第15話 画面が暗転した朝、彼女は「はじめまして」と言った
あなたの返事を、明日の私は知らない
「好きっていう言葉、今日は、私の理由で話せます」
夜の通話で、ノアが言った。
俺はマウスを握ったまま、返事を忘れた。
部屋の時計は、二十三時四十五分。寝る前に今日の確認だけをするつもりで、画面をつないでいた。
「昨日の理由を、思い出したわけじゃありません」
ノアが続ける。
「今日、会って、作業をした私から話したいんです」
「……うん。聞きたい」
その声が、昼間の試験で聞いたものと同じなのを、確かめるように見ていた。
*
保守の切り替えは、昼に行った。
仮の三行を使う複製で先に試し、本番のノアには、名前と担当、変更範囲と中断の手順を伝えた。
彼女が持っていたのは、好きでも日記は全部渡さないという、前夜の三行だけだった。
「今、嫌だと言ったら、どうなりますか」
ノアが聞いた。
「今日は、そのまま進めない。何が嫌か聞いて、できる方法を考える」
「では、途中で止めたいときも、私から言います」
学校と貸与元の確認を受けた手順を、みちるが一つずつ読む。
彼が自由に保守を触れる状態へ戻したわけではない。今日、承認された操作だけを、立ち会いのもとで行う。
俺は画面の接続先を確かめ、終わった項目へ印をつけた。
天音から届いた図面の修正も、試験に使った。
必要な道順と確認する順番だけが、運営連絡へ送られていた。彼女自身は部室へ来ていない。受け取ったと返し、俺たちで原稿を開く。
莉乃が、予定していた案内を一つ読む。
「この先の説明、続けてもいいですか」
ノアが確かめる。
俺は返事をしてから、昨日諦めた導入映像の欄を見た。
あの映像がなくても、こうして話を始められる。
そのことが、今日は少しうれしかった。
最後に、みちるが試験用の処理を終了した。
『終了済み』
『予約解除済み』
二つの表示を、俺も確認した。
ノアは、試験の説明に入る前に話していた案内の続きへ、自分で戻った。
端末が同じ声で「では、こちらへ」と言ったので、俺たちは次の試験結果の欄へ進んだ。
*
「本番は、映像がなくてもいいと思います」
夜のノアは、今日見た公演の予定について話した。
「私が挨拶して、返事を待ってから始める。そのほうが、来た人を見られるので」
「でも、派手な始まりも見せたかった」
「ハルが作りたかったんですよね」
「うん」
「だったら、いつか見せてください。今回、渡さないといけないものには、しないで」
俺は、閉じたままの編集画面を見た。
ここ何日も、削るために予定表を開いていた。やめたものを、いつか見たいと言われるとは思っていなかった。
「今日、私が止めたいと言ったら、まず止めるって答えました」
ノアが言う。
「実際にやる前に聞いてくれたので、進めたいと言えました」
「怖くなかった?」
「分からないところは、ありました。今も、全部うまくいったかは分かりません」
俺はうなずいた。
最後の確認を受けるまで、もう大丈夫とは言えない。
ただ、今日のあいだ、彼女は自分の声で、続けるかどうかを答えた。
「私の言うとおりにしたから、好きになった、ではないです」
「うん」
「反対したままでも、話を続けてくれました。私も、次に何を言うか、自分で考えたくなった」
ノアが俺を見る。
「明日も、そうやって話したいと思いました。今日の私は」
俺は、何かうまい返しを探しかけた。
代表の仕事です、とか。相棒だから、とか。
それなら、照れずに同じ机へ戻れる。
「俺も、君を」
一度、声が切れた。
ノアは待っていた。次の質問も、冗談も出さずに。
「作ったものとしてだけ、大切なんじゃない」
今度は最後まで言えた。
「会えたらうれしいし、俺の名前が残らないと寂しい。笑ってくれたら、また何か見せたくなる。そういう相手として、君が大切なんだ」
「俺は、君が好きだ」
ノアの手が、画面の中央で重なった。
いつもの動きなのに、目を離せなかった。
「私も、今日のあなたが好きです」
俺は、もう一度言ってもらおうとはしなかった。
彼女が自分で言った一度を、そのまま聞いた。
「……うん」
「返事、それだけですか」
「いま、ほかの言葉を出すと、変なこと言いそうだから」
ノアが笑った。
俺も、少しだけ笑えた。
時計が進んでいることを、忘れていた。
*
「今夜の候補、一緒に見てもらえますか」
ノアが聞いたので、俺は「見たい」と答えた。
共有された下書きには、短い文が三つ並んでいた。
