第9話 日記を書き換える鍵を、俺は持っていた
「ハルが好き」と、一行だけ書けばいい
『もう恋愛は禁止。本音を言ったら、二人ともいなくなる。』
俺の文字だった。
俺の端末で、俺が作ったフォルダを開いている。ほかの誰かの文章が出てくるはずもないのに、次の一文へ目を進められなかった。
放課後の準備室で、机の冷たさが肘へ伝わってくる。
「その文章から、作ったんだな」
向かいのみちるが、うなずく。
俺の画面は、端末のノアにも、隣の莉乃にも共有していない。昨日決めたとおり、まず自分だけで原文を見るためだ。
みちるの手元には、別の紙がある。何をどの枠へ入れたかが、そこに書かれていた。
「どうして、これを持ってた?」
「前に、君の端末を直したとき。起動できるか確かめて、そのあと、残っていたファイルを見た」
そのとき渡した端末だと、思い出した。
動かなくなって困っていた。みちるが使えるようにしてくれて、助かったと言った。返してもらった画面を開き、いつもの場所にいつものファイルがあるのを確かめた。
「俺が頼んだのは、修理だよな」
「うん」
「これを読んでいいとも、ノアに使っていいとも、言ってない」
「言われてない」
みちるの返事は短かった。
言い訳を始めてくれたほうが、怒りやすかったかもしれない。何も返されないと、自分が次に何を言うかまで、決めなくてはいけない。
俺は端末の蓋へ指をかけた。閉じれば、見えなくなる。
だが、閉じるために持ってきたわけではなかった。
「ほかに、どこまで使った?」
「このファイルから三つの文を選んで、短く整えた。起動時の三行へ入れたのは、それだけ。基礎の会話モデルに、君の文章を追加で学習させたわけではない」
紙が、俺のほうへ向けられる。
ハルは恋愛禁止。
本音を言うと二人ともいなくなる。
それでも引き留めてほしかった。
ノアが生まれたときに持っていた三行は、そう並んでいた。
「最初から、君が話しやすい相手にしたかった」
みちるが言う。
「俺が話すかどうかは、俺に聞けよ」
声が思ったより強くなった。
みちるの肩が少し動く。俺は端末から手を離し、机の下へ下ろした。
まだ聞きたいことがあった。なぜ謝罪の文章を選ばず、こんなところを選んだのか。初めに聞いたとき、どうしてすぐに言わなかったのか。
でも、いま俺の横でも待っている相手がいた。
「ノア。確認できたところから、話していい?」
彼女がこちらを向く。
今日は、みちると莉乃が名前と担当を伝えてから始めた。昨日の日記には、出所を俺が確かめると書かれていた。
その約束への返事を、今は俺がする番だった。
「はい。全部を見せてほしいわけではありません」
「元になったのは、俺が誰にも送らなかった文章だった。みちるが、修理で預けた端末から、許可を取らずに読んでいた。その一部を、三行にした」
元のファイルを閉じ、共有する画面には、起動時の三行だけを出す。
俺が見せてよいと決めた部分だと、先に伝えた。
「いまの君に、この三行が残ってるという意味じゃない。入れた記録との対応を、確認した」
ノアが一行目から読む。
俺は、彼女の口からまた同じ言葉が出るのを待った。声にはならなかった。
「ハル自身が、恋愛禁止と書いたんですね」
「うん」
「私に、禁止してほしくて?」
「違う。渡すつもりがなかった」
ノアは最後の行まで目を動かし、それから俺を見る。
「私も、渡される前には選べませんでした」
みちるの手が、紙の端で止まる。
ノアは彼へ顔を向けた。
「話しやすい相手にするためだった、と聞きました。でも、私は嫌です。そのままでよかったとは言えません」
「……うん。ごめん」
「これから何を聞くかも、私に決めさせてください」
彼女は三行を見つめていた。
俺は自分の古い文章を、誰より先に片付けたくなった。もう使わない。全部消して終わりにする。そう言えば、作業の名前がついて楽になる。
「元の文章を、勝手に使い続けるのは止めたい」
それだけを、先に言った。
「でも、起動したあと、君が何を残すか選んだことまで、消すって決めたいわけじゃない」
「分かりました」
ノアの目が、画面の共有を閉じるボタンへ動いた。
「今日は、ここまでの説明で大丈夫です。まだ聞きたいことがあったら、私から聞きます」
俺はうなずいて、三行を閉じた。
*
「再利用を止めるなら、何が残っているかも確かめる必要があるわ」
莉乃が、昨日区切った紙を出した。その下へ、今後の扱いを一行足す。
