都会の余白、静寂の在処
第六章:都会の余白、静寂の在処
月曜日の朝。駅のホームに溢れる人々の群れは、まるで巨大な洗濯機の中で揉まれる衣類のようだった。 私は、土曜日の披露宴でもらった引き出物のカタログギフトを、重い通勤バッグの底に押し込んだまま、千代田線のドアに押し込まれた。 恵梨香の結婚式から二日。八センチのヒールによる筋肉痛はまだふくらはぎに残っていて、一歩踏み出すたびに、あの華やかな表参道の光景が「現実」だったことを思い出させる。けれど、目の前の窓ガラスに映る自分は、週末のドレス姿とは似ても似つかない、くたびれた事務員でしかない。
「……おはようございます」
オフィスに入ると、すでに空調が低い音を立てていた。 デスクに座ると、真っ先に目に入ったのは、先週私が倒れた後に完遂されたスプリング・キャンペーンの結果報告書だった。
PCを開く。メールの受信トレイには「【御礼】キャンペーン大成功」というタイトルの、全社宛てのメールが一番上に鎮座していた。 差出人は、佐久間部長。 『今回の成功は、現場を仕切ってくれた佐藤さんの臨機応変な対応があったからこそ。一人の力ではなく、組織として動くことの大切さを再確認した……』
私はマウスを握る手に少しだけ力を込めた。 資料を作ったのも、業者と交渉したのも、トラブルの種をすべて摘んでおいたのも私だ。けれど、最後に「ボタン」を押した人間だけが、勝利の女神に微笑まれる。佐久間部長にとって、私は「メンテナンス中に止まった機械」に過ぎず、佐藤さんは「それを代わりに動かした優秀な予備パーツ」だった。
「あ、長谷川さん。お疲れ様です! もう体調は大丈夫ですか?」
声をかけてきたのは、その「優秀な予備パーツ」である佐藤さんだった。彼女の顔には一抹の悪気もなく、ただ純粋な気遣いだけが浮かんでいる。それが、今の私には一番きつかった。
「うん、もう大丈夫。佐藤さん、先週はありがとうね。大変だったでしょ」 「いえ! 長谷川さんの引き継ぎが完璧だったので。部長も『佐藤に任せて正解だった』って言ってくださって、自信になりました」
彼女の屈託のない笑顔を見ていると、自分の心がどんどん濁っていくのが分かった。 彼女は悪くない。仕事を完璧にこなしただけだ。私が望んでいたはずの「順調なキャリア」を、彼女は今、私の隣で着実に歩み始めている。
昼休み。給湯室でコーヒーを淹れていると、後輩の由衣がやってきた。 二十三歳の彼女は、流行りの韓国コスメに詳しく、常にアンテナを張り巡らせている「東京の若手」そのものだ。
「長谷川さーん、見ましたよ、インスタ! 恵梨香さんの結婚式ですよね? 凄くないですか、あの会場。表参道のあそこ、予約取れないって有名ですよ」
由衣が興奮気味に、自分のスマートフォンの画面を私に向けてきた。そこには、私がタグ付けされた恵梨香の投稿があった。 「……ああ、そうだね。凄く綺麗だったよ」 「いいなあ、羨ましい! 長谷川さんの周りって、ハイスぺな人ばっかりですよね。やっぱり東京にいると、出会いのレベルも違います?」 「どうだろう……」 「私、最近マッチングアプリで失敗続きで。やっぱりああいう華やかな場所に顔を出さないとダメですよね。長谷川さんも、あの披露宴で良い出会いとかあったんじゃないですか?」
由衣の言葉は、まるで「東京にいる二十七歳なら、当然次の幸福を狙っているはずだ」という前提に基づいていた。 彼女にとって、東京はまだ、攻略すべき巨大なクエストの連続なのだ。 私は、自分が昨日の帰り道に歩道橋でヒールを脱いで泣きそうになっていたことや、三万円のご祝儀を「地元の蕎麦屋」と比較していたことなんて、おくびにも出せない。
「……別に、普通だよ。みんな自分の生活で精一杯だし」 「えー、またまた! 謙遜しちゃって。でも、長谷川さんならすぐですよ。仕事もできるし、東京の生活も長いですもんね」
「すぐですよ」って、何が? 「東京の生活が長い」って、それが何の免状になるの?
由衣の無邪気な期待に、私は適当に相槌を打ちながら、逃げるように給湯室を出た。 午後からの仕事も、淡々とこなした。 会議に出る。議事録を取る。数字を合わせる。 けれど、頭のどこかで「これ、私がやる必要ある?」という問いが、延々とリフレポーズのように繰り返されている。 午後七時。 本来なら、同僚と少しお洒落な居酒屋にでも寄って、仕事の愚痴をこぼすのが「東京のOL」の正しい週明けの過ごし方なのかもしれない。 けれど今の私は、誰の声も聞きたくなかった。 誰かの成功体験も、誰かの恋愛事情も、誰かの流行の共有も。
私は千代田線に乗り、自宅の最寄り駅を二つ通り越した。 向かったのは、以前から気になっていた、少し寂れた公園のある駅だった。 話題のスポットでもなければ、インスタ映えする店もない。ただ、古い住宅街が広がるだけの場所。
駅を降りると、そこには渋谷や新宿とは全く違う空気が流れていた。 人混みはなく、道行く人々の歩幅もゆったりとしている。 私は暗くなりかけた住宅街を歩き、小さな神社の境内へ足を踏み入れた。 そこには、完璧に手入れされた表参道のゲストハウスのような華やかさはない。けれど、湿った土の匂いと、古い木の香りが、私のこわばった肺をようやく緩めてくれた。
石段に腰を下ろす。 ヒールを脱ぐ勇気はまだないけれど、少しだけ足を投げ出してみる。 遠くで電車の音が聞こえ、カラスが鳴いている。 東京にいても、こんなに静かな場所がある。 私が今まで追い求めてきた「キラキラ」は、この街のほんの一表面でしかなかったのだ。 そして、その表面を必死に磨き続けなければ、この街にいる資格がないと思い込んでいた自分に気づく。
――もし、私が明日からヒールを履くのをやめたら。 ――もし、私が「誰の代わりでもいい仕事」を、心から受け入れることができたら。
けれど、それは今の私の「敗北」を認めることのような気がして、まだ怖かった。 安定した給与。東京という看板。友人たちとの体面。 それらをすべて捨てた後に残る「何者でもない自分」と向き合う準備が、まだできていない。
スマートフォンの画面が光る。 また、由衣からのLINEだった。 『長谷川さん、来週末の合コン、欠員が出たんですけど来ませんか? 広告代理店の人たちだそうです!』
私は、その通知をスワイプして消した。 今はただ、この神社の境内にある、重たい静寂の中に沈んでいたい。 誰の代わりでもない、ただの二十七歳の女として。 「……帰ろうかな」
二度目の独り言は、前よりも少しだけ実感を伴って、夜の空気に溶けていった。 地元のニュースを見る頻度が、また増えそうな気がした。 成功した人、失敗した人。 私はそのどちらにも属さず、ただこの「凪の交差点」で、信号が変わるのを待ち続けている。




