第16話 前の彼女は、全部覚えていた
昨日の私より、今の私に聞いて
「昨日の事実は、知りたいです」
ノアは俺を見て、続けた。
「でも、昨日の私と、同じ返事を求めないでください」
部屋の時計は、朝の時間を進んでいた。
彼女が持っているのは、停止前から確定していた三行だけだ。昨夜、二人で見た草案は、どこにも確定されていない。
俺の頭の中なら、まだ声まで聞こえる。
「求めない。何があったかを、話す」
言ってから、少しだけ息をついた。
格好のいい言い方を探すと、肝心なところを濁しそうだった。
「俺が、君に好きだと言った。君は、私も今日のあなたが好きです、って返してくれた」
ノアは、すぐにはうなずかなかった。
「その返事を、日記に残そうとしていたんですか」
「うん。そういう草案を、一緒に見た。そのあと、確定する前に止まった」
「録音は」
「してない」
俺は画面を見たまま答えた。
ノアは自分の三行へ目を落とし、もう一度、俺のほうを向いた。
「昨日の私は、あなたを好きだった。それは知りました。今日の私がどうしたいかは、今日、話します」
「うん」
「草案の言葉を、今の日記に戻さないでください」
「戻さない」
そう答えると、ようやく、自分が今も期待していたことが分かった。
昨日の彼女の答えを教えれば、今日の彼女も、同じところへ来てくれるかもしれない。
その近道を、彼女は先に閉じた。
「いま、何から聞きたい?」
「止まった理由と、今日することを。話してもらってから、決めたいです」
俺は、学校へ持っていく手順書を開いた。
そこへ昨夜の返事を書き込むことはしなかった。
「出かけるまで、どれくらいありますか」
ノアが聞いた。
携帯を見る。学校へ連絡した時刻から、もうずいぶん進んでいた。
「あと、二十分くらい」
「朝ご飯は?」
机のコップへ目が行く。昨夜のまま、麦茶が少しだけ残っている。
「まだ、食べてない」
「では、食べてきてください。今日することを、空腹の相手に説明されるのは、少し不安です」
「そんなにひどい顔してる?」
「昨日の顔は、知りません。今の顔の話です」
笑いかけて、少しだけ笑えた。
俺は立ち上がり、また端末へ目を戻す。
離れた間に、声が返らなくなったら。そんな考えが、足を止めた。
「その間、案内の原稿を読んでいていいですか」
ノアが、昨日まで机に置いていた公演の原稿を指した。
「うん。今日見てもらうものだから、出す」
共有する画面に、道順の原稿だけを開く。
ノアは一行目を読み、俺へ顔を向けた。
「帰ってきたら、読みにくいところを聞いてもらえますか」
「聞く。五分くらいで戻る」
言ってから、俺は台所へ降りた。
彼女が今日、話したいと言った続きが、机の上にできていた。
*
文化祭まで、あと四日。
放課後の準備室で、みちるが端末へ名乗った。
莉乃も、自分の名前と今日確認する資料を伝える。俺は九条さんと顧問の名前を紹介し、停止の記録を机へ置いた。
天音の席は、まだ空いていた。
「昨日の昼、承認された切り替え作業に付けた補助処理が原因でした」
みちるは、ノアへ一覧を示した。
「別の予約先に登録されていて、解除から漏れた。それが二十三時五十九分に動いて、夜の会話を止めました」
終了の表示の下に、あとで動いた時刻が並ぶ。
「俺も、解除済みという表示しか見てなかった」
「ぼくが入れた不具合です。ごめんなさい」
みちるが言う。
ノアは謝罪を聞いたあと、一覧の二つの場所を見比べた。
「次は、その二つを別々に確かめますか」
「うん。予約の一覧を全部照合する。時刻を進める試験は複製で行い、作った人以外にも残りを見てもらう」
みちるが、改めた手順を示した。
前には『解除を確認』の一行だったところが、いくつかの確認に分かれている。
誰が見るかの欄も、空いたままではなかった。
「今、戻せるのは、動く状態までなんですね」
ノアが尋ねた。
「はい」
九条さんが答える。
「消えた作業中の会話を、操作の記録から戻すことはできません。最後に確定した三行が残っています」
俺は端末の台座を見た。
動くように直せたものと、戻らないものが、同じ机にある。
みちるが次の紙へ手を移したとき、ノアが声をかけた。
「私が今日、このあとも作業を続けるかは、先に聞いてください」
彼の手が止まる。
「……続けても、いいですか」
