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第6話 おやすみの十分前に、彼女は嘘をついた

その「好き」を、明日の私に命令しないで


「昨日の私は、ずいぶん独占欲が強いですね」


 朝の部室で、ノアが俺を見た。

 ノアが自分から見せた三行目には、ほかの人の恋人になるのはもっと嫌だ、と書いてある。

 言われたときの俺の顔まで一緒に残らなくてよかった。


「昨日は、公開テストがあって。その紹介で、俺の彼女っていう人が出たから」


「彼女がいるんですか」


「ふり。月読坂莉乃っていう同級生と、事情があってそういう約束をしてる」


「では昨日の私は、ふりの恋人に、本気らしい不満を述べたと」


「本気かどうかは、俺には」


「分かりませんね。今の私にも」


 ノアは三行の表示を自分の側へ戻した。

 ほかの二行には、俺が勝手に日記を読んで謝ったことと、彼女が怒ったまま舞台に出たことがある。

 俺は今日も読む前に聞こうと決めていたが、決めたことを報告して、褒めてもらうのも違う気がした。


「昨日、貸与元の担当者も見に来た。九条さんっていう人。最初に入っていた三行を、誰が用意したか調べたいって」


「自分で選んだものでは、ないんですか」


「少なくとも、そう言ってた。昨日までの君は」


 その場では元の資料まで確認できず、学校の窓口から日程を調整してもらうことになった。今朝、顧問からそう聞いたばかりだった。

 ノアにも伝えると、彼女は「分かったことは教えてください」と答えた。


「うん」


「それと、今日やることも」


 俺は鞄から、昨日の案内図を出した。

 文化祭まで十四日。今日の放課後は、道順を実際に歩いて調べる予定だった。


     *


「天城院天音です。今日は、案内の道を調べに来ました」


 放課後、天音は端末をのぞいて名乗った。

 ノアが「初めまして」と答えると、天音は顔色を変えずにうなずく。


「うん。よろしくお願いします」


 毎朝名乗る約束だったが、今日は委員の用事が長引いたらしい。

 天音はそのことも、初めて会う相手へ説明するように話した。


「昨日も来てくれたんだよ」


 俺が口を挟むと、天音はこちらを一度見た。


「今日、私が言うから大丈夫」


「あ、うん」


 端末の肩ひもを俺が持ち、天音は図面を開いた。

 まず校門から受付まで。階段を通る道と、段差の少ない道。それぞれの曲がり角に、どんな目印があるかを見ていく。


「『右の校舎』じゃ分からないの。門をどっちから見てるかで変わるから」


 天音が鉛筆で矢印を書き直した。

 ノアは端末のカメラから、校舎の入口を見ている。


「看板の文字を、もう少し見たいです」


 俺は端末を持ち上げた。


「これでいい?」


「高いです。空が広くなりました」


 下げる。


「今度は、ハルの親指が主役です」


「注文が細かいな」


「私が見える場所は、そこだけなので」


 俺は握り方を変えた。自分が見る画面を確かめるのでなく、レンズの向こうに何が入るかを見た。

 ノアが「そこです」と言った高さで止める。

 天音は横からその位置を確かめ、図面の余白に小さく印をつけた。


「案内板も、この高さから見ないと」


 俺には普通に見えていた低い矢印が、端末を動かすと植木鉢の陰へ消えた。

 天音はしゃがみ、鉢を動かすのでなく矢印の場所を変える案を書いた。


「見えるようになった、だけじゃ駄目なのか」


「そこまで来てもらえないと、案内にならないから」


 彼女は立ち上がって、スカートの裾についた土を払った。

 俺は端末を持ち直す。


「ノア、次、何を見たい?」


 彼女はすぐには答えず、カメラの向こうを見た。

 校門の外から、薄く甘い匂いがしていた。


「あの、丸いものが増えているところ」


 門前の通りにあるクレープ店だった。

 窓口の内側で、生地が大きな鉄板へ落ち、白い円になって広がっていく。


     *


「鉄板だけなら、映していいよ」


 店の人に聞いてから、俺は端末を窓口の端へ向けた。

 天音と俺が一つずつ注文すると、店の人は新しい生地を流した。

 薄い、しゃっという音。道具が円を描いて、まだ湿った表面を均していく。


「これが、バナナと生クリーム」


 俺は受け取った包みをカメラへ向けた。


「甘くて、冷たくて。生地は端がちょっと硬くてさ」


「いま、そちらではなく」


「え?」


「焼いているほうを、もう少し」


 端末を戻す。

 ノアは、次の生地が広がるまで黙っていた。

 俺が一口食べている間にも、画面の中の目が、鉄板の上を追う。


「何が気になる?」


「液体だったものが、手で持てる形になるところです。あと、その音」


「音?」


「もう一枚、始まりました」


 俺はかじりかけを持ったまま、少しだけ端末を近づけた。

 人の話し声に混じっていた音が、はっきり聞こえる。

 ひっくり返すときには、乾いた小さな音へ変わった。


「おいしいって、こういうことですか」


