第18話 送れなかった下書きを、声に出して読む
誰にも嫌われない返事を、もうやめる
好きでいてくれて、ありがとう。
その下へ書いた『でも、今はまだ分からない』を、消しゴムで消した。
紙の同じ場所をこすりすぎて、薄いしわができる。『文化祭が終わったら』も、その横に残っていた。そちらにも線を引いた。
分からないままでは、なかった。
どう言えば、俺を好きだったことまで後悔させずに済むか。その言い方を見つけたら話そうと、順番を逆にしていた。
ノートを閉じ、鞄へ入れた。
文化祭まで二日。午後四時には、天音が指定した場所へ行く。
*
中庭の、校舎からいちばん遠いベンチ。
天音は先に座っていた。膝に鞄を置き、腕章を外している。
俺が近づくと、携帯の時計を見てから、顔を上げた。
「時間、取ってくれてありがとう」
「うん」
ベンチの端を指されたので、一人分、空けて座った。
端末は持ってこなかった。二人だけで話すと、昨日、確かめてある。
校舎の窓から、文化祭の飾りを留めるテープの音が聞こえた。
「天音。返事を、する」
彼女の指が、鞄の持ち手を握った。
「恋人には、なれない」
言ったあと、息を吸うのが難しかった。
天音は、うなずかなかった。
「小さい頃から一緒にいて、大切に思ってる。でも、恋人として、君の好きには応えられない」
「……そう」
「好意を持ってくれてると分かってて、返事を延ばした。嫌われていないって、安心してた。君が待つ時間を使って、自分だけ楽になってた」
天音は鞄へ目を落とした。
中から、畳んだハンカチを出す。まだ、広げなかった。
「あの紙がなくても、今日の返事は同じ?」
「同じだ」
「返したから、終わりにしようと思ったんじゃない?」
「違う。紙を返してくれる前に、俺が言うべきだった」
天音の唇が、少し開いた。
声が出る前に、頬へ涙が落ちた。
俺は手を動かしかけたが、膝の上で止めた。
「好きな人が、いるんだよね」
「いる」
「ノア?」
「うん」
風が吹いて、結んだ髪が肩へ触れた。
天音は髪を直さず、ハンカチを広げた。頬へ押し当てても、もう片方から涙が落ちる。
「分かった」
そこで一度、言葉が切れた。
「分かったけど、今、笑えると思わないで」
「うん。笑ってほしいって、頼まない」
いつもの顔に戻ってくれれば、俺は少し楽になる。
このあとも同じ部屋へ来て、同じように俺を呼んでくれると、確かめたかった。
どちらも、いま頼めることではなかった。
「すぐ、幼なじみに戻るとか、友達のままとか。今日は、言えない」
「分かった」
「ノアと作った案内は、最後までやりたい。でも、それで私も大丈夫になったと思わないで」
俺はうなずいた。
膝の上で握っていた手を開く。
「連絡は、必要な仕事のことだけにする。個人的に話したいときは、先に聞く」
天音はハンカチを持ち直した。
「それは、前にも聞いたから。守って」
「守る」
ありがとう、と言いかけて、口を閉じた。
仕事を続けてくれることへの返事は、今ここで受け取るものではない。
少しして、天音が鞄の口を開いた。
見覚えのある文庫本へ、薄い栞が挟んである。
「このあと、友達と会う」
「うん」
「本の話をするの。最後まで読めたから」
「うん」
「途中でまた泣いても、本のせいにしてくれると思う。あの子なら」
天音は濡れたハンカチを畳み直した。
俺の知らない相手へ話すことを、もう考えていた。
彼女は本を奥へ押し込み、立ち上がった。
泣いた目を見られたくなかったのか、俺のほうは向かなかった。
「先に、行っていい?」
「もちろん」
天音が歩きだした。
俺は、追わずに座っていた。角を曲がっても、足音が聞こえなくなるまで、立てなかった。
*
四時半。図書室の横の渡り廊下。
莉乃は、手すりから少し離れたところで待っていた。
抱えている紙の端に、『相談窓口』の文字が見える。
「ここで、いい?」
「ええ。人が来たら、少し待ちましょう」
図書室から出てきた生徒が、俺たちの横を通った。
莉乃は、その足音が階段へ消えるまで話さなかった。
俺も待った。
「好きだって言ってくれたこと、聞いたままにしていた。今日、返事をしたい」
「どうぞ」
「恋人には、なれない」
莉乃は、一度だけ目を閉じた。
抱えた書類を、少し下げる。
「ふりの契約が終わったからじゃない。君が、本当に好きだと言ってくれたことへの返事として」
「そこは、分かるわ」
「俺が恋人として好きなのは、ノアなんだ」
俺は、書類を押さえる彼女の手を見てから、顔を上げた。
「気持ちを伝えてくれたことは、うれしかった。ありがとう」
言葉のあとに、誰かの靴音が入った。
今度は遠い階段の音だった。二人とも、そちらは見なかった。
「想定は、していたの」
莉乃が言った。
