力が反応する商人が、メンデスと同じ港町を拠点にしている。


 エレーナは手紙を暗号棚にしまい、鍵をかけた。



 翌日、エレーナは商業組合への蔵書視察の準備をしていた。


 王宮図書館の管理者として、王都内の主要な蔵書施設の状況を定期的に確認するのは職務の範囲だ。商業組合の書架は規模こそ小さいが、南方貿易に関する実務書や古い商業記録を独自に所蔵しており、図書館との重複調査は以前から予定に入っていた。


 以前から、と言えば嘘にはならない。少なくとも必要性は認識していた。


「殿下、明日のご予定の確認です。午前に組合の視察、午後は議事録の整理、夕刻にお衣裳係の打ち合わせがございます」


 クララが予定表を読み上げた。エレーナは机に向かったまま頷いた。


「視察には書記官のペレスを同行させて。蔵書目録の照合は彼に任せるわ」


「かしこまりました。私もお供いたします」


「いいわ。大した用事ではないから、あなたは休んでいて」


「殿下がそうおっしゃる時は、たいてい大した用事です」


 エレーナはペンを止めた。顔を上げると、クララがにこりともせずにこちらを見ていた。


「……何の話」


「何でもございません。お供いたします」


 クララの声には一分の揺るぎもなかった。エレーナは口を開きかけ、閉じた。この侍女に「来なくていい」と言って聞いたことは一度もない。


「好きにしなさい」


「はい」


 エレーナは机に向き直った。


 視察の目的は蔵書目録の照合だ。王宮図書館が所蔵していない文献が組合にあるなら把握しておきたい。特にダ・コスタの著作の旧版は、王宮図書館には新版しかない。旧版に含まれていて新版で削除された図版があるなら、確認する価値がある。


 ——それだけのことだ。


 エレーナは支度を終えて、ふと鏡の前に立った。髪が少し乱れている。書き物をしている間に、左のこめかみの辺りから後れ毛が落ちていた。


 直した。


 それだけのことだ。


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