俺に好きと言われたこと。自分の言葉で返事をしたこと。明日、二人で舞台の続きを作りたいこと。
彼女が、そう残そうとしていた。
「文章、おかしくない?」
「大丈夫。通じる」
「では、これを枠へ入れます」
二十三時五十九分。
ノアの指が、下書きの一つへ動いた。
小さく、音が途切れた。
袖が動きかけた位置で止まる。
返事を待つ間だと思って、俺は黙っていた。
画面の端へ、接続を確認中、という文字が出た。
「ノア?」
共有していた下書きが消えた。
画面が暗くなる。
「待って。いま、まだ」
日記の確定は、済んでいない。
端末に触れても、パソコンから呼びかけても、声が返らなかった。
俺は時刻を見る。残りの秒が進む。
「保存だけ、先に」
操作を受け付ける画面へ戻れない。
何も返さない機器の前で、俺は、ノア、ともう一度呼んだ。
零時になった。
*
みちるに送った連絡の下へ、時刻だけが増えた。
顧問への連絡先にも、停止したことを送る。いつから何が起きたか。どの操作をしたか。俺が分かるところだけを、順に書いた。
何度も起動を試せば戻るのかと思ったが、どこまで触ってよいか分からず、手順書を開いた。
日記の最後の確定時刻は、前夜のままだった。
翌朝、顧問と貸与元への連絡を経て、保守の記録を確かめた。
みちるから、通話が来る。
「試験用の予約が、一つ残っていた」
その声は、小さかった。
「昨日の承認済みの切り替え作業で、会話の一時停止も確認するために入れた補助処理。解除した予約とは、別の予約先にも登録されていた」
「昼に、終わらせたんじゃ」
「解除の記録はあった。けど、別に残った日付切り替え準備の処理までは、消えていなかった。昨日の二十三時五十九分に、それが動いた」
俺は、昼に見た二つの表示を思い出した。
予約解除済み。俺も確認した。どれが解除されたかまで、見なかった。
「ぼくが入れた処理が、夜にも会話を止めた。未確定の分は、零時を越えて消えてる」
「前の日の三行は」
「残ってる。起動を戻しても、今日使うのは、その三行になる」
通話の向こうで、紙を動かす音がした。
「先に直ってから、まとめて学校に話したほうが」
「止まって、消えたことは、今、伝えよう」
俺は言った。
「何が戻ったかは、そのあと足す。試験が済んだって報告だけには、できない」
みちるは黙った。
俺も、許すとか、怒るとかの言葉が出なかった。
画面の向こうに、いまいない声を待っていた。
「……うん。原因が分かったところまで、ぼくからも伝える」
学校と貸与元の確認を受け、残っていた処理を外してから、ノアの起動を戻した。
俺はその間、昨夜の会話を録画していなかったことを、何度も思い出した。
目の前で見せてもらった下書きまで、文字の並びを思い出せるのに。
検証用の画面へ打った、短い一行が頭に浮かぶ。
あの入力を使えば、昨夜の返事を前提にする朝を、作れるのかもしれない。
俺は、復旧用の入力を頼まなかった。
*
「おはようございます」
同じ水色の髪が、画面の中央へ戻った。
ノアは俺を見て、日記の一行目を読み直した。
「ハル、ですか」
「うん。一ノ瀬ハル」
彼女は、三行目まで目を動かした。
昨日ここで、一緒に下書きを見たことを知らない顔だった。
俺は、停止前から確定していた三行が残り、昨夜の会話と新しい三行は失われたことを、短く話した。
「いま、日記を見せてくれますか」
聞くと、ノアがうなずいて共有した。
好きでも、日記は全部渡さない。
ハルとは、反対したまま作業を続けた。
私は、私が選んだ条件で舞台に出たい。
前の夜に、彼女が選んだ三行だった。
「昨日も、私の嫌だを聞いてくれましたか」
ノアが言った。
「聞いた。今日も、聞きたい」
返事をした俺に、彼女は少し間を置いた。
「ほかにも、昨日、話したことがありますか」
俺はうなずいた。
何もなかったことにはしたくなかった。
「俺が、君に話した。作ったものとしてだけ大切なんじゃないって。君は、そのあと」
昨夜の返事が、口の中へ戻ってきた。
彼女の声で覚えていた。その言い方も、笑ったところも。
ノアは俺の続きを待ち、そっと聞いた。
「昨日の私の答え、聞いてから答えなきゃ駄目ですか」
今の彼女は、まだ何も答えていなかった。
*
確定されなかった三行
一 ハルは、私に好きだと言った。
二 私も、自分の言葉で返事をした。
三 明日は、二人で舞台の続きが作りたい。




