深夜水溶液10
「世田谷一家毒殺事件って覚えてる? 三年前くらいの事件なんだけど……」
「世田谷一家毒殺? ……ああ、あったなそんな事件。確か母親が家族に毒飲ませたやつやろ?」
「そうそう……。でね、私の書いた『みっつめの狂気』はその犯人の女性の独白を元にした小説なんだ」
それを聞いて私は「ああ、やっぱりな」と思った。あの作品はそういう類いの作品なのだ。単なる空想ではあの空気感は生み出せないと思う。
「……ってことは栞、その犯人とおうたん?」
「うん。会ったよ。刑も確定してたからすんなり取材させて貰えたんだ」
刑の確定。私の記憶が正しければ量刑は極刑だったはずだ。
「そうか……。そら大変やったな」
「私は……。大したことしてないよ。ただ、彼女が話してくれたことを筋道立てて書いただけだからね」
栞はそう言うと首を横に振った。
「だから本当はあの作品ノンフィクションなんだよ。彼女の希望でフィクションってことになってるけどね……」
虚構の皮を被った真実。だからあの小説はあんなにも生々しかったのだ。言うなれば文学作品として必要な『リアルな穢れ』が完璧に表現されていたのだと思う。
「しっかし、なんで死刑囚に取材なんかしたん?」
「うーん……。それはたまたまなんだよね。あの事件の関係者が私の知り合いでさ。それで彼女が自分の話を小説のネタにして欲しいって」
「なんやそれ? おかしな話やな」
妙な話だ。死が確定した人間がなぜ自身の話をして小説にしてもらう必要があるのだろう?
「彼女にも思うところはあったみたいだよ。死ぬ前に自分の生きた証を残したかったんだってさ」
「そういうもんかなぁ?」
死刑囚の気持ちなんて一生分からないだろう。そして分かりたくなんてない。東京拘置所の冷たい鉄格子の中に閉じ込めれて死を待つのなんて御免だ。
「それでね……。彼女と会ってみて思ったんだけどさ」
「ん? その人と?」
「うん……。なんて言うのかな。彼女すごく普通の人だったんだ。もっと言えばいい人そうだった。上品で物腰柔らかかでさ。正直、人を殺した人には見えなかったんだよね」
栞はそう言うとため息交じりに天井を見上げた。
「そんなもんやと思うで? 別に顔に『私は人を殺しました』って書いてあるわけやないんやから」
「それは……。そうなんだけどさ。あまりにも穏やかな人だったからさ。なんか可哀想で……」
栞のその言葉には「あの人を死刑にするなんて」というニュアンスが含まれているように聞こえた。おそらく栞としては彼女に社会復帰して罪を償ってほしいのだろう。
「可哀想か。まぁ気持ちはわからんでもないけど……。でもしゃーないんちゃう? さすがに一家皆殺しはあかんて」
一人殺したって大事なのだ。それを複数人、しかも家族皆殺しはさすがに許されないだろう。検察だって裁判所だって世間だって許しはしないはずだ。殺人はそれだけ罪が重いのだ。仮に社会復帰できたとしたって一生それはついて回ると思う。
「うん。頭では分かってるんだけどさ。……。でもやるせないんだよね」
栞はそう言うと寂しそうな笑みを浮かべた――。




