泥を噛む自由、画面の外にある現実
第七章:泥を噛む自由、画面の外にある現実
神社の境内に漂っていた重たい静寂を、私はそのまま持ち帰るようにしてワンルームに戻った。 結局、由衣からの合コンの誘いには返信しなかった。暗い部屋で、私はクローゼットの奥に押し込んでいたあの赤いスーツケースを引き出す。十年前の私が「何者か」になるために詰め込んだ希望は、今はもう空っぽだ。けれど、今の私にはその空っぽさが、不思議と軽やかな器のように思えた。
「……少しだけ、休もう」
翌朝、私は出社一番に佐久間部長に三日間の有給休暇を申請した。 「この忙しい時期にか?」と眉をひそめられたが、「先日の体調不良がまだ尾を引いていて、一度しっかり静養したい」と伝えると、彼は意外にもあっさりと許可を出した。 「分かった。幸い、今の案件は佐藤さんが完璧に把握している。君がいなくても現場に混乱はないだろうからな」
その言葉は、数日前までの私なら心にトゲを刺しただろう。けれど今は、「そうですね」と微笑むことができた。私の代わりがいるという事実は、私が今、この場所から自由になれるというチケットでもあったのだ。
最低限の着替えだけを詰め込み、私は逃げるように北行きの新幹線に飛び乗った。 車窓から流れる景色が、コンクリートの塊から徐々にくすんだ緑へと変わっていく。トンネルを抜けるたびに、肺の奥に溜まっていた都会の淀みが、少しずつ薄まっていくのを感じた。
実家の玄関を開けると、使い古された芳香剤の匂いと、夕飯の支度をする微かな音。母は「あら、急にどうしたの」と驚きながらも、私の顔を見てそれ以上は何も聞かなかった。
実家での二日目の午後。 私は、母に借りた古い軽自動車のハンドルを握っていた。 ただ実家でじっとしていると、自分の輪郭がまた霧に溶けてしまいそうだった。私は、スマートフォンのブックマークに保存されたままの「あの場所」を確認する。SNSで何度も見かけたことのある『kaze-no-kaori』というカフェ。
キラキラした画面の向こう側にあった「地方での理想の暮らし」が、実際にどんな空気を吸って、どんな土の上に立っているのか。それを見極めなければ、私はまた、東京という迷路の中で立ち止まってしまう気がした。
市街地から車で三十分ほど山を登った、かつての養蚕集落の一角。 細い山道を抜け、視界が開けた先に、その建物はあった。 細い山道を抜け、視界が開けた先に、その建物はあった。 瓦屋根の重厚な古民家。漆喰の壁は塗り直され、深い群青色の暖簾が揺れている。センスの良い手書きの看板が、そこがカフェであることを慎重に主張していた。 けれど、広々とした砂利敷きの駐車場には、私の軽自動車が一台きり。他に人影はない。
「……こんにちは」
引き戸を引くと、重厚な木のきしむ音が静かな空間に響いた。 外の空気よりも、室内は一段と冷え込んでいる。土間の奥、板張りのフロアには、使い込まれたアンティークの椅子が並んでいた。 奥でパチパチと音がする。大きな薪ストーブの前で、一人の女性が背中を丸めて火の番をしていた。彼女は私が声をかけると、驚いたように肩を揺らし、慌てて立ち上がった。
「いらっしゃいませ。……すみません、今、火を入れたばかりで少し寒いですよね」
彼女は私より五、六歳上だろうか。三枚重ねたセーターの上に、厚手の帆布で作られたエプロンを締めている。 都会的なショートカット。けれど、その指先はひび割れて赤く、爪の間には消えない汚れが染み付いている。SNSで見かけた、あの穏やかな微笑みの裏にある「生活」が、その手から漏れ出していた。
「お好きな席へどうぞ。メニュー、お持ちしますね」
促されるまま、一番奥の窓際の席に座った。 差し出されたメニューは、手漉きの和紙に万年筆で丁寧に書かれたものだった。 『自家焙煎コーヒー:八五〇円』 『地元のリンゴのタルト:六五〇円』 長野の、この僻地の物価を考えれば、驚くほど強気の価格設定だ。都会ならいざ知らず、ここでこの値段を払う地元の人間はまずいないだろう。
「……コーヒーと、タルトをお願いします」 「ありがとうございます。少しお時間いただきますね。豆を挽くので」
彼女がカウンターの奥へ消えると、部屋にはまた、薪の弾ける音だけが残った。 静かだ。静かすぎて、自分の呼吸音さえも他人のもののように聞こえる。 しばらくして、ミルが豆を砕く高い音が響き始めた。その音に導かれるように、私はカウンター越しに彼女へ声をかけた。
「ここ、SNSで拝見しました。すごく素敵ですね。……実家が近所なんですけど、こんなところにお店があるなんて知りませんでした」
