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ヒールを脱いだら、東京はただの空になった  作者: 久遠 睦


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幸福のパッケージ、披露宴の帰り道

第五章:幸福のパッケージ、披露宴の帰り道


 六月。不快な湿気を孕んだ風が、表参道のケヤキ並木を揺らしている。  私は、履き慣れない八センチのヒールで、アスファルトの凹凸を慎重に踏みしめていた。手元には、パールのビーズが刺繍された小さなクラッチバッグ。中には、袱紗に包んだ三万円の祝儀袋と、予備のストッキング、そして塗り直す暇のないリップスティックが入っている。


 今日は、大学時代のサークル仲間だった恵梨香えりかの結婚式だ。  恵梨香は、私と同じように地方から上京し、今は誰もが知る大手ネット広告企業で働いている。彼女が選んだ結婚相手は、外資系コンサルに勤める同い年の男性だという。まさに、この街が推奨する「正解のゴール」を絵に描いたようなカップルだった。


 会場は、明治神宮にほど近い高級ゲストハウス。  エントランスを抜けると、そこには洗練された香水の香りと、シャンパングラスの触れ合う繊細な音が満ちていた。 「真帆! 久しぶり!」  声をかけてきたのは、同じテーブルの友人たちだった。皆、美容室で完璧にセットされた髪と、トレンドを押さえたドレスに身を包んでいる。かつては、この華やかな輪の中にいることが、自分のステータスを確認する作業のように感じられた。けれど今の私は、鏡に映る自分のドレス姿が、どこか借り物の衣装のように思えてならなかった。


 披露宴が始まると、会場の照明が落とされ、感動的なムービーが流れる。  幼少期の写真、上京したての初々しい姿、そして二人が出会い、東京の夜景をバックにプロポーズされる瞬間。  「幸せです」という字幕とともに、恵梨香が涙を拭う。  周囲の友人たちも「よかったね」「綺麗だね」と口々に言い、ハンカチを跳ねさせている。


 その光景を眺めながら、私は心の中で冷徹な計算をしていた。  ご祝儀に三万円。美容院代に六千円。パーティードレスのクリーニング代に三千円。新しく買い替えたストッキングに五百円。  この「幸せの祝福」を維持するために、私の月給の何分の一かが、一瞬で消えていく。


(……この三万円があれば、地元のあの美味しい蕎麦屋に、何回行けるだろう)


 不意にそんな思考が頭をよぎり、自分自身の世俗さに嫌気が差した。  お色直しをした恵梨香が、テーブルを回ってくる。彼女の左手薬指には、窓から差し込む光を反射して、眩いばかりのダイヤモンドが輝いていた。 「真帆も、いい人いないの? アプリとかやってるんでしょ?」  シャンパンで少し頬を赤くした恵梨香が、悪気のない笑みを向ける。 「うーん、なかなかね。今は仕事が忙しくて」  いつもの「便利な逃げ言葉」を口にする。 「でもさ、二十七歳って結構ボーダーだよ。東京でいい男捕まえるなら、今が一番の売り時なんだから。私の旦那の後輩、紹介しようか?」


 「売り時」。その言葉が、耳の奥で嫌な音を立てて響いた。  私たちは、この街で査定されている。  年齢、職種、容姿、そして「誰に選ばれたか」というラベル。  もし私が今、すべてを投げ出して地元に帰ると言ったら、彼女たちはどんな顔をするだろう。きっと、同情と、あるいは「競争から脱落した者」への安堵が混じったような、複雑な微笑みを浮かべるに違いない。


 披露宴が終わり、引き出物の大きな紙袋を提げて会場を出る。  夕暮れの表参道は、まだ多くの人々で賑わっていた。  二次会へ向かう友人たちの輪から「少し体調が悪くて」と嘘をついて離れ、私は一人、駅へ向かう道を選んだ。


 足が痛い。  ヒールの中で指が悲鳴を上げている。  歩道橋の上で立ち止まり、下を流れる車のライトを見つめた。  赤いテールランプが、血管の中を流れる血球のように、途切れることなく続いていく。  この中のどれだけの人が、心から「今、私はここにいたい」と思ってハンドルを握っているのだろう。


 恵梨香が手に入れたのは、確かに美しい幸せのパッケージだった。  東京という街で、誰かに認められ、居場所を確保するための、一つの完璧な回答。  でも、もし私がそのパッケージを手に入れたとしても、私の心の奥にある「ここではないどこか」への渇望は、消えるのだろうか。


 誰か良い人と出会って、結婚して、子供を産んで。  それが、私の人生を「正解」にする唯一の手段なのだろうか。  もしそうなら、私は何のためにあの長野の山を越えて、十年間もここで戦ってきたのだろう。


 ふと、バッグの中のスマートフォンが震えた。  通知画面には、また地元のニュース。 『〇〇市で、女性たちが主役のマルシェが開催されました』  写真には、飾らない笑顔で野菜を売る女性たちの姿があった。  彼女たちの靴は、きっとヒールなんかじゃない。土をしっかりと踏みしめるための、実用的なスニーカーや長靴だろう。  彼女たちの三万円は、誰かの見栄を支えるための祝儀ではなく、新しい苗を買ったり、家族と食卓を囲んだりするための、血の通ったお金なのだろう。


「……痛いな」


 私は歩道橋の隅で、そっとヒールを脱いだ。  ストッキング越しに伝わるコンクリートの冷たさが、皮肉にも今の私を一番冷静にさせてくれた。  誰かの決めた幸福のテンプレートに、自分を無理やり押し込めるのは、もう限界だった。  恵梨香の結婚式は素晴らしかった。でも、それは私の物語ではない。


 私は再び靴を履き、千代田線の入り口を目指した。  階段を降りるたび、都会の喧騒が遠ざかっていく。  自宅に帰れば、またあの狭いワンルームと、冷えたコンビニの総菜が待っている。  けれど、私の胸の中には、これまでとは違う小さな火が灯っていた。


 「安定」という名の檻の鍵は、実は最初から、私の手の中にあったのかもしれない。  それを回す勇気があるか、それともこのまま錆びついていくのを待つのか。


 地下鉄の窓に映る私の顔は、披露宴の席にいた時よりも、少しだけマシな表情をしているように見えた。


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