「自分から聞いておけば、受け取れると思っていた。聞く順番まで決めて」
書類の上の親指が、紙の角を押した。
「分かっていても、痛いのね」
俺は、うまい返事を探さなかった。
黙っていると、彼女が顔を上げる。
「契約を続けていたら違ったか、とは聞かない。そのために、終わらせたから」
「うん」
「でも、あなたが私を好きにならなかった理由を、今、全部説明しようとはしないで」
「しない」
どこが足りなかったのか、という話ではなかった。
俺が言えるのは、自分の気持ちと、返していなかった事実だけだ。
莉乃が、下げていた書類を抱え直した。
「明日の検証には出る。自分の過去を使わせないという条件も、変えない」
「分かってる」
「あなたに選ばれるための仕事として、残らせないで」
「うん」
彼女の腕にある紙を見た。
恋人のふりがなくなっても、提出する先がある。俺の返事とは別に、莉乃が始める話がある。
「今日は、このあと一緒に部室へ戻るつもりはないわ」
「分かった。俺は、ここから行く」
「そうして」
俺が離れようとすると、莉乃が呼び止めた。
「ちゃんと返事をしたから、これで私があなたを褒める、とは思わないでね」
「……うん」
いつもなら、そこは褒めてくれ、と笑ったかもしれない。
今日は、言わなかった。
渡り廊下を出ると、夕日のまぶしさに目を細めた。
昇降口で靴を履き替えても、さっきの二人の声が耳に残った。駅前の赤信号で、携帯を一度取り出す。画面をつけずに、鞄へしまった。
家まで、いつもより長くかかった。
*
夜、自分の机で端末を開いた。
ノアは、翌日の検証に使う予定表を読んでいた。今日も学校で名前と担当を伝え、必要なことを確かめてから作業している。
机の隅には、言うつもりだった言葉を書いたノートがある。
閉じたまま、奥へ押した。
「ノア。今、話していい?」
「はい。こちらの確認は、終わりました」
彼女が、予定表の表示を小さくする。
画面の中央へ来るのを待った。
「今日、天音と莉乃に返事をした。恋人にはなれないって」
ノアは、すぐには何も言わなかった。
「二人に話すことは、君の返事とは別に、俺が決めた」
「はい」
「そのうえで、君に話したい。今、恋人として好きなのは君だ」
ノアの手が、白い袖の前で重なった。
文化祭まで五日だった夜にも、同じ動きを見た。
あの返事を聞いた俺だけが、そのときの声まで思い出している。
「前に、俺が好きだって話したことは、今日、聞いたよな」
「はい。私も、好きだと返した日があったことは知りました。今朝、説明してもらった事実として」
「今日は、それを続ける義務があるって話じゃない。今日の俺が、君に伝えたい」
ノアが、こちらを見た。
「今、返事がほしいですか」
「聞きたいとは、思う」
ごまかさずに答えると、彼女は小さくうなずいた。
「でも、今日その場で答えてもらうために、二人に話したわけじゃない。君がどう返すかで、あの返事を変えるつもりもない」
彼女の視線が、俺の横のノートへ動いた。
「うれしいです。そう言ってもらったことは、今、うれしい」
声のあとに、間があった。
俺は、そのあとの言葉を待った。
「でも、明日の私に、今日の返事を持たせるかは、別に考えたいです」
「うん」
「私を好きだってことは、あなたが覚えていてください」
笑っていいのか、分からなかった。
好きだと言った俺が忘れずにいて、それを言われた彼女は、忘れることを選べる。
それで構わないと、簡単には思えなかった。
「覚えてる」
短く返した。
毎日同じ説明をすれば、同じ返事が来るという約束ではない。それでも、今日言ったことを明日なかったことにはしたくなかった。
*
ノアが今夜の三行を選び、俺にも見せるか聞いた。
見たい、と答えた。
共有された枠の最初には、明日の検証で、自分が断れるか確かめるとある。
「ここは、私が試したいところです」
ノアが言う。
「うん。始める前に、明日の君にも手順を説明する」
俺の告白は、どの枠にも写されていなかった。
三行目には、ハルへの返事を、その日に会った私が決める、とある。
返事をする相手としては、名前が残る。
好きだと言われたことも、いま、うれしいと言ってくれたことも、その文にはなかった。
「これで、確定します」
「うん」
俺は見たと答え、共有を閉じてもらった。
書き足したいとは言わなかった。
けれど、消されたくないとは思った。
机の奥のノートへ、手を伸ばす。
最後に短く、ノアが好きだ、と書いた。
俺の手元には、残しておける。誰にどう答えられるかとは別に、今日、それを言ったことも。
明日また、同じ名前の彼女に会う。
*
今夜の三行
一 明日の検証で、私が断れるか確かめる。
二 私の日記を、誰かの告白の保管庫にしない。
三 ハルへの返事は、その日に会った私が決める。