彼女は豆をドリッパーに移しながら、ふっと、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「知らなくて当然ですよ。ここはもともと、曾祖父が住んでいた空き家だったんです。三年前に東京から戻ってきて、一人で少しずつ直して始めた店ですから」 「お一人で?」 「ええ。最初は友達も手伝ってくれたんですけど……みんな、一週間もすれば都会に帰っちゃいますからね」
彼女が丁寧にお湯を注ぐと、芳醇な香りが冷たい空気に溶け出した。 運ばれてきたコーヒーを一口啜る。深みのある、妥協のない味だった。 私は、自分が東京で、ある種の同業者であることを明かした。販促の仕事をしていること。そして、彼女の経歴をSNSで知っていたことを。
「……ああ、私のプロフィール、読みました? 広告代理店の話」 彼女は、客が私一人しかいないことを確認すると、向かいの席に腰を下ろした。 「あんなの、半分は自分に言い聞かせるための嘘ですよ」
彼女の名前は奈津美さんといった。 かつては六本木のビルにオフィスを構える大手の広告代理店で、某有名飲料メーカーの大型案件を回していたという。まさに、私がかつて夢見た「東京の勝者」そのもののキャリアだ。
「当時はね、毎日タクシー帰りで、睡眠時間は三時間。でも、六本木から見える夜景が私の価値だと思ってた。私が手掛けた広告が駅中に貼られる快感。それがすべてだったんです」 「どうして……それを手放したんですか?」 「ある朝、駅のホームで自分の作った巨大なポスターを見たとき、吐き気がしたんです。このポスターも、一週間後には剥がされて、ゴミになる。私の人生も、この使い捨ての広告と同じなんじゃないかって」
奈津美さんは、冷えた自分の手をさすった。
「それで、逃げるようにここに来たんです。SNSには『本当の自分を取り戻す場所』なんて書きましたけど、現実は泥臭いですよ。……わかりますか? 移住して最初の冬、水道が凍って一週間お風呂に入れなかった時の惨めさ。地元の会合に行けば、『都会の女が遊びでやってる』って陰口を叩かれる。期待していた都会からの客は、最初の三ヶ月だけ。今は、週に数人しか来ない日もあります」
彼女の告白は、ナイフのように鋭かった。 私が夢見ていた「地方での再出発」という名の聖域を、彼女は容赦なく壊していく。
「一番辛いのはね」 奈津美さんは、窓の外の枯れた山を見つめた。 「……孤独じゃないんです。自分が何者でもなくなったという事実に、耐えられないことなんです。東京にいた時は、会社の名前や役職が私を守ってくれた。でもここでは、私はただの『古民家を借りている不器用な女』。そのギャップが、時々怖くなるんです。今の私は、あんなに嫌っていた東京のネオンが、時々、狂おしいほど恋しくなる」
彼女の目は、少しだけ潤んでいるように見えた。 SNSにアップされていた「丁寧な暮らし」の写真は、彼女にとっての「生存報告」だったのだ。私はここにいて幸せだ、後悔なんてしていない、と自分自身に呪文をかけるための儀式。
「長谷川さんは、地元に帰りたいんですか?」 「……わかりません。でも、今の仕事に、自分の代わりはいくらでもいるんだって突きつけられて」 「代わりはいくらでもいる。……それは、ある意味で幸福なことですよ」 奈津美さんは、真剣な眼差しで私を見た。 「代わりがいるから、休める。代わりがいるから、責任を負いきらなくて済む。ここでは、私が倒れたら店は終わり。明日の支払いも、建物の維持費も、全部私一人の肩に乗っている。この自由は、すごく重たいんです」
コーヒーを飲み終える頃、薪ストーブの火が安定し、ようやく部屋がほんのりと温まってきた。 けれど、私の心はさっきよりもずっと冷えていた。 逃げ場所だと思っていた地元は、実は東京よりもずっと過酷な「個人の戦場」になり得るのだ。
「ごめんなさい、せっかく来てくれたのに、夢のない話ばかりで」 「いえ……。聞けてよかったです。本当に」
店を出るとき、奈津美さんはまたエプロンの紐を締め直し、火の番へと戻っていった。 車を走らせながら、バックミラーに映る古民家が小さくなっていく。 彼女は「失敗した人」なのだろうか。それとも「戦っている人」なのだろうか。 東京に戻る勇気も、ここで骨を埋める覚悟も、どちらも持てずに揺れている彼女の姿は、まさに私の未来の鏡に見えた。
実家に戻ると、母が居間でテレビを見ていた。 「おかえり。どうだった? 素敵なカフェだった?」 母の問いに、私は「……うん、コーヒーが美味しかったよ」とだけ答えた。 そのコーヒーの味に混じっていた、奈津美さんの「後悔の苦み」については、口にすることができなかった。
私は二階の自室に入り、古い学習机に座った。 そこには、十八歳の私が東京に持っていかなかった、何冊かのノートが残っている。 それを開く勇気は、まだなかった。




