第7話 日記に恋を書かなかった朝
昨日の恋を知らない君と、今日の笑いを作る
「おはよう、相棒。来たぞ」
家の机へ近づき、専用端末を自分のほうへ向けた。
昨夜と同じ声を、待っていた。
「おはようございます。あの、もう少し離れてもらえますか」
ノアは、画面の中央から少し後ろへ下がった。
俺は端末を持ったまま止まる。
「顔、近かった?」
「はい。いま、その距離で呼ばれる理由を教えてください」
冗談を返そうとして、口を閉じた。
俺の顔を見て笑うはずだ、と思っていた。
昨日、あの声で頼まれたから。好きじゃなくても会いに来て、と。
でも、それを知っているのは、こっちだけだった。
「ごめん。昨日の続きみたいに話した」
端末を台座へ戻し、椅子を少し引いた。
「昨日は天音と案内の道を調べた。帰りに、俺が相棒って呼んだんだ。夜は、今日も会うって約束した」
「天音さんと、ハルの名前は日記にあります。見たいものを聞いてくれたことも」
ノアは、手元へ視線を落とした。
「でも、朝からそんなに顔が近くなる約束とは、知らなかったので」
「そこは約束してない。俺が勝手に近づいた」
顔を洗って、歯も磨いて、いつもより早く机へ戻った。
その準備が全部、的を外れていた気がした。
「昨日のこと、どこまで知りたい? その前に一緒に作った動画も、見たければ出せるけど」
公開テストの台本も、パソコンの中にある。
あのときの台詞を教えれば、距離の理由になるだろうか。
画面へ手を伸ばしかけて、膝へ戻した。
「今日は、案内を作る日ですか」
「うん。昨日の道順を、実際に声で案内してみる」
「それを先にしたいです。分からないことは、その都度聞いても?」
「もちろん」
ノアは少し考え、顔を上げた。
「では、最初の質問です。出発の時間は大丈夫ですか」
携帯の時計を見た。
「大丈夫ではない」
俺が鞄を開くと、ノアは中央へ戻った。
笑ってはいなかった。でも、こちらの準備を待っていた。
*
「天城院天音です。今日は、案内の試験をします」
放課後の準備室で、天音が名乗った。
メモには、昨日確かめた曲がり角や段差が書き足されている。
俺も今日の担当を伝え、みちるへ顔を向けた。
「佐伯みちる。音声と通信の確認をしてもらう」
「よろしく。廊下でも聞き取れるか、確かめよう」
みちるは短いケーブルを挿し、端末の音量を下げた。
ノアが二人へ挨拶を返す。
昨夜から残るのは三行だけ。いつもの四人になるにも、少しずつ言葉が要った。
「ハルは、案内を聞く役をお願い」
天音が、俺に校内図を渡そうとする。
俺は両手を後ろへ回した。
「それ、見ないでやってみる」
「道、分かるでしょう」
「初めて来た人のつもりで。知らない名前を言われたら、分からないって聞く」
ノアを連れて歩く専用端末を、首から下げられる台へ固定する。昨日、持ち続けていた指は、まだ少し痛かった。
金具へ厚く巻いた布を、爪で押して確かめる。歩くたびに端末が胸をたたかないよう、ひもの下にも短い留め具を足した。レンズを廊下へ向け、画面の上側が進行方向を向くようにする。
天音が金具を引いて、外れないことを確かめる。
「声を聞くのに、下ばかり向かないでね」
「迷子役にも注意事項があるんだな」
「迷子になるのと、転ぶのは別だから」
首元のノアが、音を出して確かめた。
「こちらは、案内係ノアです」
「来場者、一ノ瀬ハルです。右も左も分かりません」
「そこまで分からないと、別の練習になります」
天音が口元を押さえた。
俺は、玄関のつもりで決めた廊下の線へ立った。
目指すのは、旧視聴覚準備室。さっき出てきたばかりの部屋だった。
「二つ目の角を、右へ曲がってください」
ノアが、渡された原稿を読む。
俺は歩きだした。最初の角を過ぎると、右手に人一人が入れそうな短い通路がある。
二つ目だな。
きっちり右へ向く。
「到着しました。水道です」
首元で、ノアが黙った。
流しの前に積まれたバケツを、カメラへ映す。
「ここで公演するんですか。水しぶきの演出は、ちょっと予算が」
「ハル。そのくぼみは、角に数えないの」
後ろから天音が追い付く。
「今知りました。初めて来たので」
ノアが原稿を読み直した。
「廊下が二方向に分かれる場所まで、進んでください。流しには、入りません」
「流しに入るつもりも、今のところないです」
小さな息の音が、スピーカーから漏れた。
笑ったのか確かめたくなったけれど、顔をのぞくと前が見えなくなる。
俺は次の案内を待った。
二回目は、赤い掲示板だった。
原稿にあった赤い縁の掲示板より手前に、赤い模造紙の貼られた掲示板があった。
俺はその横で止まり、何でもなさそうに尋ねる。
「赤いのを見つけました。この、校内清掃強化週間の横でいいですか」
「すみません。そちらではありません」
