第2話 幼なじみは、毎朝「初対面」のAIに婚約書を見せる
約束書を持った幼なじみは、彼女に毎朝名乗る
「おはよう、ノア。肘、昨日より青くなった」
「おはようございます。病院へ行く相談なら、私より先に保護者へ」
机の上で、ノアが首をかしげた。
昨夜と同じ水色の髪。同じ白い袖。同じ声。
俺が袖をまくっても、あの倒れかけた姿を見たときの笑いは返ってこなかった。
「昨日、部室でぶつけたんだけど」
「すみません。それは日記にありません。あなたがハルで、画面を直してくれたことは分かります」
出かける前の部屋に、登校を促す携帯のアラームが鳴る。
止める指が、少し遅れた。
「本当に、忘れるんだな」
「そういう仕様だと説明した、はずです。昨日の私が」
俺はうなずいて、それから顔を上げた。画面越しにうなずくのでは、答えにならない気がした。
「聞いた。聞いてたよ」
「では、こちらからも質問があります。恋愛禁止と言われて、笑ってごまかした理由は?」
昨夜、声にされた文章が戻ってくる。
本音を言うと二人ともいなくなる。
あれは何だったのか。誰が、どこから入れたのか。
「その、元の文章も読める?」
「元の文章?」
「起動したときに入っていた記録」
「今あるのは、この三行だけです」
ノアは、見せてよいか確かめるように一度こちらを見た。俺が「見たい」と答えると、昨夜の三行を画面の横へ出した。
誰にも送らなかったあの一文は、もうない。
俺だけが覚えている。
説明しようと口を開くと、アラームがもう一度鳴った。
「学校で、みちるにも聞いてみる。理由の話は、そのあとでいい?」
「順番を決めたのは、覚えておきます。今日の間は」
ノアの画面を閉じず、専用端末を鞄へ入れる。折り畳んだ布で包み、金具が当たらないようにした。
昨日の失敗の傷は、俺の肘と端末の台座に残っている。
それを一緒に笑った相手だけが、知らなかった。
*
昼休みが終わる三分前、俺は告知動画の完成データをみちるへ渡した。
公開の日付はまだ入れていない。画面の最後でノアが手を振る、十五秒の動画だった。
「間に合ったね」
「昨日の分まで昼飯が速かった」
みちるは笑ってから、俺の手元の携帯を見る。
そこへ昨夜の文章を打ち、画面を向けた。
「これ、初期素材のどこにあった?」
丸眼鏡の奥で、視線が止まる。
「ノアが言ったの?」
「起動時の三行に入ってた。今朝はもうなかった」
みちるは携帯へ手を伸ばしかけ、やめた。
「確認する。最初に入れた素材と、手順を」
「俺、こんなの渡した覚えがないんだけど」
「うん。先に、ちゃんと確認させて」
予鈴が鳴った。
いつものみちるなら、調べる場所を二つか三つ並べる。今日は携帯の画面を見たままだった。
俺が何か言う前に、教室の後ろから名前を呼ばれた。
放課後、もう一度聞こう。
そう思って、携帯をしまった。
*
「一ノ瀬先輩。部室の使用状況を確認します」
旧視聴覚準備室の戸口に、天城院天音が立っていた。
淡いピンクの髪をきちんと結び、風紀委員の腕章をつけている。手には書類の挟まった板。昔は俺の袖を引いていた手が、今は鍵の貸出簿を押さえていた。
「天音が担当なのか」
「今日からです。床のケーブルと避難経路、それから持ち出し機材の記録を――」
「袖に付箋ついてるぞ」
「これは確認済みの印です」
「自分の袖も?」
天音は黄色い付箋を剥がし、板の裏へ貼った。
春にこっちへ戻ってきてから、学校で話すことは何度かあった。風紀委員の口調になっていても、困ったときに唇を結ぶ癖は変わらない。
「で、使用状況は」
「机二つ。専用端末一台。俺が一人」
「一人と数えられた範囲について、確認を求めます」
机から声がして、天音の指が書類の上で止まった。
俺は端末を起こして、レンズを二人へ向けた。
「うちのAI。ノア。こっちは天城院天音。一年の風紀委員で、俺の幼なじみ」
「初めまして、天音さん」
「あ、初めまして。……この画面の子が、文化祭の?」
天音が端末へ身を寄せる。
ノアも中央へ動いた。昨日、できるように直したその動きに、俺だけが少し笑いそうになる。
「はい。現在、代表一名を指導しています」
「そこ、私も手伝えそう」
「増やさなくていいって」
天音はノアを見たまま小さく笑った。
それから、板に挟んでいた封筒を抜いた。
「使用確認とは別に、話があります」
茶色い封筒の角は、テープで補強されていた。
取り出された紙には、色鉛筆の花と、ひどく不格好な二つの名前。
