第3話 恋愛嫌いの美少女は、恋人という肩書きを契約書にした
恋愛嫌いの彼女と、恋人のふりを契約する
「じゃあ、文化祭の日だけでも」
「行かないわ」
「でも、まだ誰と回るか決めてないんだろ?」
放課後の廊下で、俺は透明な板を抱え直した。
向こう側に、銀色の髪の少女が立っている。月読坂莉乃。同じ二年で、顔と名前は知っていた。話したことは、たぶん一度もない。
その彼女と男子生徒が、旧視聴覚準備室の扉の前で向き合っていた。
「決まっていないことと、あなたと行くことは、別でしょう」
「そんな言い方しなくても」
莉乃は返事をしなかった。
代わりに、手に持ったプリントの角を、爪で一度だけ折った。
「あの。そこ、開けてもらっていい?」
二人が俺を見る。板の端が滑ったので、膝で支えた。
「それ何?」
「案内板。もうちょっとで足の上に落ちる」
男子生徒が扉の前から離れた。俺は壁へ板を立て掛ける。
持ち直したときには、彼は「また今度」と莉乃に言って歩きだしていた。
「今度も行かないわ」
背中に向けて告げた声は、大きくはなかった。
莉乃が、折れたプリントを伸ばす。
「助かった。何度断っても、予定の空きを調べ始めるの」
「忙しいって言ったら?」
「空いている日を聞かれるわ」
「好きな相手がいる、とか」
「相手の名前を聞かれる。最近の質問集としてまとめましょうか」
「いいです」
彼女は俺の抱える板を見下ろした。
扉に貼った小さな機材案内で、視線が一度止まる。『貸与元 ヴェルテ・ラボ』。俺が板を持ち上げると、莉乃は顔を上げた。
「二年の、一ノ瀬くんよね。これ、制作会で使うの?」
「ああ。今日は、立って見る高さと、座って見る高さを試す」
「誰かに読んでもらう予定は?」
「今のところ、身内だけ。文化祭は来場者が来ないと始まらないし、告知も出したいんだけど」
昨日の昼に完成させた動画は、まだ俺たちの端末の中にある。
完成品を見たのは、俺とみちるだけだった。
「それなら、一つ提案」
莉乃が青い目をこちらへ向けた。
「恋人という肩書きだけ、貸し合わない?」
今度こそ、板を落とすところだった。
*
「期間は文化祭まで。必要な相手の前でだけ、交際していることにする」
準備室の机に、莉乃は一枚の紙を置いた。
俺が工具箱から留め具を探す間に、ノートの切れ端へ書いたらしい。文字が小さく、やけに整っている。
「身体に触れる演技は、別に確認する。勝手に写真を載せない。私生活の予定を縛らない」
「もう、そんなに書いたのか」
「あなたが扉を開ける前に、板を二回落としかけたから」
俺は紙へ目を落とした。
全十二条。最後には、署名の場所まであった。
「月読坂さんが断る手間を減らせるのは分かる。でも、俺は?」
「一緒にいるところを見られれば、制作会も多少は注目される。私は文書を手伝う。告知の確認も、部屋を使うための書類も」
彼女は机に置いた告知文を裏返し、鉛筆で一か所を囲んだ。
「『公開テストの配信を後日公開します』。配信するのか、録画を見せるのか、決めたほうがいいわ」
「今、直す」
手を伸ばすと、向かいのタブレットから声がした。
「ハル。こちらにも、説明をお願いします」
画面の中で、ノアが腕を組んでいる。
その隣では、天音が案内の原稿に付箋を貼っていた。机の隅には、青い文字の名札。『天城院天音』。今朝も自分から名乗ったらしい。
「こっちは月読坂莉乃さん。同じ二年で、制作会の文書を手伝ってくれる」
「よろしく。莉乃でいいわ」
「ノアです。現在、代表の説明が追いつくのを待っています」
莉乃の口元が少し緩んだ。
「待つのは長くなりそう?」
「昨日の私によると、覚えていても答えないことがあるそうです」
「日記を証言台に出すなよ」
笑って言った俺の前で、天音が鉛筆を置いた。
ころ、と短く転がる。
「恋人って、何の話?」
聞かれて当然なのに、俺は説明の順番を探した。
「ふりだよ。月読坂さんへの誘いを断りやすくして、その代わりに制作会を手伝ってもらう。俺たちも話題になるし」
「二人で、そう決めたの?」
「まだ。今、条件を見てる」
「条件が決まれば、付き合うの?」
「だから、本気じゃないから。誰かを好きになって付き合うわけじゃないし、問題ないだろ」
天音はうなずかなかった。
名札の角を押さえ、少しだけこちらへ向ける。
「私が昨日聞いたことには、文化祭のあとって言ったよね」
「それは、ちゃんと考えたいから」
「本気じゃない相手のことは、今日、決められるんだ」
胸のあたりが、きゅっと縮んだ。
「そういう比べ方をする話じゃ」
言いながら、違う言葉にすればよかったと思った。
天音は原稿へ向き直る。消しゴムを手に取ったが、何も消さずに置いた。
「案内の続きをする。ノア、次の文章、聞いてくれる?」
