第8話 恋愛嫌いの彼女が、AIの味方をした
最初の三行は、彼女が書いたものではなかった
『初回投入 実行者 佐伯みちる』
表示された名前を、俺はもう一度読んだ。
間違えて知っている名前に見えたわけではなかった。机の向こうにいる本人が、小さくうなずく。
「ぼくが、入れた」
みちるの指には、短いケーブルが絡んでいた。
いつもなら端からきれいにまとめる。その指が途中で止まり、輪が一つだけ、机の縁から落ちている。
*
調査の前には、案内の画面を直していた。
文化祭まで十二日。昨日、俺とノアが間違えた三つの分岐を直し、赤い印を一つずつ消していた。
「今日は、迷う前に座っていてください」
ノアが言う。
「昨日の失敗で、今日の行動まで縛られるのか」
「試作の確認です。日記によると、二人で三回も間違えたので」
俺は画面を指して、正しい曲がり角を見せた。
今日も名乗ってから始めた会話だった。それでも、自分たちが間違えた道を一緒に直すところまでは、すぐに行けた。
机には、案内の原稿と、別の紙が並んでいる。昨日みちるが送ってきた、調査の予定だった。
戸口で顧問が声をかけ、九条を連れてきた。
地味なスーツに、古い小型端末。先日の公開テストで、最初の言葉の出所を確認したいと言った人だ。
ノアへは、俺からそう紹介した。
「ヴェルテ・ラボの九条玲司です。今日は、起動のときの入力を確かめます」
「ノアです。私は、今ある三行しか持っていません。最初のものは、覚えていません」
「はい。操作の記録は、日記の中身とは別に残ります」
九条は机へ端末を置き、内容を映す先を確認した。
莉乃も自分の名前と文書担当という役目を伝え、ノートを開く。
みちるは「技術担当の、佐伯みちるです」と言った。
ノアはそれぞれに顔を向けた。みちるの名乗りに、俺だけがいつもと違う間を聞いた。
「先に、ここまでは見せていい?」
みちるが、操作の一覧を俺たちへ向けた。
俺はうなずいた。
起動した日時と、三つの枠へ入力した操作。その後ろに、彼の名前があった。
*
「初期設定って、そういうものじゃないのか」
言いかけて、俺はやめた。
日付も、入力した枠の数も、もう確かめている。知らない設定を調べてもらうために、みちるを呼ぶ段階ではなかった。
「ノアが、起きたときに持ってた三行。あれを入れたのは、お前なんだな」
「うん」
「何のために?」
「最初から、君と話せるようにしたかった」
丸眼鏡が、少し下がっている。
みちるは直さなかった。
「俺のことを教えるため?」
「それも、ある」
俺の肘を心配したノアの声を思い出した。
あれも、何かを渡されて言ったのだろうか。
そう考えてから、肘をぶつけたのは起動したあとだったと思い直す。
目の前の一覧には、あの会話までは書いていない。
「その三行を、どこから持ってきた?」
みちるが答える前に、九条が別の表示を閉じた。
内容のない、白い画面になった。
「ここから先は、一ノ瀬くんに先に確認してもらう必要があります」
「俺に?」
「入力の元になったものに、君の私的な文章が含まれると聞いています。本人が知らないまま、この場へ開くことはしません」
みちるを見る。
否定を待っていたのかもしれない。
彼は俺から目をそらさず、「確認してほしい」と言った。
「俺、何を使っていいって言った?」
机の縁から落ちていたケーブルを、みちるが外した。
指から外れたのに、まだ同じ形で手を握っていた。
「ノアに入れていいか、君に確かめていなかった」
「じゃあ、俺が頼んだことと、お前が決めたことを、分けて話してくれ」
「うん。元のデータと一緒に、説明する」
うまく言えないなら、あとにしてもいい。
いつもなら、そう続けたかもしれない。
けれど、ノアの画面に『IMPORT』と出ていた夜から、俺は待っている。
あの文章を知っていた友人と、こうして顔を合わせるまで、何度も別の話をした。
「確認する日を、ここで決めたい」
みちるはうなずいた。
九条が予定の紙へ、空いている時間を書き込む。
「元の端末は、今ここにはないんですね」
「ハルの手元にあります。ぼくは、対応する入力の記録を用意します」
「じゃあ、明日の放課後。俺が持ってくる」
言い切ると、ノアがこちらを向いた。
「私は、そのとき、どこまで見られますか」
答えようとして、俺は止まった。
原文を自分でも開いていない。誰の名前が、どんな形で残っているかも、思い出さないようにしていた。
「俺が先に見てから、話す。見せられないところもあるかもしれない」
「何を隠したかも、私には分からないんですね」
ノアの声は大きくなかった。