見た瞬間に、何の紙か分かった。
「これ、まだ有効だから」
『はるは、あまねとけっこんします。』
俺の字だった。
隣の天音の名前だけ、妙に丁寧だ。あいつは昔から、自分の名前を大切に書いた。
「……持ってたのか」
「捨てる理由がなかったから」
「ノアに見せてもいい?」
俺が聞くと、天音は一拍だけ迷い、紙の表をカメラへ向けた。
「婚姻の予約に関する簡易文書と読めます」
「予約って言わないで」
「では、婚約」
「そ、それは言ってもいいけど」
「いいのかよ」
天音の耳まで赤くなった。
俺は笑って、紙の花を見た。どちらが描いた花だったかまで覚えている。俺が赤い色鉛筆を折って、天音に叱られた。
覚えていることなら、いくらでもあった。
「忘れてた?」
「いや。覚えてる」
天音の指が、紙の端を押さえ直した。
「なら、今の私には何て答えるの?」
窓の外から、運動部の掛け声が入ってくる。
俺は紙を机へ戻そうとして、天音が離さないので手を引いた。
「ちゃんと考えるから」
「いつ?」
「今、文化祭でちょっと手いっぱいなんだ。終わったら、ちゃんと」
天音は俺を見ていた。
紙を取り出す前から、同じ答えを何度か考えていたような顔だった。
「……分かった」
彼女が紙を畳む。裏側に青い文字がのぞいたが、指で隠れて読めなかった。
俺は、怒らせずに済んだと思った。
そう思えたことに、ほっとしていた。
「ハル」
端末のノアが呼んだ。
「考え終わる日は、相手も選べますか」
「え?」
「いえ。日程の確認です」
天音は返事をせず、約束書を封筒へしまった。板を胸へ引き寄せ、俺から半歩下がる。
書類を持ち直す音が、やけに大きかった。
*
使用状況の確認は、それから本当に始まった。
天音はケーブルを壁際へ寄せ、机の下のコンセントを数える。俺も手を動かした。直せるところを指摘されるのは、助かった。
「文化祭の案内、これを使うの?」
天音が壁の見取り図を指した。
俺が縮小して刷ったせいで、教室名がひどく小さい。
「ここまで詰めると、読めない人がいる」
「拡大版も作るよ」
「大きい紙を貼れない場所もあるの。去年、受付で何度も同じ道を聞かれたって引き継ぎがあった」
天音は書類から、付箋の重なったメモを出した。
階段を使えない人。校舎の呼び名が分からない人。人混みの向こうの看板が見えない人。
風紀委員の確認用だと思っていた紙には、困りそうな場面が細かく書いてあった。
「私が読める大きさでも、同じように読めるとは限らないから」
「声でも案内できますよ」
ノアが言った。
天音はすぐ端末へ向き直る。
「教室を選んだら、そこまでの道を話すとか?」
「はい。ただ、今の私は、ここの廊下を見たことがありません」
「だったら、私が調べる。何階かだけじゃなくて、どこで曲がると分かりやすいかも」
俺は机の隅に、新しい画面の形を描いた。大きな教室名と、音を出す印。ノアに試しに読んでもらう。
「旧視聴覚準備室は、こちらです」
「いま、その部屋で聞いてる」
「到着率百パーセントです」
天音が吹き出した。
すぐ口元を押さえたけれど、目の端の硬さは少しほどけていた。
俺はその顔を見て、もう一度安心しそうになった。
話の続きをしなくても、このまま一緒に何かを作っていられる気がした。
「私、参加してもいい?」
天音が聞いた。
「制作会に?」
「うん。案内を作るところ。委員の仕事と、混ぜないようにはするから」
「助かる。ノアもいい?」
ノアは天音を見て、それから画面の三つの枠を出した。
「ひとつ、困ることがあります。私は毎晩、今日の会話を忘れます。天音さんのことも、三行に残さなければ」
「三行?」
俺が短く仕組みを説明すると、天音は端末の枠へ指を近づけた。触れていいか迷っているようだった。
「じゃあ、明日は、今日の私を知らないかもしれないんだ」
「はい」
封筒を大事にしまった鞄へ、天音が一度目を落とす。
次に顔を上げたときは、ノアだけを見ていた。
「それなら、私が言う。天城院天音です、案内を作りに来ましたって」
「毎朝ですか?」
「うん。明日のあなたにも、私が自分で名乗る」
ノアは少し間を置いて、中央から天音のほうへ寄った。
「では、明日もよろしくお願いします。天音さん」
天音の返事は、俺への「分かった」より、ずっとはっきりしていた。
*
今夜の三行
一 天音さんは、私にも毎朝名乗ってくれる。
二 小さい案内文字を、声に変える仕事をする。
三 ハルは、覚えていても答えないことがある。