「清掃から離れられない」
今度は、ノアが声を出して笑った。
天音は眉間にしわを寄せながら、原稿の『赤い』を消している。
みちるが、通信の確認画面から目を上げた。
「映像はちゃんと届いてるよ」
「届いても、どの赤いものか聞かないと分かりませんね」
ノアはそう答えて、俺に掲示板の上の文字を読ませた。
それだけで、今度は道順の続きへ戻れた。
三回目は、部屋の名前だった。
「準備室の扉が見えたら、到着です」
「見えました!」
俺は足を止めて、扉の文字を指す。
理科準備室。
天音が原稿を額へ当て、ノアは画面の下へしゃがみ込んだ。
「案内された先で、代表が標本になってしまう」
「ならないよ。扉、開けてないから」
ノアの声が震えていた。
笑いをこらえている。
その顔を見ようと少し端末を上げると、青い袖の間から目だけが出た。
「三回とも、本気で聞いたんだけど」
「はい。伝わっています」
「朝よりは、うまく話せてるかな」
言ってから、しまったと思った。
今日の仕事の話に、また自分の安心を混ぜていた。
ノアは袖を下ろし、俺を見る。
「昨日の私に勝とうとしなくていいです。今日の失敗、十分ひどいので」
「そこは褒めてくれ」
「初めて来た人が困るところを、三つ見つけました」
その言い方だけ、少し真面目だった。
俺は端末を下げ、さっきまで来た道を振り返る。
昨日と同じ廊下で、今日の彼女と三回、道を間違えた。
袖の間からのぞいた目が、まだ頭に残っていた。もう一度、あの声で笑ってほしくて、俺は次の冗談を探した。
*
準備室に戻ると、俺は案内図を描き直した。
曲がり角の手前に、見つけやすい教室名。掲示板には、色でなく上にある文字。最後には、部屋の正式な名前を大きく入れる。
みちるが隣から、音声の止まる位置を調整した。
「次の案内を、続けて出さないようにするね」
「お願いします。相手がどこにいるか、聞く時間が欲しいので」
ノアが言う。
天音は、使い終えた校内図へ三つの印を付けた。
俺は直した原稿を持って、部屋の外へ出る。
「もう一回だけ、ここから。来た人の向きは、まだ分からないことにして」
扉の横に立ち、端末を少し回した。
「目の前に、何が見えますか」
「三年二組の札」
ノアが次を読む前に、俺の返事を待つ。
曲がる場所が一つずつ確かまり、最後は扉の名前を、端末へ映した。
「旧視聴覚準備室。こちらです」
「帰ってこられた」
「お疲れさまでした。少し長い道のりでしたね」
実際は、隣の廊下を回っただけだった。
俺は扉を開け、端末を台へ戻した。天音が原稿を受け取り、さっき直した文字の横へ、今度は丸を付ける。
「明日は、別の人にもやってもらおう。ハルはもう、知らないふりが上手すぎる」
「迷子の才能は、褒められても困るな」
「今日の間は、私も同じ間違いをしないように案内できます」
ノアの返事に、俺は笑った。
窓から入る風で、机の端の図がめくれる。押さえようとして、みちるの手とぶつかった。
「ごめん」
みちるが言った。
「いや。そこ、俺が持つよ」
みちるは紙を離し、工具袋の口を閉じた。
俺とノアを見てから、小さく首を振る。
「うまく動くものを用意したら、笑ってくれると思ってた」
「今日は、うまくいかなくて笑われたぞ」
「そうだね」
みちるは笑いかけた。
けれど、いつもの、修理が済んだときの顔とは少し違った。
俺が紙を押さえている間、彼は手を出さず、ノアが次の言葉を出すのを待っていた。
俺は、片付けたあとにノアへ話すことを探した。残った作業なら、いくつもある。でも、どれも今、言いたいことではない。
新しい冗談を思い付いたわけでもないのに、夜の通話の時間が待ち遠しかった。
携帯が震えた。
顧問から、貸与元の確認日程が決まったと連絡が入っている。
明日の放課後。九条さんが来る。
「ノア。前に公開テストを見に来た、貸与元の人がいるんだ」
俺は、画面の彼女へ向き直った。
「最初に入っていた言葉を、どう用意したか確認する。明日、ここで」
「最初の言葉は、私が選んだものではないんですか」
「そうだと思う。俺にも出所が分からない文章があって、調べてもらってる」
ノアは少し間を置いた。
「それなら、私も聞きたいです」
「うん。一緒に聞こう」
さっきまで机の端にいたみちるが、椅子を引いた。
「初期素材の話は、ぼくからする」
俺は、携帯を持つ手を下ろした。
みちるは確認用の画面を開かず、こちらを見ている。
「しても、いい?」
いつもなら、調べて直してから説明する友人が、俺の返事を待っていた。
何を話そうとしているのかより先に、どうして俺に許可を求めるのかが、分からなかった。
*
今夜の三行
一 ハルは、昨日の私を試さなかった。
二 今日は、二人で案内を三回間違えた。
三 明日は、作られた最初の言葉について聞く。