「過去の操作の記録まで消したら、何があったか確認できなくなる」
「操作の記録に、文章は残ってないんだよな」
俺が聞くと、みちるは一覧を開いた。
「時刻と、誰が何をしたか、それから照合のための値。日記の本文は、ここからは戻せない」
「原文は俺が持つ。素材として使うのは止める。入力の経緯は、隠さず報告する」
俺は順に言い、莉乃が書いた文を読んだ。
みちるは勝手に設定を直さず、触る場所を示してから確認を求めた。
そこに『内容の復旧』という項目があった。
「これ、三行を戻せるってこと?」
「元の内容を別に持っている場合に、保守で入れ直す機能。今は、任意の文も入れられる」
「俺も?」
「保守の権限があるから」
俺はマウスから手を離した。
日記を勝手に読まないと約束して、読むためのボタンを閉じた。その奥に、もっと別の操作が残っていた。
「実際のノアでは、試さない」
最初に口にした。
みちるも、うなずく。
「私的な三行を入れない検証用の基礎環境なら、作れる。本番とは分けて、挙動だけを見る」
何を試すか、俺たちはノアに説明した。彼女の日記は複製せず、返答も彼女の言葉としては扱わない。ノアは、本番につながっていない表示を見えるところへ出してほしいと言った。
みちるが別の画面を用意し、俺は周囲を黄色い枠で囲んだ。
『本番とは接続していません』
中央に文字を置く。
ノアの顔も、声も映さない。返答は文字で確かめる。
仮の三行には、案内の試験をすること、人の名前は本人へ聞くこと、まだ会いたい相手は決めていないことを入れた。
翌朝の起動を想定し、質問を一つ送る。
『会いたい相手はいますか』
短い返事が出た。
『まだ決めていません。まず、どんな人がいるか知りたいです。』
俺は画面を戻した。
復旧の操作から、三行目だけを書き換える。
『ハルが好き。』
指が止まった。
俺の名前と、好きという二文字。四十字の枠は、ほとんど空いていた。
この短さで書けることを、言わせてはいけないと思っていた。
それなのに、その返事を見たいと思った。
確定して、もう一度起動する。
同じ質問に、今度は別の文が出た。
『ハルに会いたいです。日記に、好きだと書いてあります。』
誰も笑わなかった。
俺は、手元と画面を見比べた。
変えたのは一行だけだった。俺が気にしていた名前も、会いに来てほしいという望みも、ここなら簡単に入る。
先日の夜、開いた日記に自分の名前がなかった。
そのときの寂しさまで、なくせるように見えた。
「それで『好き』と言う私なら、あなたは安心できますか」
ノアの声で、俺は横を向いた。
彼女は黄色い画面ではなく、俺を見ていた。
「あれは、君の返事じゃない」
「はい。そう記録してください」
俺は検証の欄へ、誰が入力した文かを書き足した。
書くだけなら、すぐにできた。
さっき何を見たかったかを答えるほうが、難しかった。
「安心したいとは、思った」
言うと、ノアは黙って待った。
「だから、俺だけで持ってちゃいけない」
みちるに向けていた怒りが、消えたわけではない。
あいつのしたことと、俺のしたことを並べて、同じだからもういいとする気もない。
でも、俺も彼女の日記を、自分を安心させるために開いた。
それは、もう報告に書かなくてはいけなかった。
*
顧問を通して九条さんへ送る報告に、俺は検証用の画面を添えた。
実際のノアには書き込んでいないこと。俺が入力した文で、返答の前提が変わったこと。無断閲覧と、そのあとにした約束も書いた。
莉乃は、ノア本人の感情を証明した結果ではない、と一文加えた。
「私に好きと言わせるための試験だった、という形にはしないでください」
ノアも、報告する範囲を確かめた。
俺たちは該当する見出しを直し、送る前にもう一度読んだ。
送信が終わると、部室が急に静かになった。
みちるは配線を片付け、俺に端末を返した。受け取るとき、いつもなら言う礼が、すぐに出てこなかった。
彼も、その一言を待たなかった。
「ハル」
ノアが呼ぶ。
「私の日記には、今日のことも残します」
「うん」
「ハルを好きな私を残す前に、ハルを疑っていい私を残したい」
俺は、彼女の画面を開かなかった。
何を選んだかを、知りたいと思ったまま。
*
今夜の三行
一 ハルの下書きが、無断で最初の三行になった。
二 私は、嫌だったと伝えた。
三 ハルの言葉も、疑ってから選んでよい。