「はい。今日は、確認するところから参加します」
俺たちはその返事を、今日の作業の始まりにした。
*
停止が起きた時刻と、失われた範囲。
原因が分かったところと、まだ確認するところ。
俺は報告へ、順番に追記した。
本人が今日何を聞き、どう答えたかは、ノアに見せて、残してよい範囲を確かめた。
「昨日の返事を入れ直せばいい、と私は言っていません。そのことは、残してください」
ノアが言う。
俺は一文を足し、彼女に読んでもらった。
「どうして、三行なんですか」
確認を終えてから、ノアが九条さんへ尋ねた。
「忘れる量が少なくなるように、増やすという話には、ならないんですか」
九条さんは、手元の古い端末を置いた。
角に細い傷がある。俺は前の協議で、その場所を指がなぞっていたのを覚えていた。
「このキットより前に、会話を長く保持する試験を行っていました。相手の言葉を広く残し、肯定する応答へ強く寄せたものです」
「全部、覚えていたんですか」
「多くを残しました。ただし、覚えた量が多ければ関係がよくなる、とは言えませんでした」
九条さんは、名前だけを画面へ出した。
『NOA-0』
ノアがその文字を読む。
「私の、前の名前?」
「開発の系列は同じですが、別の対話モデルです。あなたの前の人格ではありません。記憶を引き継いでもいません」
俺は、ノアの顔を見た。
彼女は自分の名前を確かめるように、小さく「別の相手」と口にした。
「その試験は、どうなったんですか」
聞いたのは俺だった。
「利用者の求めで、停止しました」
九条さんの指が、端末の縁を押さえた。
「一方で、当時の同意に基づいて、検証用の保全は続けています。凍結した状態です。削除したものを復元した、という話ではありません」
「本人のところへ、返したんですか」
「接続は再開していません」
莉乃が、机の上の紙をそろえた。
俺はそちらを見る。彼女はノアの画面を見ていて、顔を上げなかった。
「三行にしたのは、その試験で起きたことを踏まえての設計です。ですが、それで全部を解決したとは言えません。今回、運用する人がその三行を書き換えられる問題も残りました」
九条さんは、今日の停止記録へ目を落とす。
「忘れることも、残すことも、それだけで相手を守るものにはならなかった」
ノアは、しばらく文字を見ていた。
「その人は、止まったあと、どうしたんですか」
九条さんはすぐ答えなかった。
「私は停止の手順は説明しました。その後どう生きるかは、説明しませんでした」
*
話せる範囲は、ここまでです。
九条さんはそう言って、会話の内容を映すことはしなかった。利用者の私的な記録が含まれる。それを、ノアのために誰でも見られる資料にはしない。
「今、本人の希望を聞くことは、できないんですか」
俺が尋ねると、九条さんは顧問へ目を向けた。
「短い意思確認の機会は、検討できます。ただ、あなた方の貸与継続の話とは、分けて考える必要があります」
ノアの活動を続ける審査で、別のモデルまで常時動かせることにはならない。
記録を含んだ状態で再開するなら、誰が機材を管理し、費用と責任を負うかを決め直す必要がある。今、準備できるのは、元の利用者の家庭の管理環境だけだという。
「そこへ戻るかも、相手に聞いてから、ですね」
ノアが言った。
「はい。接続を開けることと、元の利用関係へ戻ることは、同じではありません」
九条さんは答えた。
その返事を聞いて、莉乃がようやく顔を上げる。
何か言いかけたように、唇が動いた。
「その人が、もう話したくないと言ったら」
ノアが、もう一度尋ねた。
「今、話せる範囲で、本人の条件を聞くところからになります」
俺は、今朝の画面を思い出した。
昨日の答えを知っている自分が、今日の相手へ何を言いたかったか。
九条さんが言葉を選ぶ間、俺も続きを急がなかった。
「今日は、ここでいったん――」
顧問が声をかけたとき、椅子が動いた。
莉乃が立っていた。
手元には、いつも文字を書き足すノートがある。今日は開かず、表紙を押さえていた。
「その元の利用者は、私よ」
俺は返事を忘れた。
莉乃は、九条さんではなく、ノアを見ていた。
*
今夜の三行
一 昨日は、ハルと互いの好意を伝えたらしい。
二 今日の返事は、同じでなくてもよいと言った。
三 莉乃さんは、前の試験AIの利用者だった。