『ハルは、昨日の私を試さなかった。』と、彼女の日記にはある。
今日は、その文を受け取った彼女に疑われている。
「そのあと、何を残したかは、ノアが決めたことだろ。最初に入っていたからって、いまの言葉まで全部」
「全部、偽物だと言いたいのではありません」
ノアが俺の言葉を止めた。
「私が選んだところと、誰かが渡したところを、同じにしないでください」
俺は、キーボードから手を離した。
「自分で選んだ言葉だから大丈夫、と言われても、何を選ぶ前に渡されたか、私は知らないんです」
莉乃が、紙へ引きかけた線を止める。
ノアは俺ではなく、白いままの画面を見た。
「知らないまま好きでいれば、みんな楽なんですか」
俺には、すぐに返せる言葉がなかった。
知ったことで変わるのが、怖くないわけではない。
でも、その怖さを理由に待たされているのは、今はノアだった。
「楽かどうかを、あなた抜きで決めさせないために確認するの」
莉乃が言った。
線の途中で止まった鉛筆を置き、紙を三つに分ける。
「元の文章。入力された部分。これからノアに説明すること。一緒にしないほうがいい」
「見せないところも、ちゃんと言うってことか」
「少なくとも、『全部分かった』という説明にはしない。本人が出したくない文章を、ノアのためと言って開かせるのも違うでしょう」
ノアは少し黙ってから、紙の真ん中を指した。
「まず、私へ入れられたものの出所を知りたいです。ハルの私的な文章を全部読むことを、お願いしているわけではありません」
「それなら、俺が確認する。確かめられたことと、俺の考えを分けて話す」
「分からなかったところも?」
「分からなかったって言う」
ノアが一度だけ、うなずいた。
莉乃は区切った紙へ、明日の日付を書いた。
*
予定が決まると、机を少し広く使えるようになった。
俺は案内図を脇へ寄せ、確認に使うパソコンの場所を空ける。みちるがいつものように配線をまとめようとして、今度は先に聞いた。
「ここ、触っていい?」
「配線は、頼む」
みちるは短く返事をして、ケーブルをほどいた。
同じことを何度も頼んだ手だった。机から落ちないように引っ掛ける場所まで、俺よりよく知っている。
その手が入れた三行のことを、俺は知らなかった。
明日は俺だけが原文を先に開き、共有する部分を選ぶ。さっき決めた方法で準備するよう頼むと、みちるは返事をして、空いていた机へもう一本ケーブルを置いた。
九条が明日の確認方法を顧問へ伝える間、莉乃はノアへ、元の文章を公開する話ではないと念を押した。
「確認して、もし活動をやめることになったら、そのあとも説明を聞けますか」
ノアが聞く。
俺は振り返った。やめる、という言葉だけが耳に残る。
「まだ、そう決まったわけじゃ」
「分かっています。もし、の話です」
莉乃が口を開きかけた。
代わりに紙を引き寄せ、余白へ何かを書いた。
「やめる手順だけ説明して、それで終わりにしないでほしい」
九条へ向けた声だった。
「使うのをやめた人が、そのあと誰に話せばいいのか分からないこともあるでしょう」
莉乃の鉛筆が、余白の一点を押さえる。
九条はすぐには答えなかったが、顧問へ向けていた資料を戻した。
「その点も、確認しておきます」
莉乃はうなずいた。
いつもなら、何を、いつまでに、と続けそうなのに、その一言のあと、口を閉じた。
俺はノアへ向き直った。
「明日、調べたくないことがあったら、途中でも言ってくれ」
「はい。でも、今は知りたいです」
机の上の案内図が、扇風機の風で少し浮いた。
角を押さえた俺に、ノアが言う。
「そちらは、消さなくていいんですよね」
「案内? これは明日も使う」
「では、そちらは続きからできますね」
俺はうなずいた。
今日、ここへ来る前に、ノアへ見せるつもりだった改良版。その続きをする机に、別の準備が並んでいる。
明日も同じ声で呼ばれるのか、先に確かめたくなった。
聞く代わりに、案内図の端へ重しを置いた。
「確認用に、元のファイルの場所だけ伝えておく」
みちるが言った。
一覧の最後に、入力元の保管場所が一つ表示される。中身は開かれず、フォルダの名前だけが見えた。
『送らなかったもの』
何年か前、指先だけで打ち、誰にも見せないつもりで付けた名前だった。
送り先を選ぶ画面を、閉じたことがある。
そのあと、もう一度開いたこともある。
俺の横で、ノアが黙ってその文字を読んでいた。
先に目をそらしたのは、俺だった。
*
今夜の三行
一 最初の三行は、みちるさんが入れた。
二 出所は、ハルが確認してから教えてもらう。
三 私が知りたいと決めたことを、忘れない。