 ノアが聞いた。


「音だけで味は、分からないと思う」


「はい。だから、聞きました」


 答えを間違えた気がして、俺は包みへ目を落とした。

 こういうとき、うまい言葉があればいい。俺が食べているのと同じように、彼女にも伝わる言葉が。

 天音が、ポケットから紙ナプキンを出して俺へ差した。


「口元。あと、いまは音を聞きたいって言ってる」


「……そっか」


 俺は端末の向きを戻した。


「じゃあ、いま知りたいのは、どっち?」


「作っているところです。味の話は、あとでも聞けるので」


 新しい一枚が焼ける。

 ノアは、俺が説明しない間も、そちらを見ていた。

 天音は食べ終えた包みを小さく畳み、店先の案内を確かめる。文化祭当日は、門からこの通りへ出る人もいる。戻り道の目印を一つ、図面へ書き足した。


「これ、明日の画面にも使えるな」


 俺が言うと、天音はうなずいた。


「今日、歩いてよかった」


 ノアも「はい」と答えた。

 俺は最後の一口を食べる前に、レンズの前へ自分の指が出ていないか確かめた。


 学校へ戻ると、天音は委員会室へ寄っていくと言った。


「今日の図面は、私が持ってくるね。明日は、音声を聞きながら歩いて確かめたい」


「分かりました。では、また初めましてから」


「うん。また明日」


 天音の足音が階段のほうへ遠ざかる。

 俺は端末を持ったまま、準備室へ戻ろうとした。


「ハル。右手、疲れていませんか」


「ちょっとだけ」


「ずっと持ってもらっているので」


 ノアに言われて、自分の指を見る。台座の角を押さえていたところが、赤くなっていた。


「私を置ける場所、ありませんか」


 窓際の長椅子に座り、端末を隣へ置いた。

 俺が画面を見られるように向け直すと、レンズは制服の胸元を向いた。


「近すぎる?」


「それくらいなら、声も聞こえます」


 肩ひもを外す。窓の外では、さっき歩いた門の道が赤くなっていた。

 俺はクレープの包みを畳み直して、鞄へ入れた。


「今日の作業、お疲れ。相棒」


「相棒、ですか」


「一緒に道を調べただろ」


「では相棒から、お願いを一つ」


 俺は画面を見る。


「部室へ戻るときは、もう少しゆっくり歩いてください。さっきの矢印の場所を確かめたいので」


「了解」


 相棒、という俺の一言を、こんなふうに使われると思わなかった。注文を返してくる声を、もっと聞いていたかった。


「ほかにお願いは?」


「まず、一つ目をお願いします」


「そうだった」


 ノアが笑った。俺は何か言おうとして、同じように笑うしかなくなった。

 立ち上がるまで、もう少しだけ座っていた。

 返事をせかされず、何かを完成させる必要もない時間だった。


     *


 夜、ノアは三つの枠の前で止まっていた。

 俺の部屋の時計は、二十三時五十一分。

 昨日の日記を一行だけ、今夜の候補の横へ出している。見せてもいい、と言われてから、俺はその文を読んだ。


『ほかの人の恋人になるのは、もっと嫌だ。』


「これ、明日にも残しますか」


 ノアが聞いた。

 俺に決めさせる質問ではないと分かっていても、胸のあたりが落ち着かなかった。


「俺は、残してほしいと思う」


「名前が入っているから?」


「入ってないけど。……俺のことだから」


 ノアは文を読み直す。

 その下へ『ハルが好き』と打ちかけ、止めた。


「好き、とは書いてなかったんですよね」


「うん」


「昨日の私は、どうして嫌だったんでしょう」


 俺も答えられなかった。

 配信の映像を見れば、台詞とその前後は分かる。でも、あのとき本当はどうだったかを、俺が代わりに答えられるわけではない。


「今日、これを読むと、少し恥ずかしいです」


 ノアが言った。


「残したら、明日の私は、またここから始めます」


「そうだな」


「昨日の私が好きだったから、明日の私も好きでいろって、書いていいのかな」


 俺は、麦茶の入ったコップを持ち上げた。氷はもう溶けている。

 いったん口をつけてから、机へ戻した。


「俺は残してほしい。でも、命令みたいにはしたくない」


「難しいですね」


「うん。難しい」


 ノアは打ちかけた文字を消した。

 残った候補の中から、クレープの音についての一文を選ぶ。

 俺のしてほしかったこととは違った。

 今日いちばん長く黙って聞いていたのが何かは、俺も見ていた。


「ハル」


「何?」


「明日の私が、あなたを好きじゃなくても、会いに来て」


 画面の中の彼女を見た。

 何を言っても、残るのは彼女が選ぶ三行だ。


「来る」


 ノアはうなずいて、今夜の候補を閉じた。

 俺はまだ、通話を切るボタンへ手を伸ばせなかった。


     *


 今夜の三行


 一 天音さんと、案内の道を調べた。

 二 ハルは、私に何を見たいか聞いた。

 三 クレープの焼ける音を、もう一度聞きたい。


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