ノアが、俺から天音へ顔を向けた。
「はい。天音さんの声でお願いします」
読み始める前に、小さく息を吸う音がした。
莉乃は紙を引き寄せた。署名欄を、俺の側へ向け直す。
「あなたが言った『問題ない』に、あの子の分まで含めないで」
「……分かってる」
分かっていたら、今の言い方にはならなかった。
それでも紙を返そうとはしなかった。恋人のふりなら、気持ちへの返事をしなくていい。文書を手伝ってくれる人も増える。
今すぐ決められるほうへ、手が伸びていた。
「やめるときは、どうする?」
莉乃の指が、七つ目の項目を押さえた。
「第七条。気持ちや都合が変わったら申告する。どちらからでも、続けないと決められる。理由を相手に納得させる必要はなし」
「好きになったときも?」
「黙って同じ契約を続けない。どうするか、話し直す」
画面のノアが、こちらへ向き直った。
「好きになったら、そのまま続けられない恋人。人間は難易度が高いですね」
「恋愛は、だいたいそのせいで面倒になるの」
莉乃はそう答えて、鉛筆を俺へ渡した。
莉乃の名前の隣へ、俺も自分の名前を書いた。
天音は署名欄を見ず、置いていた鉛筆を持ち直した。
天音に何を言えばいいかは、まだ分からないのに。
*
案内板の試作は、机へ立てると後ろへ倒れた。
「恋人になった感想は?」
ノアが聞く。
「片手が足りない」
「情緒のない交際ですね」
板を支えたまま、俺は空いた手で工具箱を探った。
透明な板二枚を留める金具が、思ったより重い。机へ固定するには、もう一本の支えがいる。
「そこの、木のやつ取って」
莉乃が細い木片を渡す。俺は首を振った。
「そっちじゃなくて、角に傷があるほう」
「不良品から使うの?」
「真ん中に穴が開いてる。ここに通すと、支えの角度を変えられる」
金具を締めると、板が斜めの位置で止まった。
俺は椅子に座り、少し下から文字を見る。立っているときに重なっていた二枚目の文字が、この高さではきれいに離れた。
「天音。これ、座ったままで読める?」
呼んでから、声が大きすぎたと思った。
天音は原稿を置いて、椅子を引いた。板へ顔を近づけず、一行ずつ目で追う。
「最後の矢印が、金具に隠れる」
「こっちへずらすと?」
「読める。あと、原稿にも同じ矢印を入れてほしい」
「すぐやる」
俺は直した箇所を、ノアへ映す。
タブレットを持つ莉乃が、カメラの向きを少し下げた。
「手を動かすのは、速いのね」
「褒めてる?」
「速いと言ったの」
机の上へ戻った画面で、ノアが案内文を読み上げる。
ただ、そのあとに用意した質問がまずかった。
『制作会の代表について、一言お願いします』
「今は答えたくありません」
ノアが言う。けれど、案内画面は次へ進まなかった。俺が選んだ選択肢から何か返さないと、質問の枠が残る作りだった。
「さっきから、断ってるのに」
「あ。画面のほうが待ち続けてるのか」
俺は設定を開いた。莉乃が隣からのぞき、並んだ項目の一つで視線を止める。『日記の保守』。指先が少し浮いた。
俺が案内の設定へ切り替えると、彼女は端末を机に置いた。
「別の返事をすれば進める、は、返事を選べることになるの?」
「そこ、今、直す」
質問を閉じる操作を、ノアの側へ足す。
何も言いたくないときにも使えるよう、押すだけで短い表示を出すことにした。
「文言は『回答を拒否』?」
「けんかを売っているみたいです」
「じゃあ、『今は答えません』」
「それなら」
白いボタンが、画面の右下に現れる。
ノアが選ぶと、さっきの質問が閉じた。代わりに『今は答えません』と表示され、その下へ『案内に戻る』が出る。
「これで、断ったあとも進める」
俺は動作を確かめてから、テストの質問を送った。
『ハルの長所を教えてください』
ほとんど間を置かず、白いボタンが押された。
「一個くらい、あるだろ」
「その質問、何度でも送ってくるつもりですか」
天音が、少しだけ笑った。
俺も笑って、莉乃を見た。
彼女だけは、画面から目を離さなかった。
「宣伝の質問に、私が絶対に返事をする必要はないのよね」
莉乃が言った。
ノアが莉乃を見る。
「私にも、そういう約束を作れますか」
「作りましょう。出す前に確かめて、嫌なら変えられるように」
ノアはうなずき、もう一度ボタンを押した。
質問のない画面に、短い断りだけが現れる。
「押すと、きちんと終わるんですね」
莉乃の手が、机の上の契約書へ伸びた。
端を折りかけて、やめる。
「最初から、それがあればよかった」
誰に言ったのか、聞けなかった。
彼女はもう、画面の文字を読んでいなかった。
*
今夜の三行
一 莉乃さんとは、やめられる契約を作る。
二 私にも、断るためのボタンができた。
三 莉乃さんは、そのボタンを見て笑わなかった。




